第二十六話

 その日、ホテルに戻ったころには夜八時を回っていた。


 四人目の訪問が長引いてこんな時間になってしまった。DDRの物品マニアだというその女性は、イングリットたちが用事を終えてもしつこくDDRについての質問を繰り出してきたのだ。

 エレナも最後は辟易した表情になっており、しかも相手が喫煙者だったこともあって、ホテルに戻るまでの道中は始終不機嫌そうに目を据わらせていた。気持ちは分かる。イングリットだってお腹が減ってたまらなかった。


 だからホテルに併設されたレストランで手早く食事を済ませ、そのまま口数少なく各々の部屋に戻り、明日に備えてぐっすり眠る――歩き疲れたイングリットはそんな理想的なプランを思い描いていたのだ。

 少なくとも一時間ほど前、シャワーを浴びていたあたりまでは。


「や、やっと寝てくれた……」


 健やかな寝息を何度も確認して、ずるずるとベッドサイドにしゃがみこんだ。それから長い長いため息。ベッドに横たわって邪気のない寝顔を見せているのはやはりというべきかフレーゲルで、ランプの灯りが柔らかな頬を染めている。


 本日の攻防は、シャワーを浴びていたイングリットがうっかりタオルを持ち込み忘れたことに気づき、シャワー室から顔を出したことからはじまる。

 そこで目にしたものは今まさにシャワー室のドアノブとベッドの脚とを紐で結びつけようとするフレーゲルの姿で、彼女が何を企てていたかは一目瞭然だった。

 温厚を自負するイングリットもさすがに堪忍袋の緒が千切れた。身体から水が滴るのも構わず彼女をベッドに連行し、有無を言わさずベッドに寝かせる。度々薄眼を開けるフレーゲルに睨みをきかせ、パジャマに着替えるなどしながら小一時間ほど見張ったころ、やっと無力化を確認できた次第であった。


(ほんと、簡単にはいかないな)


 フレーゲルを止める。それがいかに難しいことか、身をもって思い知った。

 彼女の意志は頑なだ。イングリットの言葉を聞きはするが、決して納得などしない。止められるならその分裏をかこうとしてくる。

 どうあってもエレナを殺すことだけは譲れない――幼い心身には不似合いな決意が、彼女のすべてを支配している。


 それを仕方のないことと解する反面、イングリットは悲しいことだとも思わずにはいられない。復讐心に焼かれたまま子供時代を生きるなどあまりに苦しすぎるだろう。できればそれ以外の生き甲斐を見つけてほしいし、エレナやイングリットのことなど忘れて笑ってほしい。


(でも、私じゃ力不足な感じもあるからなあ……)


 嘆息する。そもそもとして、彼女にとってはイングリットもエレナと同じ穴のむじなとしか見えないだろう。つまりは悪者だ。それでフレーゲルの心を動かそうなどと無謀にも程がある。

 とりあえず西にいる間はイングリットが頑張るとして、東に戻ったら教師にも事情を明かさない程度に話を……そんな構想を思い描いていると、フレーゲルの口元がひくりと震えた。


「……?」


 眼鏡の位置を整えて目を凝らす。まさかまだ起きているのかと思ったが、瞳はゆるやかに閉じられたままだ。いつも張りつめたような無表情も今は年相応の少女の寝顔にすぎない。

 見間違いかな、と自分のベッドに戻ろうとする直前、また薄桃色の唇がうごめいた。


 声はない。しかし明確になにかの言葉を結んでいるのは分かる。思わずフレーゲルのうわごとに合わせて唇を動かし、一音ずつその音を探っていた。

 フレーゲルの唇が止まっても同じ動きを刻んで、埋もれたものを拾い上げようとする。玉ねぎの皮を剥くような、蛹が羽化していくのを見守るような心地。その中心に指先が触れたのは突然だった。


「……『おとうさんファーティ』と、『おかあさんムッティ』?」


 囁きでひとりごちた瞬間、フレーゲルの目尻から涙が一筋こぼれ落ちた。


 意識するより先に手を伸ばしていた。小さな雫は幼い熱を宿していて、指の腹で拭うだけでも痛々しい。

 そっと顔に手を添える。するとフレーゲルは縋るように頬を寄せ、心なしか、その眉間がふっと和らいだような気がした。


 左手にあどけない寝顔の重みとぬくもり。彼女はいくつの夜をこうしてひとりで涙してきたのか。それを思うと、もはや力不足だなどと逃げてはいられなかった。


(この子を守るんだ。他の誰でもない、この私が)


 彼女のためにできることはすべてやろう。全力で、妥協も諦めもしないいままに挑み続ける。どれだけ嫌われても、そう、エレナ以上に憎まれたって構わない。


 それがイングリット・ケルナーがこの瞬間に決めた正義であり――そして、度し難いほどに厄介な我儘だった。


  ***


 少女には嫌いなものがたくさんある。かつての彼女にとって、ほとんどのものはそこに当てはまっていた。

 嫌いだ。汚い。死ねばいいのに。数えきれないほどの呪いの言葉を小さな胸に閉じこめた。するといつしか自身が呪詛の塊のようになっていて、濁った瞳で見据えた世界は、何もかもが破れて千切れて歪んで見えた。


 だが今は違う。少しだけ呼吸がしやすくて、ちょっぴり視界が晴れた気もする。なにより好きなものだってできたから。少女はこの世の中というものを、以前よりは気に入っているのだ。




 夜の帳が下りてなお華々しい、西ベルリンがシャルロッテンブルク地区。目抜き通りクーダムにもほど近い高級ホテルの一室はこの日、諜報員ふたりの詰所と化していた。


「ねえクライン。このカッコ、レニに似合うかなあ」


 少女――レニは、舌ったらずの甘い口調でくるりと回ってみせる。相手はといえば禿頭の巨漢ことクラインで、傍受機器を設置した机にかじりついている。

 第十三部隊に仕掛けた盗聴器を聞いていたのだろう。彼はヘッドフォンを外してこちらを一瞥、表情ひとつ変わらない強面で頷く。


「お似合いです。これなら少佐もご満足――」


 向こう脛にローキックを一発。見た目通りの逞しい脚だったが、さすがに容赦なく急所を突かれれば痛いらしい。小さく呻いたっきり蹴られた場所を押さえている。

 だがレニにとってそんなものはどうでもいいし、まるで被害者のような反応をしているのも気に食わない。ささくれだった苛立ちのままに吐き出す。


「全っ然ダメ。いい、こういうときはね、「いつもの服装の方が可愛くて似合ってますよ」って言うの。レニは女の子なんだから。これだからデリカシーのない大人は嫌い」


 取り繕わない地声は本当に男の子のような低音で、それにもまた腹の底が一煮立ちする。自身の声もレニは嫌いだ。その上この格好なのだから、不機嫌も止まるところを知らなかった。ふと全身鏡の据えてある方を見てしまい、自身の姿が目に入る。


 ひとことで言えば貧相。飾り気のないシャツを着こんだ上で、大人用のコートに着られている。

 先はど蹴りを繰りだした脚はだぼだぼのズボンに包まれ、鬱陶しいことこの上なかった。高級感のある部屋を背景にすると切り抜きのように浮いている。レニの好むファッションとは真逆だった。


 とはいえこれらはマシな方だ。「身体のラインを見せない」というレニの意向には沿っている。

 なにより我慢ならないのは、子猫のようにふわふわとした金髪が、今や野暮ったい茶色のボブカットに隠されていることだった。


(この髪、おかあさまのお気に入りなのに……)


 だがこの作戦を指示したのが他でもない「おかあさま」自身だと思い出し、小さく鼻を鳴らして溜飲を下げた。

 そう、自分は期待されているのだ。この程度の仕事はこなせると思われている。だったらその思いを裏切るわけにはいかないだろう。


「ま、いいわ。おかあさまがマンゾクしてくれるならガマンしてあげる」


 舌ったらずに戻って、テーブルの上の錠剤を飲み下し、適当に放置していたトランクを引っ掴んだ。トランクは大の男が入りそうな大きさだったがレニには問題ではない。そもそもレニの荷物ではない。

 ようやく痛みが治まってきたらしいクラインの傍らに放り投げ、甘い口調で命じる。


「じゃあそろそろ行きましょパパ。おかあさまの願いなら、パパはかなえてあげないと」


 言うと、クラインが若干怪しい足取りで立ち上がる。それにまた蹴りのモーションを見せつけたから、彼は無言のままかしずくようにしゃがみこんだ。

 背中を踏み台にして肩に乗る。汗なのか加齢臭なのか、脂っぽい臭いが不快に鼻の奥をつついた。不満の表明としてかかとで胸を叩く。それをなにか勘違いしたらしく、クラインはゆっくりと立ち上がった。


 二メートルを越える高みからの景色はいつ見ても新鮮だ。こればかりは嫌いじゃない。そのままクラインは空のトランクを携えて、レニを担いだまま部屋の扉をくぐった。

 廊下には人っ子ひとりいない。その隙をついて吹きさらしの非常用階段に出ると、すう、と夜の空気を吸う音が響く。瞬間、レニの視界は加速した。


 レニとトランクを抱えたまま階段を駆け下りるクライン。クラインのつるつるした禿頭にしがみつくレニ。

 思いのほか乗り心地は悪くないが、やはりいい気分ではなかった。冷たい夜風がコートと茶色いカツラをかき乱す。西ベルリンの煩い夜景が目を汚す。


 レニ・ミュラーの嫌いなものは、デリカシーのない人間。おおむねの大人。頑迷な東の連中に下劣な西の諸々。まだまだある。レニから見ればこの高級ホテルも汚濁の園のようなものだった。反吐が出そうだ。

 だが今は好きなものだってある。甘いお菓子、可愛らしい洋服、女の子らしいものはみんな。だからそう、一途な気持ちだって尊いと思うし、誰かを愛する気持ちも知っている。


 そして大好きなひとのためならば、レニはいくらだって頑張れるのだ。

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