第五部:その激情は五感を超える

第四十五話

 ~西ベルリン滞在 六日目~


 夢を見る。夢だと分かる。

 あの日の記憶は脳へと刻みこまれたように忘れがたく、どれだけ時間を経てもシュナイダーを苛む。


 寒気かんきが静かに横たわる夜。雪の積もった街と壁。踏み台をのぼって見えるのは、壁の向こうの無人地帯。

 そこに現れるのは少女たちだ。やや大人びた格好をした姉と少年の姿をした幼い妹が、雪の舞うなか手を取りあってシュナイダーの方へと駆けてくる。


 安全性はできる限り確保していた。巡回の様子から安全な時間帯も、地雷の薄いルートも割り出している。しかし簡単に壁越えとはいかない。壁まであと数歩ほどのところ、見えない窪みでもあったのか、妹が運悪く腰まで雪にはまりこんでしまった。

 妹は静かに泣きだし、姉も少しずつしか彼女を引き上げることができない。業を煮やしたシュナイダーの身体は西側から手を差し伸べようと、壁のふちに手足をかける。


 やめろ。その先はもう知っている。頼むからここで目が覚めてくれ……

 どれだけ懇願しても身体は勝手に壁を登るし、夢が終わったためしもない。鉄条網を越えて手を差し伸べた途端、サーチライトがこちらを照らすのだ。


 見つかった。東の国境警備隊の気配がやってくる、やっとのことで姉が妹を救いだす、姉の肩車に乗って妹がシュナイダーの手を取る。

 東側からの「止まれ!」という制止を振り切って妹を引き上げた直後、いくつかの銃声が鳴り響いた。


 ……その後は、いつも切れ切れのフィルムのような光景だけだ。


 壁の下で倒れ伏し、小さく呻いている血まみれの姉。

 赤く染まっていく雪原。

 アメリカ兵のものであろう足音。

 ここで何もかもが恐ろしくなって、夢中で妹だけを引き上げるとその場から逃げ出すのだ。


「助けて、助けて! お姉ちゃんが死んじゃうよ!」


 そんな泣き声がどこまでもどこまでも追ってきた。それを置いていくように雪の街の暗がりへ逃げて逃げて逃げて逃げて――しかし辿りつく果てはいつも同じ最後の景色だ。


 呆然とアメリカ兵に保護される妹と、沈黙する壁の向こう。東西と生死の境に別たれた姉妹たち。

 しんしんと雪が降りゆく世界で、シュナイダーの罪も降り止まない。


  ***


 目が覚めたときシュナイダーが覚えたのは、抱き慣れた罪悪感と底抜けの解放感だった。


 どれだけ眠っていたのだろう。いつもより「夢」に没入していた気がする。そんな目覚めの悪さとは裏腹に、数日ぶりのまともな睡眠に頭はすっきりリセットされていた。心地よい気だるさが全身を溶かしている。

 東西に追われる現状は理解できているが、生理的欲求がひとつ解消された安心感は代えがたい。もう一眠りすべきか、とまぶたを閉じかけたところで、脳の回路がぱちぱちと瞬く音がする。


 ――本当に、自分は現状を理解できているのか?


「……ここ、どこだよ」


 半ば無意識に発した言葉を頼りに、シュナイダーは冷静な思考能力を取り戻した。


 頭上に広がるのは、コンクリート張りそのままと言われても信じてしまいそうな灰色の天井。ベッドはややスプリングが甘くなっているのか、ぐにゃりとシュナイダーの重みに従っている。

 いつもの寝心地ではない。それに気づいてしまうとどうにも居心地悪かった。


 上体を起こす。こぢんまりとした部屋だ。アールデコ調の壁紙は華やかだが、張られてから長い月日が経っているのか既に日焼けしきっていた。ヒーターの効きも若干悪く、朝の冷えた空気が染みる。

 ギターやら雑誌やらが雑然と置かれた空間はいかにも若者のそれだったが、それ以外に部屋の主の姿が見えてこない。生活感があるのかないのか一種独特な雰囲気を生んでいた。


 カーテンの閉まった窓からは明るい光が漏れており、どうやらとっくに朝を迎えているようだった。ベッドサイドの置き時計は九時一〇分を指している。それだけを確かめて、シュナイダーはベッドから足を下ろした。

 ご丁寧なことに、ここ数日履きっぱなしだった革靴がきちんと揃えて置かれている。それに足を通し、やや煤けたフローリングを踏んで扉へ向かった。鍵がかかっているなどということもない。ドアノブを回すと素直に開いた。


 短い廊下にはいくつか扉が並んでおり、右手の端に開けた戸口がある。そこからは香ばしいスパイスの香りが漂ってきており、ふいに空腹を自覚した。

 誘われるように向かう。じゅうじゅうと油の焼ける音や調理器具を操る音に混じり、涼やかな呟きが届いてくる。


「大丈夫だよ姉さん。ありがと。平気だって、心配いらな……ああ、うん、分かった」


 はにかむような、恋人に向ける睦言じみた心底愛おしそうな言葉。それを道しるべに、シュナイダーは戸口の向こうへ踏み入った。


 どうやらダイニング兼リビングらしく、内側には簡素なテーブルと椅子が、窓際にはソファとテレビが据えられている。大窓の向こうには閑散とした中庭の景色があり、どうやらここは一階らしい。食卓のほど近くにはキッチンへ続くであろう戸口が見えた。匂いのもとはそちらだろう。

 と、一通り眺めたところでキッチンの戸口から赤い髪の若者がのぞく。寒がりなのか室内の割には着こんだ姿で、こちらに小さく手を振ってきた。


「ああー。起きたんすか。そんなとこ突っ立ってないで、どっか適当に座ってよ」


 それだけ言うとまたキッチンに引っこむ。言われるがままにソファに座るが、現状が把握しきれていない段階ではどうも落ち着かない。腰を下ろしてから十秒もしないうちにキッチンへ問いかけていた。


「ここは……いやそれ以前に君だ。君はいったい……」

「あれ? 昨日のこと忘れちゃったんすか」

「いや、まあ。覚えてるが」


 昨夜の逃走劇と、助けてくれた青年。それを境にしてシュナイダーの記憶は途切れている。覚えてはいるが理解はできていない、というのが正確なところだ。


「じゃあ分かるっしょ。通りすがりのカリーヴルスト屋のおにーさんでーす」

「なんで俺を助けてくれたんだ。縁もゆかりもないだろうに」

「まー、さすがに目の前でぶっ倒れられるとね。見殺しにするのも後味悪いすよ。おっさん、腹ぐーぐー鳴ってたし」


 言われると同時、空っぽの胃がまた侘しく鳴く。無一文の我が身があまりに情けなく、さりとてそれを否定もできず、シュナイダーとしては頭を垂れて沈黙するしかない。

 しかしキッチンの方から気配が近づいてきて直後、救いの手が差し伸べられた。


「そんなわけで、ほい」


 そんな言葉とともに視界に飛びこんできたのは、大皿に乗せられたカリーヴルストだ。スライスされたソーセージがいくつも並び、透き通った褐色のソースがきらきらと朝陽に映えている。どうしようもなくシュナイダーを魅了する光景。

 これは一体。期待と驚きをない交ぜにした視線で皿と青年の間を行き来すると、思いのほか細い腕がシュナイダーの肩を抱いた。


「食べ物屋として、腹空かせてるやつは見過ごせないってね。お代はいいっすから食べちゃって」


 許しとともに差し出されるフォーク。それを奪うようにして握り、シュナイダーは口いっぱいにカリーヴルストを詰めこんだ。


 噛む間も惜しく、ほとんど食道に押しこむようにして飲みこむ。味などもはや分からない。食べられる。今のシュナイダーが理解できるのはそれだけだ。干からびていた舌にとてつもない刺激が広がって、ただ狂おしく脳幹を痺れさせてゆく。

 あの「少女」に捕らわれてからの何日か、水を口にするのがやっとの日々だった。部屋に戻るわけにもいかず、財布も持っていないから何も買うことができない。その上逃亡までしなくてはいけないのだから、正直なところ下手な浮浪者より飢えていた。


 気づけば熱い涙が頬を濡らしている。半分ほど食べて人心地ついたあたりで、抑えきれない感謝の念が言葉のかたちをとった。


「ありがとう。ありがとう、助かった、本当に……」

「うっわ、泣かれるとそれはそれで困るんすけど……おっさん、いったいどしたの」

「ああ、いや。それは……」


 どうにもうまい誤魔化しが思いつかず、またヴルストを一切れ口に入れる。そうして彼から目を逸らすとキッチンの戸口が目についた。今は誰もいないように見える景色だったが、はたと思い出す。


 「姉さん」と、彼は確かにそう言っていた。


「そういえば、お姉さんがいるのか?」

「あー……やっぱ聞こえちゃった?」

「少し。すまないな、女性がいるところに転がりこんで。というか挨拶もしないままで、ずいぶん失礼なことを……」

「いいんすよ、姉さんも放っておけないって言ってたし。まあ人見知りだから顔は出さないと思うけど……それよりおっさん、どう? 俺の十八番おはこなんすけど、おいしい?」


 隣に座ってそう問うと、青年はくりくりとした目でこちらを見上げた。小動物のような期待を無下にもできず、改めて一口食べて味を吟味する。

 良く言えばベルリンのカリーヴルストらしい味わいで、悪く言えば他と代わり映えしない。ただ一点を除いては。

 一瞬考えて、すぐに違和感の正体に気がついた。


「美味い。が、なんだろう。皮なしオーネ ダルムか。珍しいな」

「そっすか? あ、もしかしておっさん皮ありの方が好きだった?」

「いや、大丈夫だ。ただ十八番でこっちが出てくるのかと思っただけだよ」


 実際、味に特に問題はない。皮なしのヴルストは西ベルリンで少数派というだけだ。皮ありか皮なしかで選べるところもちらほら見かけるし、そういう意味ではささやかな差別化戦略なのかもしれない。

 ただ、この食感はどこかで。そう考えかけたところで、青年がへらへらと笑った。


「悪いね。俺、どうもこっちの方が美味く作れるみたいで。まだまだ修行が足りないっすねー」

「いや、ご馳走になっておいて偉そうなことは言えん。気にしないでくれ」


 そもそも命の恩人である。気にしないでほしいどころか礼をしたいというのが正直なところだ。もっとも、今のシュナイダーの状況ではそんな願いも叶わないわけだが。


 だがおっさん呼ばわりされるのはどうも……と若干の悲しさを覚えると同時、それも仕方がないことだと気がつく。

 おそらく年齢への揶揄というより、単純に呼び方が分からないのだ。口の中に残っていたヴルストを名残惜しく飲みこみ、青年の方に手を差し伸べる。


「そういえば、まだ名乗っていなかったな。ハンス・シュナイダーだ。よろしく」

「あー……なんか名前聞いたことあるかも」

「フリージャーナリストなんだ。新聞や雑誌を読むなら、どこかで見かけたことがあるかもしれない」

「あー、なるほど。ていうか俺も名前言ってなかったすね」


 そう応じる手のひらはすっきりと薄く、どこか柔い印象があった。しかし握る力に遠慮はない。まっすぐにシュナイダーの目を見つめ、にっこりと人好きのする笑みを浮かべる。

 この出会いが嬉しくてならないと、そんな喜びを語るかのように人懐こい調子で。


「フランツって呼んでよ。よろしくどーも、シュナイダーさん」

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