第四十六話

 今日の聴取もいつも通りに終わった。

 フレーゲルはひとことも喋らず、ひと文字も綴らず、ひとつの問いにも応じない。役人と名乗る男ももはや諦めているらしく、体裁ばかりの質問をした後は「まったくアメリカさんにも困ったものだ、東ドイツの人間がみんな亡命したがってるとでも思ってるのかねえ……」と一方的に愚痴っぽく語りかけてきた。


 時計の針がぴったり十一時を指したのと同時に部屋を出る。廊下のベンチで待っていたポニーテールの女は跳ねるように、艶やかな金髪の女は気怠げに顔を上げた。連れたって警察署をあとにする。ここ数日変わらない、少しばかり煩わしいルーティンワーク。

 だが、それも今日で最後になる。


(今日、わたしは亡命するんだ……エレナを死なせて)


 殺して、ではない。それはフレーゲルの役目ではない。

 フレーゲルはただあの少女の言うことに従っていればいいのだ。そうすれば、いちばん明るくていちばん正しい道に進めるはずだった。


(もう、国家保安省シュタージのいうことなんてきかなくていい。少佐にメイレイされなくてもいい。エマおねえちゃんみたいなひとをだまさなくてもいい)


 考えれば考えるほどDDRドイツ民主共和国に戻る理由が消えてゆく。両親が眠る土地とはいっても葬式や埋葬に立ち会うこともできず、墓だって何度か行ったきりだ。あんな冷たい墓石の下に両親がいるとは実感できないし、信じたくもない。愛着や未練は皆無だった。

 一方、このまま西に亡命する理由ならいくらだって思いつく。


(イングリットならきっといっしょに来てくれる。いっしょにくらそう。いっしょにごはんを作って、いっしょに西のテレビを見て、いっしょにわらいたい。

 エレナのことなんてもう一生かんがえなくていい。わたし、やっと幸せになれるんだ)


 ――本当に?


 自問がちくりと胸を刺す。ほんとだよ、と唱える。どうしてそんな疑問が湧くのか分からない。

 誰かを騙し傷つけて、憎い女を殺すためだけに駆けぬける。そんな人生が幸せなわけがないし、イングリットや両親もそんなものは望まない。間違っているのだ。


 ならばそこから抜けだせるのは幸福だし、正しい。その上エレナが別の誰かに殺されてイングリットも連れてこれるのなら文句のつけようなどなかった。まして後悔など、するはずがない。


 ――本当に?


 また泡のように問いが浮かぶ。また針で突いたように胸が痛む。腹のあたりがきゅうと収縮したかと思えば、今度はざわざわと内臓が擦れあうように疼いた。

 分からない。どうしてフレーゲルはこんなに動揺しているのだろう。この選択が正しいと、それは絶対に確信しているのに……そう答えの出ない思索に溺れるフレーゲルを、無遠慮な手が引き揚げた。


「っ、」


 我に返る。目の前を通過した黄色い車体が今さらのようにクラクションを鳴らし、そのまま走り去っていった。


 足元は半分歩道を外れている。ざわめきの注目が一瞬こちらに集まり、すぐに散った。そろそろと数歩後退すれば、少し先を行っていたらしいイングリットが駆けよってくる。


「だ、大丈夫ですか!? 怪我は……あ、いやええと……こうしたことでは困ります。騒ぎを起こさないよう、きちんと監督してください」

「ええ、申し訳ありません」


 一瞬素を出してから演技に戻ったイングリットに、役柄を崩さないままエレナが応じる。その手はフレーゲルの肩をつかんでいた。そのままフレーゲルを振りかえらせ、中腰になって目線を合わせると「こら、ちゃんと前向いてないとダメでしょ」と言い聞かせる。

 赤くネイルを施した手を差し出し、見せた微笑みは、鋳型で作ったような母親のそれだった。


「ほら握って、お母さんの手」


 たおやかな表情に反して、言葉には揶揄が満ちている。お母さん。そう自称してフレーゲルがどのような感情を抱くかこの女は知り尽くしているのだろう。

 だがフレーゲルはその指を握り、都会の喧噪と人波のなか、ゆっくりと歩みを再開した。


 怒りが湧かなかったと言えば嘘になる。相変わらず憎らしいし、今すぐにでも殺してやりたい。

 だがそれはもうフレーゲルのすべきことではないのだ。この怒りを抱くのも、きっと今日で最後になる。


(この女は、エレナは、今日死ぬ。あのこが殺してくれる)


 傍らで足を進めるこの女は、あと半日もすればどこにもいなくなる。そう思うとまた胸から腹のあたりがいっせいにざわついた。


 囁きが降ってきたのは、そのときだ。


「……ね、フレーゲル。お母さんともこうやって歩いたことあると思うけど。その時どんな気分だった?」


 言葉そのものより奇妙に平坦な声に導かれ、彼女の方を見上げた。

 相変わらず擬態に隙はない。白い首筋から続く場所には、型に嵌めたように完璧な笑みがある。しかし翠色の眼球はいつか見たように――いやそれ以上に褪せて空虚を見据えている。こちらに一瞥もくれないまま、問いだけが落ちてきた。


「もう思い出せないか。三年も前の話だし、フレーゲルも今よりもっとガキだったし。お父さんはどうだった? 私が殺した、フレーゲルのお父さんとお母さん」


 語りかけているようでそうではない。独り言か、あるいはそういう機械のようだ。唇がほとんど動かないことや、いやに淡々とした口調がその印象に輪をかける。

 なのに「私が殺した」と、そこだけはわざとらしいほど語気が強い。無機質なのか衝動的なのか、その乖離に戸惑うフレーゲルをよそに、エレナは温度のない言葉を加速させてゆく。


「殺されて当然だったよ。社会主義の敵だったんだから。祖国を裏切って、どの面下げて弁護士だの教師だのやってたんだか。

 そもそも私が動く時点で相当ロクでもない連中だったってこと分からない? ほんと、死んで正解」


 殺されて当然、ロクでもない、死んで正解――さすがに聞き流せない侮辱の連続に、きっと視線に敵意を込める。しかし付け焼き刃の感情は、ようやくこちらを向いた眼光にあっけなく退けられた。


 刃物。あるいは銃口。

 殺意も敵意もない。ただ暴力的なまでの無感動だけを秘めた凍てつく光だ。あのきらきら輝いていた若葉の瞳とおなじものとは、とても信じられなかった。


 笑みを嘲りに作りかえる。またどこかから型を持ってきたような完璧さで、しかし中身がない。声も急に抑揚を増して、意図的な悪意をにじませていた。くく、と見計らったように喉が鳴く。


「あいつらの死に様、ほんと見せてやりたかったよ。みっともなく命乞いしてさ、見てられないから撃ち殺してやった。そんな奴らのために身体張って、フレーゲルってほんと面白いよ。弱くて、馬鹿で、愚かで、どうしようもなくて、くだらなくて……」


 そこでぷつりと言葉が途切れた。急に電源を切られたラジオか何かのようだ。気圧されるフレーゲルをしばし見つめ、エレナはすべての表情をリセットする。


 いつの間にか、互いに足を止めていた。通行人が足早にふたりの周りを過ぎ去ってゆく。喧騒は、遠くてとても聞こえない。

 エレナの手がほどける。きついくらい握られていたと、離れてはじめて気がつく。


「……ほんと、くだらない。つまんないよお前」


 ぽつりと呟いて、あどけない唇がちいさく歪んだ。

 乾いた音階に色彩のない瞳。しかしそれらがなにより雄弁に心を語った。いつもの分かりやすい揶揄を笑みにまぶして語る彼女ではない。


 苛立ちのような、寂しさのような、困惑のような、苦しみのような――まっさらな無表情に、未分化の情動が交錯している。


(……なに、これ)


 こんなエレナははじめて見る。そして、はじめてエレナの心を垣間見た気がする。

 思わずそこに触れようと手を伸ばし、しかし続く一手は、逆にフレーゲルの心臓を握りこんでいた。


「空っぽのお人形になって、なにか望めるつもり?」


 空っぽの人形。吐き捨てるような情念に、切りつけるような鋭さに、言葉そのものに総毛立つ。

 当惑するフレーゲルにも感情を刺激されるのか、わずか歯噛みするようにエレナの口角が下がった。


「だったら錯覚だって教えてやる。人形はなにも望めない。そう思わされているだけ、踊らされてるだけのおもちゃだろ。なにも考えないでいればなにもないんだよ、そんなのに価値なんてある? 少なくともお前は、フレーゲルは……」


 いつの間にか口を動かして喋っていた。その目にはもはやフレーゲルしか映っていない。

 名前のつけられない、きっと本人にも制御できない衝動が肌の下で蠢いている。それは少しのあいだ目尻や眉間のあたりをぴくぴく這い上がり、やがて形のいい眉を寄せたような下げたような、奇妙なかたちをつくりあげた。


「ちがうって、おもってたのに」


 途方に暮れた少女の表情。


 雨に打たれて立ち尽くすような、親とはぐれて涙ぐむような。そこにいつもの憎らしい女の影はない。

 今なら殺せるかもしれない、というくらいの無防備がほんの一瞬だけかすめて――エレナはふい、と顔を背けた。


「認めたくないなら、勝手に夢みてろ。いつか覚ましてやるから。認めてるのに肯定してるなら……それはもう、どうだっていい」


 声の末尾はすり切れるように消えていく。それを最後にエレナは歩みを進め、フレーゲルを置い越していった。


 やや先にいるイングリットはようやくこちらの異変に気づいたのか、精一杯の怒った風で、しかし気遣うような目をしてエレナとフレーゲルを見比べている。エレナは彼女に何事か話しかけ、小さく頭を下げていた。その横顔はすでに「母親」のものに戻っている。

 なのにあからさまなほどこちらに視線を向けることなく、フレーゲルもまた、どちらに駆け寄るでもなく立ちすくんでいた。

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