第三十四話
地下鉄路線をいくつも経由し、真っ直ぐ目的地に向かっているのか尾行を撒くべく複雑な経路を取っているのか分からなくなってきた頃。エレナに降車を指示されたのはコットブス門の名を冠する駅だった。
数十分ぶりに地上へ上がると雨は止んでおり、どうやら重たい雲も機嫌を持ち直したらしい。湿ったコンクリートを踏みしめて冷えた空気をいっぱいに吸いこむ。
コットブス門駅は地下鉄と都市鉄道、双方の路線が通っているようで、車の行き交う交差点にはバスがぎりぎり潜れそうな高架が走っていた。どうやらここはこの一帯の中心地らしい。
高架沿いの大通りに足を向け、エレナは迷いなく進んでいく。フレーゲルとイングリットはただついて行くだけだ。未だにどこに行くのかも、そもそもここが西ベルリンのどのあたりかも分からない。地下鉄の中で尋ねるのも憚られて今の今まで聞けずにいたが、そろそろ根気の限界だった。
「同志エレナ。このような勝手は……」
「いつも通りでいいよ。尾行はちゃんと撒けてる」
「……では、お言葉に甘えて。エレナさん、いったいどこに向かってるんですか? あんないきなり走り出して、向こうも不審がりますよ」
「もう二度と会わないんだから平気だって」
事もなげに言ってのける。その横顔にはいつも通りの笑みがあって、イングリットは無条件の信頼と不安が染み込んでくるのを感じていた。
「やっぱり、分かったんですか? シュナイダーの居場所」
「じゃなきゃこんなことしないっての。で、イングリット。ここどこだか分かる?」
「え、ええっと……分かりません」
言いながら左右に視線を走らせる。やはり東ベルリンとはまるで違った風景だが、華やかな中心街ともまた趣が異なっていた。
中心街には目が眩むまでの豊かさと活気が共存していた一方、こちらは建物や個人商店にもやや寂れた色がある。それでいてあちこちでカラースプレーの落書きが自己主張し、通行人にも若者が多かった。外壁の剥がれかけたアパートの合間には、素朴な生命力がひしめいている。
一言で評するなら「下町」だろうか。こんなところ、これまで通ったこともないはずだ。
「クロイツベルク。アメリカの管理区だ。ほら、私らが通ってきた検問所のあったとこ」
今向かってるのとは逆だけど、と補足される。確かにあちらも少々静かな感じはあったが、検問所を通ったときは眼鏡を外していたので街並みはぼんやりとしか分からなかった。こことどれほど似ているか、あるいは差異があるかは正直さっぱり分からない。
「あっちはシャルロッテンブルクとかの中心街からもそう離れてないけど、こっちは見ての通り観光向きの地区じゃない。どっちかといえば学生とかトルコ系移民とか、あとはアウトサイダー寄りの人間が住む側。
特にここらはSO36って呼ばれててね、三方がベルリンの壁に囲まれてる。要は突き当たりか。だからかは知らんけどベルリンのど真ん中なのに比較的栄えてないし、だいぶゴミゴミしてる」
「ここにシュナイダーがいるんですか?」
「そこは自分で考えてみなよ、材料はもう揃ってるんだから」
「考えてみても分からないから聞いてるんです……」
肩を落として嘆息すると、エレナは機嫌良さそうにニヤニヤ唇を吊り上げる。イングリットの戸惑いなど端から分かっているくせに。
「しょーがないなあ。じゃあまず、あの手紙。あれが大ヒントだっていうのはもう分かると思うけど」
「はあ」
「あの文章、イングリットはどう見る?」
「どうって……まあ、暗号ですよね。たぶん換字式の」
脳裏に暗号文を呼び出しながら応じる。暗号であることは一見すれば明らかで、その形式にもある程度の見当はついていた。
「アルファベットずらしたりとか、解読表に当てはめるとか。あとはなにか鍵になるキーワードが別にあって、それを使えば解けるんだと思います」
「だね。
「頻度分析が一番無難なんでしょうけど……それなりの設備か時間がないとできませんし、いまの私たちには不可能です。
それにアルファベットと数字で鍵が分かれてるなら、頻度分析でも相当骨が折れますよ。短文であればあるほど、文字の繰り返しが少なければ少ないほど、解読結果の候補は多くなるんですから」
教科書通りの回答という自覚はあったが、これが王道だろう。シフト暗号――アルファベットをいくつかずらして解読する暗号――をはじめとした換字式暗号は、「どの文字や文字列が多く使われているか」を元に考えれば解読できる。
英語圏ではEを用いる文字が多いため、頻繁に使われているこの文字はEを表すのでは、ならばその文字の前によく置かれている二文字は「TH」で、三文字合わせて「THE」を意味するのでは……簡単に言ってしまえばこんな具合で仮説をたてていき、意味の通る答えをあぶり出すのが頻度分析だ。各国情報機関ともなればその設備も技術も基本として備えられている。
だがイングリットも言ったとおり、今回の暗号にこれを適用するのは難しい。
短文かつ文字の繰り返しも少ないため、意味の通る回答がいくつも生まれてしまうはずだ。イングリットも何度か試みたが、時間と手がかりが少なすぎて諦めた。西側も答えを絞るにはいくらか時間がかかるだろう。
「だから、その鍵を手に入れるのが一番手っ取り早くて確かな手、なんですけど」
「何言ってんだか。鍵ならもうとっくに持ってるよ」
あっけらかんと言ってのけるエレナ。たたんだ傘を一回転させ、荒っぽく雨飛沫を散らす。すぐそばを歩いていたフレーゲルがかすかに眉をしかめたが、距離を置こうとはしなかった。エレナの隣数十センチ以内をキープして彼女の言葉を待っている。
ということは、フレーゲルも「鍵」のことはよく分かっていないのだろう。エレナに情報共有してもらわなければ不安だ。
「どういうことですか」
「イングリットもある程度見当ついてると思うけど。この暗号文でいかにも怪しいとこ」
「……あのよく分からないマークのことでしょうか」
暗号文に添えてあった紋様を思い返す。教会らしい十字架の家とそこから続く矢印。だが、イングリットはそれをうまく解釈できないままでいる。
「とりあえず教会に行ってはみましたけど、手がかりらしい手がかりなんてなかったじゃないですか。シュナイダーの聖書に悪戯されてたくらいで」
「イングリットさあ、もうちょい感性磨きなよ。あんないかにも怪しいの手がかりに決まってんじゃん」
「いやまあ、怪しかったですけども。どう手がかりになるんですかあんなの」
結局のところそこなのだ。あまりに分かりやすい手がかりでも暗号の意味がないのだが、あれがどう役立つのかいまいち理解できなかった。法則に従って暗号を戻すのは得意でも、暗号の解き方そのものを解明するのは向いていない。こういうとき己の頭でっかちを嫌というほど痛感させられる。
エレナもそれは承知なのだろう。さほど焦らさずに続けてくれた。
「じゃあまずシュナイダーの聖書について。中身がグリム童話集になってたわけだけど、破られたページってどこだった?」
「ええと、四七五ページから二ページ半くらい、でしたっけ。まさかここがヒントになってたり……」
「多分そこにあんまり意味ないぞ。大事なのはその内容」
「内容……?」
首を傾げるとポニーテールが重く揺れた。破られていた童話集、誰もが知るおとぎ話の一部。暗号の無機質さとはあまりに遠い響きで、手がかりになるとは少々信じがたい。
「確か白雪姫のお話でしたよね。破かれてたのは、ええと……白雪姫が毒リンゴを食べて死んでしまった場面から、王子と結婚したあたりまで……」
「もっと具体的に言うと?」
「白雪姫が死んで、生き返るまでです。あ、まさかこれが」
「近いけどまだ違う。その間、白雪姫はどこにいたんだっけ」
「どこって……」
促されて、あの童話の流れを思い出す。毒リンゴを食べて死んだ白雪姫は、七人の小人たちにより悼まれる。しかしとある国の王子が彼女を見初めてその遺体を譲り受けるのだ。姫を運ぶ家来が足を躓かせたことにより、喉に詰まっていたリンゴのかけらが取れて白雪姫は息を吹き返す。その後にはお定まりの結末だ。
その間白雪姫はどこにいたと聞かれても、王子が運び出してしまうから……と思考停止する寸前に、数日前に見たものが脳裏をかすめる。
シュナイダーへ手渡した皿に描かれていた白雪姫の絵柄。小人たちの嘆き悲しみに囲まれる少女。
この場面の前後、姫はずっとひとところに横たわっている。
「ガラスの棺……白雪姫が棺にいる間のシーン、ってことですか?」
「そ。だからこの上のマークも、多分教会じゃない」
言って、人差し指の赤い爪が五角形を描く。イングリットにもようやく理解できた。神の家のかたちをしていると思われたそれは、本来冷たい土の下にあるべきものだ。
「
「……十字架と矢印、ですか?」
「ていうか、十字架のついた矢印かな。ここくっついてるし。このマーク、イングリットは見たことない?」
「え、ええと……?」
再度首を傾げる。フレーゲルに目を向ければ、彼女は困惑をにじませて首を横に振った。
エレナは「理科の授業ちゃんと受けてる?」などとからから笑うが、唐突に理科などと言われても反応に困る。フレーゲルとふたりで顔を見合わせたあたりでエレナは重い曇天を仰いだ。
「まあこれも焦らしてもしょうがないか。
射手座。どこかで思い浮かべた言葉だと考えて、すぐに気がついた。あの広告柱にあった「星を見る会」のポスターだ。
そうだ、なぜあのポスターが気にかかったのかようやく分かった。射手座は夏の星座だ。冬の星座に混ざって名が挙げられるはずがない。これも紛れもないメッセージ、暗号についてのヒントだった。
「じゃあ、鍵はそのふたつ……?」
呟くと、エレナは芸を覚えた犬に対する笑みで答えた。それが何よりの肯定だ。
棺と射手座。ふたつの鍵、換字式暗号、アルファベットと数字。ここまで出揃えば、イングリットだってある程度の当たりはつけられる。
「さてイングリット、それを元に解読すればどうなる?」
「……」
上司の命をきっかけに、脳組織が情報を展開させる。意味をなさない文字の羅列を検分し、もっともあり得る可能性を絞り上げ、生まれた疑問は言葉となってこぼれていった。
「Erdmöbelは八文字で、Schützeは七文字。じゃあこの9はなんなんですか?」
「八文字じゃないよ。Erdmoebelで、ÖをOEに置き換えれば九文字」
「Äは? 隣のAと何が違うんでしょう」
「ウムラウトのついてる方はそのままAで読めってことだろうね。どっちの鍵にもAは入ってないからこういう手使ったんじゃないかな」
打てば響くように返ってくるエレナの言葉に導かれ、情報処理はそのつど加速した。
「『LEER HB THOMAS』……」
「正解」
軽やかな拍手が送られてくる。なんとなく意味が通じる気はするし、おそらく間違いではないだろう。だがその内容が完全に理解できるかといえば、少なくともイングリットには難しかった。
「HB……なにかの略語ですよね。
「ぶぶー。多分これ、
まあ住宅不足を憂う我らが青少年と違って、西の若い連中はカネ惜しさって聞くけど。特にこのSO36だとお盛んらしい」
即座に首を振るエレナ。さすがというか、西の事情にも詳しいらしい。西行きのための研修でも教えられなかった知識が湯水のように出てくる。
「空っていうのは、元は占拠連中が住み着いてたけど追い出された家ってことだろうね。だから今は誰もいない。隠れるにはもってこいの場所」
「じゃあ、このThomasはなんなんですか? 協力者の名前ですかね」
「違う違う。イングリット、その部分の下にあるの何?」
言って暗号文のメモを手渡してくる。例の文字列の『Thomas』にあたる箇所の下には、あのマークが書き記されていた。これの意味はもう分かったと思うのだが。
「さっき大尉が謎解きされたじゃないですか。棺と射手座でしょう?」
「半分は。それ多分、謎解きだけのヒントじゃなくて、答えへのヒントにもなってるんだよ。
そっちは普通に教会と矢印と考えて、さて、ここクロイツベルクの教会といえば?」
次に渡されたのはベルリンの観光ガイドブックだ。クロイツブルクのページはさほど分厚くない。歩きながらページをめくると、飴色に塗りこまれた聖堂の絵の傍ら、今まさに探している単語が目についた。声が呆然と文字列を辿る。
「聖トーマス、教会……」
「そ。で、その広場からまーっすぐ続いてる通りの、交差点の形見りゃ分かるはず」
ガイドブックには簡単な地図もついていた。聖トーマス教会があるのはマリアンネン
一方で広場の対岸からは長い通りが延びている。マリアンネン通りというらしいその道は、広場から少し歩いたところで別の通りと垂直に交わっていた。しかし交差点は十字に重なるだけではなく、斜めにも道路を延ばして繋がることで綺麗な菱形を描いている。
まるでそう、矢の先のように。
「つまりここ、広場からオラニーエン通りとの交差点までにあるはずの、マリアンネン通りの元不法占拠住宅がアンサー。
あとは開けゴマ、お宝が待ってるって寸法だよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます