第二十三話
ここの夜は騒がしい。前回の任務から、フレーゲルは西ベルリンに対してそんな印象を抱いていた。
だがこのホテルの周辺は違うらしく、喧騒もさほど届かない。中心街からはあまり離れていないはずだが、公園を挟んだこちら側はやや落ち着くのだろうか。真っ暗な客室にも慣れてきたころ、フレーゲルはそう分析しながらベッドから身を起こした。
「……」
イングリットは隣のベッドに横たわっている。寝息らしきものが聞こえてきてから三十分ほどが経った。フレーゲルが布団のなかでそわそわ動いても無反応だったあたり、もう寝入ったと考えていいだろう。行動を起こす好機だ。
(エレナを、殺さなきゃ)
西ベルリンに来たからといって復讐を諦める道理はない。むしろエレナにとっても慣れない土地のはずだ、突ける隙もあるかもしれなかった。
エレナはこの部屋にはいない。「母親役」のエレナが「人質の娘役」のフレーゲルと同部屋となるのは、「監視役」のイングリットがいる以上不自然だからだという。その論を唱えたのはイングリットだから、おそらくフレーゲルを見張る意味もあるのだろう。
だがフレーゲルのすることはいつも通りだ。イングリットの眠る間に部屋を抜け出て、エレナの部屋へ侵入する。そして彼女を殺そうと――
(ちがう。エレナを殺そうとするんじゃない、殺すんだ)
頭を振って弱気を遠ざける。できないと思った瞬間にすべてが終わるのだ。ならばフレーゲルはまっすぐ前を見据えて進み続けるだけだろう。父母が教えてくれたように。
半分夜闇に沈んだクローゼット、そのなかに納めた父のコートのほうに目を向ける。覚悟は決まった。
何を思ったのかエレナは銃器の予備をフレーゲルに預けていたから、幸い凶器には事欠かない。イングリットの目を盗んで身につけておいた銃をズボンと腰の間にはさみ、ゆっくりとベッドから足を下ろした。イングリットは眠ったままだ。
忍び足でドアまで近づく。ノブを回す。エレナの部屋は隣だ。すぐに鍵を破って……そう扉を開いた矢先、フレーゲルのそばをなにかが落下していくのを感じた。
りん、と澄んだ音が暗闇に響く。
足元だ。何の音なのか、どうすべきなのか。問いの嵐に思考が混線し凍りつく。数秒も経たないうちに、背後であわい暖色の光が瞬いた。
まず分かったのはフローリングに転がっていたものだ。ヘアピンと、それに引っかけられた小さなベル。ドアの縁にピンを挟んでおいて、扉が開くと床に落ちて音が鳴る。そういう仕組みになっていたのだろうと一瞬遅れて気がついた。
誰がこれを仕掛けていたのかも、同じく。
「……フレーゲルちゃん」
やや舌が回らない調子の、しかし疑いなく厳しい声。それに言い知れない不安を覚えながら、フレーゲルはおそるおそる灯りの方へと振りかえった。
ベッド脇のランプに手をのばしたまま、上体を起こしたイングリットは静かにこちらを見つめていた。視線がいやにきついのは眼鏡がないからなのか怒っているからなのか。
きっと両方だろう。それが証拠に、眼鏡をつけると角こそ取れたが、目つきは決して柔らかくはならなかった。
「フレーゲルちゃん、こっちに来てください。ドアも閉めて」
ぴしゃり、と叩きつけるような言葉が耳朶をうつ。エレナほどの暴力性もミュラーほどの威圧もないが、こういうときのイングリットには有無を言わせない頑固さがあった。大人しく言うとおりにしてベッドに戻る。
「万が一のつもりだったんですけど、まさかこんなに早く役立つなんて……」と嘆くイングリットとの間にベッドひとつ挟んで立ち尽くす。するとイングリットはここに座れ、と言うかのようにマットレスを叩いた。逆らわずに従う。
「……」
互いのベッドは数十センチほどしか離れていない。その距離でイングリットと向き合うのがやけに気まずくてじっと俯く。すぐそばにあるランプがぼんやりとしたオレンジ色で膝を照らし、足元の陰を際立てていた。
(どうしよう、どうすればいいんだろう、エレナを殺しにいかなきゃいけないのに、このひとはなんで――)
分からない。だってこういうことははじめてなのだ。
イングリットがエレナを叱責する機会は多くあれど、その矛先がフレーゲルに向くことはほとんどない。
叱る理由のほとんどが「エレナがフレーゲルに手を出した」せいだったこともあるのだろうが、単純に子どもを責めるのが苦手らしい、というのもなんとなく伝わってくる。実際に盗聴器の手前、パフォーマンスで叱りつけたときもかなりぎこちなかった。
そのイングリットがここまでするなら、要は本気なのだ。視界の外、腕一本分ほどしか離れていないところから真摯な声が降ってくる。
「いいですか、フレーゲルちゃん。率直に言います。私はフレーゲルちゃんの復讐と、それからまあ、大尉のご無体を止めるために一緒に来ました。
ここにいるうちは――いえ、東に戻っても、フレーゲルちゃんにこんなことは二度とさせません。絶対です」
最後のひとことは決意に満ちていた。イングリットが任務への同行を希望した理由など考えもしなかったが、なるほどそういうことだったらしい。
ちらりと視線だけを上に向けると、イングリットもこちらを見据えていた。厳しく細められ、しかし強い光を宿したひたむきな瞳。いやに意識へと焼きついて、すぐに目を逸らさずにはいられなくなった。それを逃げととったのか、イングリットはなおも真剣に訴えてくる。
「フレーゲルちゃんが大尉を憎む気持ちはわかります。どんな理由であれご両親を殺されたんですから、それは仕方がありません。
でも、私は大尉に殺されてほしくありませんし、フレーゲルちゃんにも人殺しなんてしてほしくないんです。それで大尉がフレーゲルちゃんにひどいことをするならなおさら」
その想いはあまりにまっすぐだ。愚直で清廉で誠意に溢れた、イングリットという人間そのもののように。だからこそどうしていいのか判断できない。
(……このひと、本当にいいひとなんだ)
フレーゲルにも分かる。彼女は疑いなく善人だ。
そんな彼女に反論することなど、きっと声が出たとしてもフレーゲルにはできない。仇を討つためなら悪魔にもなる決意を固めたはずだった。なのに、その信念や復讐は間違っていると彼女が断じる――ただそれだけのことがどうしようもなく怖い。
だから、と立ち上がると、フレーゲルに触れないまま肩を押す真似をするイングリット。若干意図をはかりかねたが、どうやらそのまま後ろに倒れろということらしい。素直にベッドに寝転がる。するとイングリットが上から布団をかけてきた。
その優しい手つきに、今はいない誰かを思い出しそうになってしまった。
「大人しく寝てください。ちゃんと眠るまで見てますからね、私」
じいっとこちらを見下ろしてくる。どうやら本気らしい。言われるがままに瞳を閉じた。
何色ともつかないまぶたの闇に、灯りのオレンジ色がぼんやり重なる。何度か薄く目を開けるがイングリットはそこに佇んだままで、そのたびに彼女は口元をむっと結んだ。
そんなことを五度ほど繰りかえしたあたりでフレーゲルも方針を変え、とりあえず寝たふりをする作戦に切り替える。だが頭はゆるやかに回転を止めてゆき、目の前も本物の闇へと移ろってゆく。
このままでは眠ってしまう。そう確信したころにはあとの祭りだった。
(こんなことしてる場合じゃないのに……わたしはエレナを殺すのに。ころさないと、いけないのに)
自らに言い聞かせる言葉は、やがてほどけて形をなくしていく。焦りも空回りすらできない。
だが心を包みこむのは無力感でも屈辱感でもなく、ただ布団のぬくもりだけで――そこから逃れるのは、どうやらひどく難しいようだった。
***
時は午後一時ごろ。第十三部隊の三人が、チェックポイント・チャーリーを通過する二時間ほど前に遡る。
東ベルリンに位置するフリードリヒ通り駅は今日も満員御礼だった。ブランデンブルク門をはじめとした名所に近いという地理的条件もあるが、なんといっても西の鉄道が乗り入れていることが大きい。東ベルリンを通る西側都市鉄道と地下鉄間の乗り換えのため、この駅は幽霊とはならないまま務めを果たしていた。
また、可能なのは乗り換えだけではない。西から東ベルリンを訪れた人々は、ここで西の鉄道に乗りこむことで西側へ戻ることもできる。
そのためここは出国検問所としても機能しており、鉄道を乗り換える人間、西ベルリンへと戻っていく人間であふれかえっていた。
むろん、そんな自由が可能なのは西ベルリンやその他西側諸国から来た人間だけだ。DDRの国民にできるのは東側鉄道の利用と、西からやってきた友人たちとの別れを惜しむことくらいである。
扇形をした建物までは長蛇の列が伸びており、誰かが一歩進むにつれ、東側の人間がひとりまたひとりと手を振りながら列を離れてゆく。誰が呼んだか「
出国者は西ベルリン市民、西ドイツ国民、その他外国人というカテゴリで仕分けされ、検問室にて詳細なチェックを受ける。パスポートと書類の照合、持ち出し禁止品の確認、その他諸々。
DDRの役人は生真面目で融通がきかない。だから少しの見逃しもないはずだ――と、それが東西を問わないドイツの共通認識だ。
だから誰も気がつかない。片や軽やかに、片やしっかりとした足取りで西側のホームに踊りでたこの二人が、形ばかりの検問しか受けていないことに。
「よかったねパパ。すごくすごーく待ったけど、ちゃんと出られて。もう東ドイツから出られないのかと思っちゃった」
「ああ」
「でもおなかすいたなあ。ねえねえパパ、西ベルリンに着いたらごはんにしようよ」
「ああ」
変声期直前の少年のような声は、しかし少女の姿から発せられたものだった。禿頭の巨漢は寡黙に応じ、巨大なスーツケースをまた抱え直す。
一方少女の側はバイオリンケースをひとつ持つだけだ。丈の長いケープの合わせ目には白いレースのワンピースが見え隠れし、その裾からはタイツに包まれた脚がわずかに踊る。徹底的に肌を隠す服装だ。育ちのいいお嬢さんと厳しい父親。傍目にはそのように映る組み合わせだろう。
クラウス・シュタインとゾフィア・シュタイン。西ドイツ国籍の親子。バイエルンから親類へ会いにドレスデンを訪れたのちベルリンに足を運ぶ。そのまま観光のため西ベルリンへ――と、書類上はそういうことになっている。
ホームは次の列車を待つ人々で混みあっており、巨漢と少女も最後尾に並ぶ。どちらもそれ以上の言葉を交わそうとしない。だが少女は明らかに舞い上がっており、肩を揺らしながら足でステップを踏んでいた。小さく鼻歌まで歌っているかもしれない。
少女の後ろについていた巨漢もそれを見かねたのか、列車が到着する旨のアナウンスが流れたあたりで抑揚なく語りかける。
「……機嫌がいいな、ゾフィア。なにかあったのかい」
「ううん、まだないわ。楽しいのはこれからよ」
少女はそう首を振り、巨漢の方を振り仰ぐ。その直後ホームに車体が滑りこみ、一瞬遅れて風が吹きすさんだ。金色の猫毛も勢いのままに翻弄され、少女の顔を覆い隠す。
だがその刹那、巨漢だけには見えただろう。少女の唇に絡みついた、不相応なほど老獪な笑みが。
「おともだちがいるんだもの、いまから楽しみでたまらないわ。ね、『パパ』」
鉄の噛みあう轟音とアナウンスと喧騒のなか、その言葉は巨漢に届いたかも分からない。だが少女はどうでもいいとばかりに列車の方へ向き直り、乱れた髪に手ぐしを入れていた。やがて乗客が降り、入れ替わりに人波が前へ前へと進んでいく。
『父親』の姿を顧みることなく歩んでいく少女。そのちょうど一歩後を追って、巨漢もトランクとともに乗りこんだ。席に腰を下ろすと同時に列車のドアが閉じる。やがてがくんと車体が動き、緩やかに景色が加速する。
東から西へ向かって。平等と平穏の世界から、狂騒と競争の世界へと。
「……待っててね、おかあさま。レニがちゃんと上手くやるから」
ぽつりとこぼした呟きは、今度こそざわめきへと溶け消える。
窓の外に視線を移した少女の顔には、夢みるような微笑みが描かれていた。
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