第四十七話
フランツと名乗った青年は、シュナイダーが平らげた皿や調理器具を片付けた直後に部屋を出た。
いくらなんでも不用心すぎやしないかとは思うのだが、事実助かっているだけに何も言えない。屋根と壁があるだけでこんなに落ち着けるとは思わなかった。テレビやラジオで情報収集も試みたが、自分の求める情報――追っ手がどのあたりを張っているかなど分かるはずもない。早々に切り上げて、ここ数日の疲労を穴埋めするかのように浅い眠りを繰り返していた。
鍵の開く音で覚醒したのは、そうした浅瀬の淵にいた頃だ。
「ただいま帰ったすよ、っと」
フランツの声が続き、反射的に身構えていた身体からほっと力がぬける。ソファから起き上がるとちょうど彼が居間に踏みこむところで、こちらの姿を認めると小さく手を振ってきた。
「あ、ああ。お帰り。すまないな、留守の間もいさせてもらって」
「いいっすよ、ここまできたら乗りかかった船だしね」
そうウインクをしてみせる彼はいかにも愛嬌たっぷりで、線の細さも相まって少年のように見える。成人前後といったところだろうにあまり背伸びした感じはしない。等身大の振る舞いは、抗いようもなく警戒心を解きほぐした。
ソファの半分を空けると、フランツはどっかりと腰を降ろして煙草に火をつける。薄いカーテンの向こうはまだ明るい。壁掛け時計は三時を目前に控えたあたりだった。
「店はもう閉めたのか? 昨日はあんな時間になっても営業してたのに」
「あー休憩すよ、きゅーけー。昼食ピークもひと段落したし、一日中路上に立ってらんないし。それにシュナイダーさん、あんたのことも気になるから」
最後の理由には、明確な含みがあった。
思わず両手を挙げる。疑われるのも当然だが、ここで警察なり何なりに突き出されるわけにはいかない。極力言い訳に聞こえないよう弁明する。
「……一応弁解しておくが、部屋のものには必要な時以外触っていない。お姉さんについてもだ。顔だって見てないとも」
事実、フランツの姉は自室にひっこんだらしく、一度として姿を見せなかった。家に知らない男性がいる状況としては極めて正しい対応だろう。フランツが心配するのも無理はなかった。
「なんならお姉さんに確認してくれていいし、心配なら今すぐにでも出ていく」
「やだなあ、そんなん疑ってないっすよ。盗られて惜しいもんもないし、姉さんについては心配いらないしね。ただ、あんたがどういう経緯でこうなってんのか、ちょっと興味湧いてきちゃって」
その言葉に嘘はないようで、肩を竦める表情に疑念の色はない。しかし目は絶えずシュナイダーに狙いを定めていた。
「世間話がてらお客さんに色々聞いてみたんすけどー……ああ大丈夫、シュナイダーさんがここにいるってこと誰にも言ってないからさ。俺だってそれくらい分かる奴だし。まあとにかく、なんか失踪してることになってんだって? 雑誌とかにも出てるよ」
言って型の崩れた鞄から取り出したのは、シュナイダーがよく寄稿しているゴシップ誌だ。
フランツの開いたページを見てみればシュナイダーについてあることないことが綴られている。早さが報道の要だとはいえ、こういうことをされると日頃のよしみも何もないな、と身に染みる。
そんなシュナイダーもよそに、フランツは煙草の匂いをさせながらぐいぐい距離を詰めてくる。
「なんでケーサツ行かないのかなあって、不思議になっちゃうんすよね。シュナイダーさん、悪い奴には見えないけどね。姉さんもいるし事情くらいは聞いておきたいんすわ。
なんていうの、コーキシン? もあるし、それに力になれるならなりたいしさ」
「力に? 君が?」
耳を疑うシュナイダーに、力強く頷くフランツ。どうやら聞き間違いではないらしい。にっと白い歯が快活に笑んでフィルターを噛む。
「そ。これでもやれることは色々あるし、人脈もあるんすよ。まあさすがにフリージャーナリストさんには負けるかもだけど……ここまできたらさ、全力で相乗りしたいんすよね」
「……君は事情を知らないからそんなことを言えるんだ。この件に深入りするのはやめておいた方がいい。命の危険だってあるんだぞ。恩人にそんなことはさせたくない」
「事情を知らないままじゃ、諦めようもないっすねー」
面白い冗談を聞いたようにころころ笑う。どう考えても事態を軽く見ているし、刑事ドラマの世界を体験する程度にしか思っていないのだろう。なにより無関係の若者だ、巻きこみたくはなかった。
突っぱねるべきだ――そう理解しているのに、シュナイダーの口は動かない。フランツの眼差しも揺らがない。煙草を灰皿に押し潰し、幼さのわずかに残る唇をまた開く。
「それに命の恩人だっていうならさ、シュナイダーさんは俺に借りがあるわけじゃんね。だったらこれで返してほしいんすわ」
軽薄な態度とは裏腹に、瞳には頑強な意思がある。一歩も引きはしない。そう告げるかにように、シュナイダーの目線を逃さないまま襟が引かれた。鼻先が触れそうな距離で吐息が笑う。
「シュナイダーさんの命、もっかい俺に預けてよ。きっとなるようになるからさ」
そこに入り混じる絶対の意志に、シュナイダーは自身の虚勢がくしゃくしゃに潰れていくのを自覚した。
巻きこむべきではない。分かっているのに、彼になら話してもいい、話さなければと感情が叫ぶ。ここまで自分は弱かっただろうか。まだ学生でもおかしくない歳の青年に、何を甘えようとしているのだろう。
しかし一度圧壊した決意はそう容易く息を吹き返さない。理性の歯止めがかかるよりも、シュナイダーが口を開く方が早かった。
「……身の危険を感じたら、いつでも話を打ち切ってくれ。俺は責めない。そのまま出て行こう」
「やりい。全然いいっすよ。ただ、」
そう屈託なく喜ぶ表情に、一瞬鋭いものが走った。
「全部。全部話して、隠しごとや誤魔化しはしないでね。したら一生許さないから」
先までと一切変わらない調子の、しかしあまりに剣呑な微笑み。
白い歯は朗らかさよりも退廃の証のように見え、襟を引く指は今にも首を掴むかのように錯覚した。この要求ばかりはなにより本気だと雄弁に語っている。
それに底冷えするものを覚えながらも、シュナイダーは不思議と、彼の言葉に逆らおうとはしなかった。
***
ハンス・シュナイダーは西ドイツ人であり、それを裏切るDDRのスパイである。しかし魂はひとかけらも売り渡してはいなかった。
彼が求めたのは金銭でも権威でもない。イデオロギー的な信心とも無縁だ。ジャーナリストを志し、東のドイツを意識したときから、シュナイダーの胸には熱が宿った。
――あの国で自由を求める声に、応えてやりたい。
青臭い思いだ。だが本気だった。密告が横行し、自由を望むことが許されない世界。そこに住む人々に手を伸ばさなければと、それがシュナイダーがDDRのスパイになった大元の理由だった。
スパイといってもシュナイダーとしては党を利用しているにすぎない。党の人間が望む情報を、西ドイツの致命傷にはならないレベルで与えつづける。
その代償としてシュナイダーはDDR国内での取材や行動をかなり大目に見てもらう。そうやって監視の目をかいくぐり、亡命希望者の連絡係になっていたのだ。
危ない橋であることは理解していた。西ドイツや連合国への背信であることはもちろんだし、DDRにとっても危険分子であることには違いない。
東西どちらもシュナイダーの味方ではなかった。それでもシュナイダーはそれを正しいと信じ、亡命支援に明け暮れていた。
しかし十年前、シュナイダーは償いようのない失敗を犯してしまう。
忘れもしない一九七二年の一月。シュナイダーはベルリンの壁で、とある姉妹の亡命の手引きをしていた。
親は別ルートで亡命し、子どもも同行していると思わせて注意を逸らす。そうして姉妹が確実に亡命できるようにする。親へのリスクが大きいやり口だったが、彼らは娘たちのためならばとこれを了承した。両親はともかく姉妹の亡命は絶対だ――シュナイダーはそう確信していた。
だが、亡命は失敗した。姉は撃たれ、怯えたシュナイダーは妹を残して逃げ去った。
我に返って現場に戻ったころにはあとの祭りで、姉妹は東西の壁に引き裂かれてしまっていたのだった。
自分のしてしまったことの罪深さに震え、その後の報道を待つ。しかしニュースでも新聞でも触れられることはなく、誰一人としてこの間あったはずの亡命事件の話など口にしなかった。
いくら人気のない場所と時間を選んで亡命させようとしたとはいえ、明らかにおかしい。確信を得るまでにさほど時間は要さなかった。
――事件が隠蔽されている。
その時頭をよぎったのは六二年に起きた亡命失敗事件だ。ペーター・フェヒターという名の一八歳の少年がベルリンの壁を越えようとし、今回と同じように無人地帯で銃撃を受け、そのまま放置され死んだ。
西ベルリンでの反発と批判は凄まじかったが、その対象には発砲した東ドイツ兵だけではなく、彼を救うことのできなかった米国兵士も含まれていた。
撃たれたとき、姉の少女は確かに生きていた。だが彼女は助からなかったのだとしたら?
あの事件同様、我が身惜しさに東西の兵士どちらもが彼女に近寄れなかったとしたら?
そして、そのまま姉を死なせてしまったとするなら――?
アメリカ軍が少女を見殺しにした。これが事実だったとして、公表すれば批判はペーター・フェヒターの時とは比べものにならないだろう。周囲に当事者以外の人間がいなかったとするなら、彼らの次の手も決まっている。
それを理解して、シュナイダーはこの世の底を見た気分になった。
この国は駄目だ。西に対しても東についても、そう確信した。
すべてを諦めようと思った。彼女たちの親も亡命に失敗し実刑判決を受けたことを知った。
空っぽの気持ちで中身のない記事を書き続け、なあなあのままにDDRのスパイを続けた。三、四年ほどを漫然と過ごし、DDRのとある弁護士から接触を受ける。
――君に協力してもらいたい。
開口一番そう言った彼は、あの姉妹の両親の弁護を受け持っていたらしい。両親は取り調べでもシュナイダーの存在を隠しぬいたが、誰にも明かさないという条件で弁護士には教えたという。それを頼りに接触してきたのだ。
――私も亡命希望者をいくらか知っている。彼らを逃がしてやってほしい。
当初は頑なに断った。もうあんな失敗はごめんだったし、東西双方に失望しきっていたのだ。この誘いをDDRに密告するのでさえ面倒くさい。もうどうにでもなれ、とさえ思っていた。
だが、彼は引き下がらなかった。
――国家は信じられなくても、そこに生きる人々の気持ちは信じてやってほしい。
――彼らは自由を願っている。この思いに西も東もない。どうか東西の境を越えて、人々をひとつにしてほしい。
――私の依頼人も、そう望んでいたよ。
その一言が止めだった。
圧し負けたシュナイダーは再び亡命の手助けをするようになり、弁護士が紹介してくる人々へ力を貸し続けた。
東西どちらにも寄らない中立的な記事を書くよう心がけ、両国の人々が互いに歩み寄れるように尽力した。反核平和運動はDDRへのカモフラージュであると同時にその一環だ。
いつかあの姉妹の事件を公表できたら、東西の人々も心から同じ気持ちを分かち合えるはず。平和と自由を求める心が彼らを結びつけるとただ信じた。
しかし三年ほど前に、弁護士からの連絡が途絶えた。
彼らの娘である幼い少女を亡命させようとしていた矢先のことだ。不幸にも事故死したと聞かされたが、国家保安省に消されたであろうことは簡単に想像がつく。
二度目の亡命失敗だ。娘は国営養護施設に引き取られたところで足取りが途切れて以降、行方は
だがシュナイダーはもう諦めなかった。DDRのスパイを演じながら孤軍奮闘で亡命支援に励む。それと並行してあの姉妹の事件を公にしようと記事を書き続ける。それがあの時救えなかった少女たちと、恩人である弁護士たちに報いる道だと信じた。
そして数日前、事態は急展開を迎える。
その弁護士の娘らしき少女がシュナイダーを訪ねてきて、彼女を装った謎の少女がシュナイダーを攫い、解放されてからはDDRの追っ手から逃げつづけている。
おそらく東に裏切りが露見した。加えて東のスパイだと発覚したため西にも追われている。
だがどちらにも捕まるわけにはいかない。もし弁護士の娘がDDRに利用されているなら、シュナイダーは彼女を救い出す義務がある。
今度こそあの少女を助ける――
それだけが弁護士に対する恩返しであり、あの時助けられなかった姉妹への償いとなるはずだから。
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