第三十五話

 エレナは言いながら大通りを左に曲がる。そちらを指す標識には「Mariannen stra.」という文字が踊っており、目的地までほど近いことを知らせていた。

 あとは元不法占拠住宅とやらを見つけるだけだ。謎のマークをもとに暗号を解いて、そのマークにまた別の見方をしながら復号後の文脈をさらに読み解く。少なくともイングリットには解けなかっただろうし、西もここまで辿りつけてはいないはずだ。エレナがいたからこそこの迅速な展開があり、本当に彼女には頭が上がらない。


 それでこの任務も終わるはずなのに、フレーゲルに迫る危機も回避できるはずなのに、イングリットの胸はひどい違和感を叫んでいた。


(なんだろう、なんだかおかしい気がする)


 そもそもとしてなぜ手紙など寄越したのだろう。そんなヒントを与えるような真似、シュナイダーにとっては致命傷ではないのだろうか。

 何も言わずに逃げればいいのだ。追っ手に向かってわざわざヒントをくれてやる必要などないはず。こちらを挑発しているのかとも思ったが、それならもっと分かりやすくて構わないだろう。フェイクまで挟んで謎かけをしたところでシュナイダーに一切メリットはない。


 ならば時間稼ぎか。意味深なヒントを蒔き、追っ手すべてを明後日の方向へ誘導する。その間に自身は逃げおおせる……

 しかしそれならそれで、答えが導き出せたこと自体に疑問が生まれる。謎が解けてしまえば、その先にシュナイダーがいないことが明らかになれば、彼の落としたヒントすべてが欺瞞だと看破されるのも時間の問題だった。

 時間稼ぎの目的を十全に果たすなら、これはただ「意味深なだけ」でいい。答えなど用意する必要はないのだ。


 なにより、これが解かせることを前提にしたパズルだとして――


(まるで、私たちにしか解けないようにしてるみたい……)


 Erdmöbel――棺を意味するこの言葉は、DDRでしか使われない。


 西ベルリン行きにあたっての研修で、西と東の言葉の違いについては丸暗記している。棺は西でSargというのだ。これが正しい解読方法ならば、明らかにイングリットたちが解くよう志向性を持たされた謎ということになる。

 西からも逃げているようだとはいえ、DDRの人間を謎解き人に指定するはずがない。自分の首を絞める行為をしてなんの得がある。少なくともシュナイダーにはないはずだ。そもそも、この謎を蒔いたのがシュナイダー当人だという物証が今のところ存在しない。


 ならば、この謎解きに価値を見いだすのは、もしかすると彼ではなく……


「ほら、着いた」


 軽やかな言葉で思索から引きあげられる。気づけばエレナは立ち止まっていて、目の前には前衛的な落書きの施されたアパートメントがあった。


 窓の合間を縫って木のような紋様が外壁中に描かれており、最上階のあたりには○の中にNの字と矢印を組み合わせたようなマークと「我々はここに留まる!Wir bleiben hier」という文字がでかでかと綴られている。DDRでこんなことをすれば間違いなく逮捕の対象だ。

 不法占拠の件があったためだろう、入り口には「関係者以外立ち入り禁止」の札がかけられていたが、エレナは構わず両開きの扉に手をかける。

 鍵はかかっておらずあっさり開いた。太陽が出ていないこともあり、内部にはうっそりと湿った暗がりが息づいている。


 誘われているようにも思われて、イングリットは思わず息を呑む。一方でエレナとフレーゲルは躊躇わず足を踏み入れていた。特にフレーゲルは焦っているのかやや駆け足気味で、それをエレナが時おり軌道修正する形になっている。どうやら彼女にはなんらかの痕跡が見えているらしい。

 床に転がる土塊つちくれを蹴り、階段を上るエレナへと足早に駆け寄った。埃くさい空気は湿り気を得てなお喉に絡まる。小さく咳きこみながら呼びかけた。


「待って、待ってくださいエレナさん、なんだかこれおかしいです」

「大丈夫。私を信じなって、悪いようにはならないはずだから」

「いえ、信じてますよ、だけど」


 イングリットが気づいたのだ、エレナが気づいていないはずがない。なのにここまで迷わず足を進められる理由が分からなかった。

 イングリットが見落としているなにかがあるのか――あるいはエレナはあえて地雷を踏みに行くつもりなのか。


(……まさか)


 西ベルリンを訪れた初日の会話が木霊する。

 ミュラーの策略についての語らい。「あの人が何を仕掛けてくるのか見当もつかない」、「行動を起こされてから臨機応変に対応するしかない」。最後には自分に任せろと締めくくり、具体的な話はなにひとつしなかった。


 ならばエレナは、どうするつもりなのか?

 ミュラーの出方を窺うために、いやそれを引き出すために、この命知らずがなにを厭うだろう。


 そこまでが弾けるように頭の中で繋がって、ひゅっと喉の奥で空気が鳴った。


「エレナさん、まさかあなた……」

「んー? あ、ここだぞフレーゲル」


 進みすぎてしまったらしいフレーゲルを呼び戻し、廊下の薄汚れた扉のノブをつかむエレナ。その横顔は獲物を捕らえる獣の目でありながら、まるで隣人を訪ねるかのように気負いない。だからこそぞっと心胆が冷える。

 きっとこの人は、自分の命をなげうつとしてもこんな顔をするのだろう。そう思うと居ても立ってもいられなかった。


「待って! ダメです、やめてください大尉!」


 言い募る。手を伸ばす。しかしエレナがイングリットのことを顧みた試しなどないのだ。


 一切の間を置かずドアノブを回し、行儀悪く足で蹴り開ける。明らかに蝶番の外れた音。手にはいつの間にか拳銃が握られていた。

 エレナは勢いを殺さず室内へ。フレーゲルも早足に続く。イングリットは絡まりそうになる足取りで部屋へ駆け込んで、ひたすらに二人の背を追った。


 部屋は控えめに言って廃墟そのものだった。広さは四メートル四方ほどだろうか。中央には粗末な椅子が佇んでいる。ボロボロになったカーテンからは外の風景が切れ切れに見えて、ベッドや棚は日に焼けて褪せていた。その一方で隅には塗料や洗剤といった用品が集められており、こちらはだいぶ新しいようだ。床もあまり埃が積もっていない。不法占拠時の名残だろう。

 一目で見渡せてしまうような空間だ。エレナ、フレーゲル、イングリットが入ってしまえばいっぱいになってしまう。クリアリングする必要すらない。

 だからこの事実は、部屋に踏み入った瞬間には明らかだった。


「誰も……いない?」


 分かりきったことを、それでも確かめずにはいられなかった。

 隠れられる場所などどこにもなく、トラップを仕掛けられる余地も見当たらない。まさかこの部屋を見ているうちに背後から、ととっさに振り向くが、廊下はしんと静かなままだった。


 待ち伏せや、罠ではない。だがシュナイダーもここにはいない……良い展望も悪い予想も外れ、イングリットは半ば呆然とするほかない。

 状況が読み切れず困惑する中、フレーゲルはひたすらにクリアリングを続け、エレナは背の金髪を揺らして窓際にしゃがみこんだ。


「イングリット、これ」


 エレナがこちらを手招く。促されるままに近寄ると、そこには見覚えのあるものが転がっていた。

 いや、見覚えがあったもの、と言うべきだろうか。転がっていたという表現もきっと適切ではない。砕け、四散し、ひび割れている。汚れた湖に揺られる白鳥の羽めいて、古ぼけたフローリングには不似合いな白さを曝していた。


「これ、私たちが渡した……」


 一昨日フレーゲルからシュナイダーに手渡したもの。彼の部屋から消えていたという、白雪姫のワンシーンが描かれた皿。

 謎を解くきっかけにもなったそれが、まるでイングリットたちを嘲笑うように散らばっている。


「……ったく。どういうことなんだか、これ」


 立ち上がり、静かに独りごちるエレナ。窓へと向けた表情は横髪に隠され、中腰になったイングリットには見えない。

 しかし拳銃を握る手には明らかに過剰な力が込められており、いつも堂々と前を向く顔もほんの少しだけ俯いている。そんなささやかな変化でも心中の一端を見て取るには十分だ。


 無言でイングリットを退けたかと思うと、ローファーの靴底で陶磁器の破片を踏み潰す。カシャン、と硬質な悲鳴が甲高く耳障りに響いた。


「……」


 もはや誰もなにも言わない。フレーゲルはもとより、あれだけ多弁なエレナも。イングリットも同様で、押しのけられた勢いで尻もちをついたまま動けなかった。

 ただ戸惑いの満ちる沈黙のなか、場違いな冷静さが感嘆をあげているだけだ。


 ああ、この人でも焦ったりするんだな――なんて、そんなことを。

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