第二部: ふたつに引き裂かれた国

第二十四話

 ~西ベルリン滞在 二日目~


 そのホテルラウンジに足を踏み入れたとき、イングリットは「資本主義」というものを初めて理解した。


 まず出迎えたのは、すっきりと鼻孔をぬけていく上品なビャクダンの香り。分厚い絨毯が靴底を柔らかに包みこんで、二階まで吹き抜けになった天井の大窓からは陽の光が満ちている。

 なにより目を疑うのはカフェカウンターの籠に山積みにされているフルーツだ。ドイツ民主共和国DDRでは滅多に見ることのないバナナの房が当然のように飾られ、瑞々しいオレンジは果汁ジュースを搾り取る機械にいくつも放り込まれている。

 豊かさの権化のような光景。こんな場所、少なくともイングリットは生涯ただの一度も訪れたことがない。


 DDRではインターホテル――外国人客向け高級ホテルくらいでしかこんな光景は見られないのではないか。

 いや、インターホテルも敵うだろうか。なにせ西でも相当お高いホテルと聞く。昨日のエレナの「刺激の弱いルートを選んだ」という言葉の実感が今更ながらに胸に迫ってきた。帰りたい。

 そんなイングリットを一切顧みることなく、この美貌はにこにこ人好きのする笑みを浮かべている。


「この度はご多忙のところお時間をくださりありがとうございます。わざわざ遠いところからお越しいただいて……道中大変だったでしょう」


 そう気遣いながらも声のトーンははっきりしていて、細やかな心配りに小さな貫禄を添えていた。

 長い金髪をかきあげるとほのかに赤みがかった耳がのぞく。軽く済ませている常でさえ瞠目するのに、きっちりと化粧を整えた顔面は今や暴力の域に達している。漆黒のパンツスーツの着こなしにも隙がなく、同席するだけで感嘆なのか肩身が狭いのか、よく分からない気持ちでいっぱいになった。


 もっとも、それはイングリットに限った話でもないらしい。向かいのソファに座す中年男は鷹揚な笑いを浮かべながらも、明らかにエレナの存在に気圧されていた。


「いやあ、はは。大変とはいっても距離だけの話ですからね。東ドイツからほどではないですとも、ねえ、ええ」


 うんうんと頷く動作を何度も繰り返し、手元の煙草を点けることも忘れている男。まあ気持ちは分かる。ファッションといえば西の文化、と思っていたであろうところに、東の女がシンプルなスーツと規格外の顔だけで殴りこんできたのだ。半ば闇討ちだろう。


 男は――西ドイツにある小さな陶磁器輸入会社の代表で、核反対派を公言していると聞く――辿々しくジッポを取り出し、ようやく煙草に火を灯す。紫煙とともにいくらか落ち着いた言葉をこぼすと、ビャクダンの香りがわずかに曇った。


「しかしこう言ってはなんですが、よく許可が貰えましたね。なんならこちらから出向いても構わなかったんですよ」

「お気遣いありがとうございます。そこはもう、運が良かったとしか。党も西ドイツとの交易は重要視していますからね。そんな需要に上手く滑りこめたようです」


 そんなことをのたまう姿もイングリットからすれば白々しいことこの上ないが、傍目には思慮深い女性に見えるのだろう。事実、商談相手の男も特に気に留めたようではない。

 というよりもっと大きな疑問があるらしかった。戸惑い気味の視線が、エレナの容姿からその隣へと移ってゆく。


「しかし、まさかお子さん連れで来られるとは」


 その奇異の目をよそに、フレーゲルはオレンジジュースを飲みながら、周囲を物珍しそうに見回していた。

 さすがに彼女もこういうところでは好奇心が勝るのか、脚がぱたぱた落ち着かなげに揺れている。いかにも子供らしく微笑ましい仕草だ。とはいえ瞳は相変わらず凪いだ水面みなものようだから、いくらかは演技が混ざっているのだろう。彼女は意外と芝居が達者だ。

 せめて楽しんでくれているのは本心だといいのだが――そう思っていると、さらなる演技の申し子が嘘八百を吐く。


「申し訳ありません、この子がどうしてもと聞かなくて。ホテルに置いていくわけにもいかず……」

「ああいえ、咎めているわけではないのですよ。少々意外だったもので。東ドイツは家族揃えて西側には出さないと、そう聞いていましたから」


 エレナが小さく眉を下げると、男は慌てたようにフォローを入れる。それにエレナはたおやかな笑みを浮かべ、冗談っぽく……いや、実際冗談そのものを返した。


「家族揃って、という意味では間違っていないですね。夫は国内で仕事に励んでいますし、うちには三人子どもがいますから。私も駄目元でお願いしてみたのですが、一人くらいならば社会勉強ということで許してくれました」

「DDRでは女性も育児をしながら働くことが普通ですからね。男女の機会平等が実現されています」


 無粋な横槍。温度を一切感じさせないそれは、他でもないイングリットの口からだ。

 唖然とした視線を一身に受け、ばくばく飛び跳ねる心臓を押さえつける。内心の狼狽はおくびにも出さない。


 そう。決められた役を演じるのは、この二人だけではない。


「党の方針で託児施設も充実していますし、こうして母親が仕事に打ちこめる環境が整っています。

 もちろん母親が家のことをしないわけではありませんよ。西と違って、家事と仕事を両立できるということです」


 刺々しさを意識して語りかける。チェックポイント・チャーリーを通ったときと同じだ。西ベルリンでのイングリットは「貿易会社社員に扮した党のお目付役」。いかにもそれらしい振る舞いを刻みつけておくのも、またイングリットの役目だった。


 あからさまな毒に空気は凍りついている。ピアノの旋律と品のあるざわめきも、場の沈黙を上滑りしていくだけだ。絶妙な間をおいてからエレナが取りなすように声をあげる。いつもとは立場が逆だった。


「さ、ひとまず品物からご覧ください。お気に召すものがあればよろしいのですが」

「あ、ああそうですね、よろしくお願いします」


 そう愛想笑いを浮かべ、男は灰皿に煙草を押し当てる。次の一本に火が入ったころ、ガラステーブルの上には瀟洒なマグカップの包みが広げられていた。ことさらにこやかな語り口でエレナが続ける。


「まずこちらです。ハインツ・ヴェルナー氏をご存知ですか? 現代マイセン五大芸術家のひとりです。こんな風にメルヘンチックな絵柄が得意で、特に童話をモチーフにしたデザインがDDRでも人気ですよ。お子様から大人まで幅広く好まれておりまして……」


  ***


 約二時間後。商談としては色よい返事をもらえ、ホテルラウンジを後にしてしばし。


「最っっっ悪。煙臭い。本当無理なんだわやめてほしい」


 珍しく眉をしかめたエレナが不機嫌も露わに毒づき、口いっぱいにカリーヴルストを頬張る。咀嚼する仕草も心なしか荒っぽい。煙草の臭いをスパイスの匂いで上書きするかのような勢いだった。


 時刻は昼下がり。寒気も多少は和らぎ、天気の変わりやすい季節のわりには晴れわたった青空が続いているが、そのもとで立ち食いするエレナの心は大荒れらしい。

 フレーゲルは完全に引いているし、屋台の青年も彼女にカリーヴルストを手渡しながら苦笑いしている。自分の分ができるのを待ちながら、イングリットは上司に宥めの言葉をかけていた。


「そ、そこまででしたか? あまり気になりませんでしたけど……」

「なるよ。目の前でスパスパ吸いやがってさあ。仕事じゃなきゃ帰ってた」

「あはは……でも知りませんでした、エレナさん煙草苦手だったんですね」


 これは本音だ。二年もそばに控えた身でどうかとは思うが、今回の悪態ではじめて知った。考えてみればエレナからヤニっぽい臭いがした記憶もない。

 口のまわりを赤茶色のソースで汚したまま、エレナは唇を尖らせた。つけあわせのポテトをかじる姿は拗ねた子供のようでもあるし、それこそふて腐れて煙草を吸う大人のようでもある。


「苦手っていうか嫌いなんだよ、普通に」

「意外ですね。事務所は禁煙なのにデスクに灰皿置いてますし、むしろ吸う方かと思ってたのに。少、上司の人が吸われてても嫌な顔ひとつしませんでしたから」

「あの人については慣れてるよ。そういう人だから」


 話している間に気が紛れてきたのか、ようやくいつもの調子が戻ってくる。ポテトを口の中に入れきると、その端がにっと吊り上がった。


「でもイングリットも勘がいいね。灰皿については半分正解だ、前は吸ってたからそのまま置いてる。いざって時の武器用に」

「武器ってエレナさん……」


 彼女が言うと冗談に聞こえないのだが、さすがにこの場では苦笑するしかない。以前は喫煙者だったというのも初耳だった。つまり自分はせっかく禁煙しているというのに、他人が心置きなく吸っているのが不快なのだろうか。


(大尉なら言いかねないなあ……)


 そんな失礼千万なことを考えていると、とんとんと肩を叩かれて心臓のあたりが縮こまる。振り向けば屋台の青年がスタンド越しに顔を寄せ、小さく囁いてきた。


「おねーさん、なんか大変そうすね。お仕事?」


 問う声は思いのほか涼やかだ。年ごろはイングリットよりいくつか若いくらいだろうか。染めぬいた赤い髪がいかにも西の若者といった感じだが、くりくりとした顔立ちには男臭さがなく親しみやすい。青年、というより少年みたいだった。

 だが一歩引いてしまうのは、なんだかランゲを思わせる雰囲気があるからか、イングリットが男慣れしていなくてそう勘違いしてしまうのか。小さく距離を取り、あいまいに応じる。


「えーと、ええまあ、そんな感じですね」

「そっかあ。上の人が破天荒だと疲れるっすよね、気持ちわかるよ、っと。はいどーぞ、ポテトの量サービスっす」

「あ、ありがとうございます」


 そう差し出された紙皿を受け取ると、カリーヴルストと山盛りのポテトが乗っていた。食欲をそそる匂いが直接鼻腔に流れこみ、舌は勝手に甘辛い味を夢想する。カリーヴルストがソウルフードだというのは、西も東も関係ないベルリン市民の宿命らしい。

 屋台を離れて三人で噴水のへりに腰かける。エレナはほとんど食べ終わっており、フレーゲルは辛いものが苦手なのかソースをよけて食べ進めていた。


 このブライツシャイド広場は、地図で見ると自然公園ティーアガルテンを挟んでホテルと反対側の位置にある。

 カフェのテラス席は談笑する人で埋まっているし、ガラス張りのショッピングモールには華々しい人間の出入りが絶えない。ここからは見えないがすぐ近くに観光名所の記念教会もあるという。平日とは思えないお祭り騒ぎの賑わいだ。

 イングリットにしてみれば文化の違いを通りこして次元の違いを覚えかねない光景だったが、あのホテルラウンジの後となるといい加減慣れてきた。できるだけ気にしないようにして隣のエレナに話しかける。


「今日はあと三人くらい会うんですよね。次は二時ですし、あまりゆっくりもできないですけど」

「そうだっけ。ならちょっと休んで移動かな。次はヤニ野郎じゃないといいんだけど」

「まあ、お仕事ですし……愚痴なら後からいくらでも聞くので、喫煙者の人でも我慢してくださいね」

「えー」


 ぼやいてエレナは天を仰ぐ。横顔は相変わらずシャープな輪郭を描いており、ところどころで子供じみた仕草とのギャップが凄まじい。それも愛嬌で片付いてしまいそうなあたり、やはり彼女はずるいのだが。


(でも、本当に大丈夫なのかな)


 昨日のホテルでの会話を思い出す。ミュラーがまた何か企んでエレナたちを陥れようとしているのではないか、という不安。

 エレナは自分に任せろと言ったが、イングリットだって部下なのだ。やれることをやらなければ甲斐がない。


 それに加えて本来の目的――フレーゲルの復讐を止めるという使命もある。今だってイングリットはふたりの間に座っているし、フレーゲルは時折エレナに鋭い視線を向けている。昨夜はああたしなめたが、やはり納得できていないのだろう。

 敵地に潜み、上司からの奸計を阻止し、少女の殺意を思いとどまらせる。考えれば考えるほど難儀な使命だ。


(前途多難だけど、頑張らなくちゃ)


 そう気を引き締めて輪切りにされたヴルストを一口。ケチャップとカレー粉の単純な味だがやはり美味しい。東で食べるものと同じように。

 このカリーヴルストのように東西の境もなくなれば、こうして仲間内で相争うこともなくなるのだろうか――そんな不毛なことを、ふと思った。

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