第二十五話

 その日二回目の会談の相手は、イングリットの話では「反核平和運動家」というものらしかった。

 西ドイツへの核配備に反対し、平和を訴えかけることを主とする運動家。そんなことして核戦争になったとき困らないの、と聞けば、イングリットはあいまいに笑った。「核がない方が戦争にならないと思うひともいるんですよ、たぶん」とだけ自信なさげに言って。


 なんにせよフレーゲルにとってはどうでもいい。東のイデオロギーや東西の争いについての知識など、育児院ヴァイゼンハウスで勝ち抜いていくためのツールにすぎなかった。フレーゲルが憎悪を抱くものは西の資本主義国家でも東の社会主義国家でもなく、エレナ・ヴァイスという女ただひとりなのだから。

 だからフレーゲルはここでもソファに座り、話を聞き流してはやるべきことを待つだけなのである。


「マイセン陶磁器ねえ。嫌いじゃないけど、そういうのは成金趣味の連中だとか左翼の人間に売り込めばいいんじゃないのか? どうしてここに持ってくるんだ」

「これは営業目的ではありませんよ、シュナイダー氏。我々なりの親愛の証です」

「親愛? 光栄だな、東の国民にまで平和運動の大切さが分かってもらえるなんて」


 向かいに腰かけて鼻を鳴らすのはこの部屋の主だ。粗雑に伸ばされた髪はいかにもアウトサイダーらしい。髭面と痩せぎすの体格がやや年輩に見せているが、実際にはエレナと同齢ほどだろう。眉が皮肉げに片方吊り上げられているのがいやに目につく。

 エレナは胡散くさい微笑みをまとい、物怖じせずに返す。心なしか、ホテルのときよりもいくぶん本性に近い気がした。


「DDRでも近年平和運動はムーブメントになっていますよ。ご存知ありませんか?」

「それを党が監視してることくらいなら。これでもジャーナリストの端くれだ、そういう誤魔化しはやめてくれ」


 うんざりしたように言って手を振るシュナイダー。事実、彼の部屋はそれらしいもので溢れていた。壁には一面に写真や新聞記事が飾られ、情報のかけらが嫌でも視界に入ってくる。

 いや、壁だけではない。ソファにはカメラが安置されているし、無音にされたカラーテレビは西のニュースを流し続けている。油汚れのめだつテーブルには雑誌が積み上げられていた。猥雑なまでの情報の海。


(これで普通に暮らせてるなんて、信じられない)


 生まれてからの十二年近くを社会主義教育とともに過ごした少女の、それが素直な感想だ。

 切り抜きや雑誌の中には自国政府を批判するような見出しもいくつかある。DDRなら反体制派と扱われてもおかしくない光景だろう。


 ニコニコ笑うエレナと憮然と控えるイングリット、フレーゲルを順繰りに見回し、シュナイダーはさらに眉を寄せる。箱を抱えているからか、フレーゲルの方に向けた視線はいっそう訝しげだ。


「第一、なんで俺なんだ。俺は確かに君ら東ドイツとも多少は縁があるし、核配備には反対してるとも。

 ただ、だからって左翼だと思ってもらっちゃ困る。右翼だとか左翼だとか、これはそういう問題じゃない」

「存じていますよ。だからこその親愛の証です。DDRについても多くの記事を書いてくださっているでしょう? 西にも東にも寄らない、な視点に感銘を受けました。信じていただけませんか?」

「はっきり言うが、信用できない。他の意図があった方がよっぽど納得できる」

「ならこれもマーケティングのひとつだと言っておきましょう。西側にDDRの職人技を広めるための、ほんの小さな一手です」


 探りを入れ続けるシュナイダーに、エレナは淀みなく応じる。ラチがあかないと判断したのだろうか。シュナイダーは軽く息をつき、すっと手を差し出してきた。


「まあ、貰えるものはもらっておこう。見ての通り、ここには洒落たものがそうそうなくてね。いいアクセントになってくれそうだ」

「ありがとうございます」


 微笑んだ拍子、艶やかな金の前髪がさらりと揺れる。その隙から寄越された視線に意図を悟った。


(……よし)


 これがここに来た目的だ。膝の上に抱えていた箱をシュナイダーに差し出す。大柄な手は思いのほか丁寧なしぐさでそれを受け取り、慎重そうに蓋を開く。

 箱から引き出された手には一枚の皿があった。エレナが人気だと言っていた童話の絵柄だ。小人に囲まれて棺で眠る白雪姫が、柔らかな筆致で白い陶磁器に描かれている。

 それを目にして、シュナイダーの眉がぴくりと動いた。


「……ふうん。ずいぶん可愛い皿だな、独身男にはもったいない。インテリアにさせてもらうよ。どうもありがとう」


 言ってこちらに目線を戻す。誰かが口火を切るのを待っているような、そんな伺いの表情だ。

 しかしエレナもイングリットも口を開かず、フレーゲルに至っては言うに及ばない。結局シュナイダーは苛立ちと不審の合間のような声を絞りだし、疑い深げに眉をひそめた。


「で、他に用はないのか?」

「ええ。今後のご活躍をお祈りしております」

「あ、そう……」


 エレナの流れるような社交辞令にシュナイダーは拍子抜けした様子で息をつく。皿を箱に戻すと席を立ち、玄関の方をあごでしゃくった。


「子連れで来るところでもないだろう。気が済んだら帰るといい。君たちの党に目をつけられないうちにな」


  ***


 エレナがその問いを投げかけたのは、シュナイダーのアパートメントを出てからいくらか歩いた人混みの中だった。


「どう思う、イングリット」

「……不自然、ですね。おかしいというか、首尾一貫していないというか。いかにもなにかありそうです」

「イングリットに感づかれるならよっぽどだわ。逆にブラフって方がありえるレベル」


 けらけらと笑ってエレナは首元のネクタイをゆるめる。それとは対照的に、イングリットは眉と声をひそめて妙に深刻な顔つきをしていた。

 フレーゲルには何がなんだか分からず――というか端からそういった視点がなかったのだが――トランクを転がしながら両者を見上げることしかできない。思考の追いつく間もなく頭上で言葉が交わされてゆく。


「一応聞くけど、どのへんが怪しいと思った?」

「DDR国民って名乗った私たちをすぐ部屋に入れてお茶まで淹れてくれましたよね。でもこっちが陶磁器を渡しに来ただけと分かると、ひたすら理由を知りたがりました。

 もちろん、普通は不審に思うでしょうけど……あれだけ渋っていた割に受け取るのは妙にあっさりだったでしょう。なんというか、噛み合いませんよ」

「そだね。私らがこれだけのために来たのはおかしいけど、東の人間が来ること自体はおかしくないって、まるでそんな感じだった」


 エレナが婉曲にまとめる。シュナイダーは東側の人間から少なくない頻度で訪問を受けている可能性があると、要はそういうことなのだろうか。

 となると確かに妙だった。この西ベルリンにおいてそれがどれだけありえないことか、DDR国民たる三人は骨身に染みて知っている。


「どうしますか、エレナさん」

「どうもしない。今回の任務はあくまで接触だけだし。なにより次が詰まってる」


 イングリットの問いに、エレナは簡潔に応じた。あまり興味がないのだろう。足を緩める様子もない。


「言われた以下の仕事にはしちゃいけないし、言われた以上の仕事もしないもんだよ、我々はさ」

「は、はあ。まあ、荒事にならないならいいんですけど……」


 イングリットの考えたであろうことが手に取るように分かる。「どの口で」と、フレーゲルも同じ感想だ。

 この半年でフレーゲルもエレナの人となりというものを多少は理解していた。本当にやるべきだと思ったのならば、この女はすべてを滅茶苦茶にすることも厭わない。そのくせ辻褄合わせばかりは達者だから手がつけられないのだ。そう思えば、変な気まぐれを起こさないだけ今回はましといえる。


(でも、そっちの方がエレナの隙を見つけやすいのかな……いや、どうなんだろう、分からない)


 だって、フレーゲルが彼女の隙を突けたことなど一度としてないのだ。

 夜眠っているときも、背後を襲ったときも、彼女の部屋に潜んで不意打ちを狙ったときも、いつだってエレナは見透かしてきた。フレーゲルの決死の一手は、エレナに傷ひとつつけていない。


 この体たらくで本当にエレナを殺せるのだろうか――そんな失意に溺れはじめた思考を慌てて引きあげる。最近こんなことばかりだ。殺せるか殺せないかではない。フレーゲルはエレナを殺さなければならないのに。


「で、次ってどこだっけイングリット」

「覚えといてくださいよ……シャルロッテンブルクの商店ですね。店主がイギリス人なんですが、ものすごい反共主義者で核推進派だそうです」

「了解。じゃあイングリットの眼鏡もらっとこ。威圧感すごいし裸眼グリット」

「変な言い方やめてもらえます?」


 気がつけば、二人の背は少し先を進んでいた。フレーゲルの心中も知らず、エレナは脳天気な言葉ばかりを吐き出し続けている。

 鼻梁の通った横顔はあまりに隙なく整っていて、淡い桜色の唇はあまりにあどけなくて、睫毛のけぶる若葉色の瞳はあまりに楽しげにイングリットを捉えていた。罪などひとつもないとうそぶくような姿。


 そのすべてが悔しくて憎らしくて忌々しくて、なにより今すぐにでも殺してやりたくて。フレーゲルは知らずコートの裾を握っていた。

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