第四部:開かれる四方へのみち

第三十六話

 どうしてこんなことになったのか、ハンス・シュナイダーには一向に理解できなかった。


「ああ、もう。畜生シャイセ、畜生、ど畜生め」


 悪態をつきながら人気のない通りを一心不乱に駆けぬける。少し前までは休息がてら路電や地下鉄を使って移動していた。しかし夕方と呼べるこの頃合い、公共交通は観光客やら仕事帰りのサラリーマンやらで混雑している。人混みに紛れるのは簡単でも、いざ追っ手に見つかった時が怖かった。


 追っ手。それが誰のことを指すのか、シュナイダーにもよく理解できていない。

 東に追われているのは確かなようだが、いったいどれだけの人間が自分を探しているのか皆目見当がつかなかった。ただ畜生と呪文のように唱え続けるほかにない。そもそもどういう因果でこんな目に遭っているのか――と、気づけば同じ問いに立ち返っていた。


 時間感覚がおぼつかないが、ことのはじまりはおそらく数日ほど前。ドイツ民主共和国DDRの陶磁器貿易会社の者と名乗る女たちが現れた日まで遡る。


 DDRからの客人にしては珍しい、幼い少女に見覚えがあった。明らかに大人用であろうコートを着こんだ無表情な女の子。陶磁器を押しつけてきた美人は自分の娘と呼んでいたが、顔立ちに似通ったところは見当たらない。その不自然さも目を惹いた。

 疑問は、彼女が白雪姫の皿を手渡してきた瞬間に氷解する。


 ――彼女は、あのDDRの弁護士の娘だ。


 三人組が帰り、自室に残したままであった亡命書類を掘り返したとき、その推測は確信となった。偽パスポート用に手配された写真は数年前のものだ。しかしこの女児が数年ほど成長すれば届くであろう姿を、あの無表情の少女は忠実にかたどっていた。

 皿の入っていた箱には暗号の紙片が入っており、昔通りに解読すれば「今夜向かう。書類を渡してほしい」という旨だった。夜の十一時ごろ、ノックに応じて扉を開ければ、うつむき気味の栗色のボブカットに大人用のコートを羽織る姿がある。それだけ確認して部屋に招き入れた。


 今にして思えばあまりに早計だった。昼のことがあった、子どもだからと油断した、そもそも負い目があった……それもあるだろう。

 しかし第一に、いつか誰かが自分を陥れるかもしれないという簡単な可能性を、シュナイダーは実感することができなかったのだ。


 なぜか手袋をはめていた手に亡命書類と偽パスポートを手渡し、様々な質問を繰り出す。なぜここに来たのか、まさか亡命するつもりなのか。しかし彼女は答えず、書類を興味なさげに検分するばかりだ。

 意図を図りかねて彼女の肩に軽く手を置く。そのとき衣服の奥に感じとった筋肉のうねりに、糸がほどけるような直感が走った。


 彼女は昼間の少女ではない。体格が違う、服装も細かなところに差異がある。いや、そもそもとして……


「君、男の子じゃ……?」


 そうぽつりと問いかけた瞬間、やっとこちらを見上げた「彼女」の瞳には烈火のごとき激情が浮かんでおり――頭部に強烈な衝撃を受けた直後、シュナイダーの意識は断絶した。


 次に目が覚めたのは埃っぽく冷えた空気の中。分厚い目隠しが視界を闇に縛りつけ、猿轡は悲鳴も怒号も呻きへ濾過してしまう。

 椅子らしきものに座らされた姿勢のまま両手両足を拘束され、身動きひとつ好きにはできない。低い男の声らしきものと幼気な子どもの声が時折遠くに聞こえた。


 暴れても叫んでもどうにもならない。時折猿轡を外されて水を注ぎこまれ、あるいはトイレらしき場所に連れていかれるだけ。そんな時間を何時間何日過ごしたか分からなくなってきた頃、救いの手は唐突に現れた。

 足音を殺しながら、しかし堂々と歩み寄ってきた気配は、確かにあの「少女」のものだ。ややわざとらしい花の匂いが鼻孔をかすめる。目は見えずとも、見下されているのははっきり分かった。


『逃がしてあげるわ。あんまりあなたがカワイソウだから、トクベツね?』


 男の子と間違えたことを謝れば、だけど。そう冷たく続ける囁きに、猿轡越しに謝罪を紡いだ。


 必死だった。たとえそれが蟻の巣穴に水を注ぐような無垢な残虐性に満ちていても、その気まぐれに縋るしかなかった。しばらく言葉にもならない呻き声をあげていると、少年の無理やり作ったような甲高い声がくすくす笑った。


『いいわ、ゆるしてあげる。今回だけよ、もう二度と言わないってヤクソクしてね』

『でもねでもね、気をつけて。あなたをおいかける人はたくさんいるの、あなたをつかまえたい女がいるの』

『うかうかしてたら、壁のむこうまで連れてかれちゃうんだから』


 言うが早いか、両手両足の拘束が解かれる。椅子から立たされて回れ右をさせられると、今度は目隠しを外された。


 目前には窓。外は曇りなのか早朝間もないのか薄暗く、しかし何時間も覆われ続けていた視界には痛いくらいに眩しい。光に目を奪われているシュナイダーを咎めるよう、背がとんとんと叩かれる。業を煮やしたのか間もなく手のひらは拳に変わった。

 振りかえるな、と言外に告げられているのは分かっていた。そのままそっと窓を開き窓枠に足をかける。眼下の中庭までは三階ほどの高さがあったが、伸び放題になっている植え込みはいいクッションになるはずだ、死にはすまい。その覚悟が鈍らないうちにシュナイダーは身を投げ出した。


 一瞬の浮遊感と自由落下。枝葉が肌を引っかく痛みに受け止められると同時、ガシャンとなにかが割れるような音が頭上で響く。「きゃっ」と聞こえたわざとらしい声は、少年なのか少女なのか分からないあの子どものものだろう。

 しかしシュナイダーは目もくれず、猿轡を外して涎だらけの口元を拭う。クロイツベルクの一角らしいあの場所から死に物狂いで逃げ出し、結果、今の状況に至っていた。


 それからおよそ半日が経つ。強くなってきた雨脚が厄介だが雨宿りをしている余裕もなく、屋根のあるところを渡り歩いている。どこに東側の手先が隠れているか分からず、西側にも頼れない。どころか西側の諜報関係が自分を追っている可能性すらあった。

 こうなれば一刻も早く西ベルリンを離れ、どこかしらに雲隠れするしかない。だが西ドイツへ続く高速道路に検問が張られているのを確認した現状、考えなしに逃亡を試みるわけにはいかなかった。


 なによりシュナイダーには目的がある。

 それを果たすためには、今ここから逃げだすわけにはいかなかった。


「あの子のことを確かめるまでは、捕まるわけにいかないってのに……畜生、畜生……」


 保身と信念。その間で板挟みになる圧力は、時が経つとともに強まるばかりだ。

 誰に向けたものでもない呪詛を吐きながら、シュナイダーは大都会の陰を駆けぬけた。

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