第二十一話

 ~西ベルリン滞在 初日~


 四月も間近になったある日、そのアメリカ兵は白塗りのプレハブ小屋の脇からベルリンの壁を眺めていた。


 西側の壁の向こうには百メートルほどの無人地帯が横たわり、もうひとつの壁を越えた先には東側の検問所がある。無機質なコンクリート造りの監視塔が壁から突き出ており、何人かの兵士が職務に励んでいるのが見えた。

 そのうちのひとりの視線がこちらを向きかけて慌てて顔を逸らす。目が合ってしまうと、なんだか気まずい。


 ――顔が見える距離に共産圏てきの兵士がいるっていうのは、いつまで経っても慣れんな。


 そう内心で苦笑するも、表情はいたって生真面目を保つ。今の彼は西ベルリンにおけるアメリカの顔だ。仏頂面の東ドイツ兵に舐められるのも癪だし、気の緩んだ警備兵がいた、などと市民からクレームでも入れられればことである。

 そういう意味でもこの検問所――チェックポイント・チャーリーの仕事は楽ではない。利用人数という意味では人の絶えないフリードリヒ通り駅検問所の方が大変だろうが、こちらは外国人観光客や連合国軍の関係者にとっては数少ない通り道だ。

 つまりは小金持ちやお偉いさんと接する機会が嫌でも多くなる。物分かりの悪い士官に当たった時など悲惨で、兵士にとっては気が重いことこの上なかった。


 だが基本的には存外余裕のある職場だ。なにせここの出入りは素通り同然である。

 そういうお役所仕事は東ドイツ側がいやというほど徹底しているから、手続きのたぐいは彼らに丸投げしているようなものだった。もっとも、ことさら物々しく構える東ドイツに対し自由で余裕のある西ベルリンをアピールしたい、という連合国側の政治的意図もあるのだろうが。


 どうあれしがない一兵卒は職務を全うするだけだ。ようやく春の陽気が混ざってきた気温のなか、彼はキビキビとして見えるよう振る舞う。そうしてもう一度無人地帯の方に視線をやると、ふと、こちらへやってくる一団が目についた。


「ん……?」


 思わず呟く。スーツ姿の女がふたりと子どもがひとりの三人組だ。それぞれ一〇歳ほど離れているようにも見える。妙に年齢の開いた組み合わせだったが、母娘とその付き添いと思えばおかしくないはずだ。


 そう言い聞かせても違和感がまとわりついて離れない。歩みがこちらへ近づいてくるにつれ、ただの勘は確信へと変わっていく。

 どこかがおかしい。何が、とその一団だけを目で追って、彼女らが西側の壁を越えたあたりで気づいた。


 トランク。女の片方と少女がトランクを持っている。

 基本的に西側からの観光客には日帰りビザが発行されるため、トランクが必要になるような旅程はほとんどない。土産物を詰めこんだにしてもひとつが限度だろう。なにより西側の人間が東側で買うようなものなどそうそうなかった。せいぜいが物珍しい社会主義グッズか、東ドイツが外貨ほしさに格安で売っている輸出用製品くらいなのだ。


 違和感の正体を理解して、生まれたのは明確な警戒心だった。彼女らが検問所に差しかかるより先にこちらから駆けよる。


「失礼。ちょっとよろしいかな」


 にこやかな表情を意識して、英語で話しかける。無視されるかとも思ったが、目つきのきつい女性がこちらを見やり、凜と反駁してきた。


「私たちになにか?」


 滑らかだが、少し堅い英語だった。おそらく話し慣れていない。警戒心が伝わらないよう、宥める調子で問いかける。


「いや、少し気になってね。国籍はどちらかな」

「どういう意味でしょう」

「たいした意味はないさ、ちょっとした出口調査みたいなものだと思ってくれ」


 そう肩をすくめると、女はさらに目を眇めた。こちらを見極めようとしたのか内心を悟られたのかは分からない。だが少々の時間をおいて、女はため息のように告げた。


「ドイツ民主共和国ですが」


 やはり――と、驚愕よりも納得が先に来た。


 ほとんど予想通りだ。トランクを持っていたのも英語が堅いのも、彼女たちが東側から来た人間だから。謎はほとんど解けた。それを許される人間が極端に少ないことを除けば、だが。


「どういった用事でこちら側に? 相当の用じゃないと、その、難しいだろう。そちらからは」

「難しいことなんてありませんよ。仕事です。党から指示されて、それで」

「滞在期間は?」

「党からは一週間の猶予を貰ってます。少し長引きそうな商談なので」

「あっちの二人とはどういった関係で?」

「同じ職場の人間と、娘ですね」


 と、背後の二人――眼鏡をかけた女と大きめのコートを羽織った少女の方を見やりながら応じる。英語での会話がよく分からないのか、眼鏡の女は心配そうな、少女は退屈そうな目でこちらを見守っていた。どう見てもただのいち市民の反応に思える。


 だが聞いたことがあった。自国民の亡命を許さない東ドイツでは、何らかの事情で西側に出るにしても党の人間を同行させ、さらに家族を国内に残す必要がある。人質のためだ。多くの場合、それは夫妻のどちらかと子どもであると。

 そんな東ドイツが母娘の出国を認めるだろうか。そしてこの女は、党の人間ではないのだろうか。


 疑問は膨れ上がっていくばかりだ。目つきの悪い女はそれを読んだかのように、無人地帯の先を指す。

 検問所。高速道路のゲートのような口を通し、車や人を東西に行き来させる小さなポンプだ。


「私たちはDDRの検問所を通ってきました。疑うのなら、あちらに聞いてくださっても結構ですが」


 提案する言葉はほとんど冷笑だった。要はアメリカ兵として東ドイツにケチをつけろと言っている。下手をすれば外交問題になりかねないのだ、ただのいち兵士の独断でできることではなかった。

 だから彼は苦々しい思いで首を振り……最後に残された一手を放った。


「いや、それは問題ない。ただ、最後にトランクの中身を見せてくれ」


 告げると、女はあからさまに視線を鋭くした。


「検問所でも見せましたが。まだ必要なんですか?」

「一応だよ。こっちから行って帰ってくる奴は多くても、あっちから来る人間なんて珍しいからね。それだけで構わない」

「なるほど、分かりました」


 そう頷いて、女は脇道にトランクを横たえる。ぱちりと留め金の外れる音がふたつ。ゆっくりと開かれていくトランクに、兵士は思わず息を止めていた。

 現れたのは旅行準備一式だ。着替えや化粧品が大半を占めている。許可を得て軽く広げてみるが、怪しいものはいくらもなかった。ごく普通の、質素な東ドイツ製品だけだ。


 しかし見込み違いだったと断じるにはまだ早い。トランクは、もうひとつある。


「ありがとう。それで、そちらのお嬢さんのトランクは?」


 そう目をやると、眼鏡の女と少女がびくりと身を震わせた。

 ずっと気になっていた。振り回されている様子を見るに、あちらのトランクは少女が持つには重いはずだ。それでもトランクを交換しない理由。重要なものを子どもに任せるはずがない、そんな盲点を狙っている可能性がある。


 兵士が一歩詰め寄ると、少女も意図を悟ったのか、無表情ながら顔色を変えた。いやいやと首を振って後ろに退がる。だが背後には建物があるため、すぐに壁に突き当たった。トランクの取っ手を握る手に力が入るのが分かった。

 どう説得しようか考えあぐねていると、そばにいる眼鏡の女が「いいから見せて」というようなことをドイツ語で言う。少女はそれに驚いたような視線を向けたが、数秒迷って結果、渋々とトランクを地面に置いた。

 留め金が外れる。上蓋が上がっていく。その中身を見逃さないよう目を凝らすと、鈍い光沢が垣間見えて鼓動が跳ね上がる。


 銃器か――その予感はしかし、少女がトランクを開ききるころには霧散していた。

 陶磁器。白を基調にして青や黒で彩られた繊細な皿やティーカップが、透明な梱包材に包まれていくつも鎮座している。


「仕事道具です。重いものですが、この子が持ちたがるので。高価なのであまり人前に出したくないのですが、もういいいですか?」


 そう冷めた声に肩を叩かれる。頷くほかなかった。これ以上は引き留められない。

 少女がつたない手つきでトランクを閉めなおし、また重そうにトランクを引きずりはじめた。眼鏡の女がそれを支える。目つきの悪い女はこちらに目礼だけして、三人で通りを下っていった。


 白いプレハブ小屋に戻れば、先のやり取りを見守っていたらしい同僚が窓から身を乗り出してくる。その耳元に口を寄せた。


「あの連中のこと、一応本部に連絡しよう」


 そう告げると、同僚はあからさまに顔を歪める。


「おいおい正気か。女子どもの旅行客だろ、東側の人間だからってスパイなわけあるかよ」

「念のためだよ、何かあってからじゃ遅い」


 分かってくれ、と駄目押しする。すると同僚も折れたのか、ゆっくりと無線に手を伸ばした。渋々とした口調で本部に一報を入れる。

 女三人、しかもうちひとりが少女のグループが怪しいなどと、信じてもらえないだろう懸念はあった。そもそも兵士自身としても現実味がない。あの少女はきっと、自分の息子と同じくらいの年齢だ。


 だが脅威の可能性を見逃すことはできない。ひとつたりとも、たとえ後で笑い話になるとしても。

 自分は、兵士なのだから。


  ***


「……あれ、絶対通報されますよね」

「まーそうだね。イングリットめちゃくちゃ睨んでたしさあ」

「よく見えないんですよ、誰かさんが眼鏡取っちゃったから! 危ないですしもう本当返してください……」

「だーめ却下。もうちょい離れてから」


 大通りから地下鉄に降りつつ、小声で言葉を交わすふたり。イングリットは本当に難儀しているのか、その目つきは別人のように悪い。兵士と会話している時など、冷徹そうな口調もあって誰か疑うほどだった。眼鏡をかけて無害な一般人のふりをしていたエレナも相当だったが。

 それにしても、と手元のトランクを見下ろす。あの兵士にトランクの中身を疑われたときは焦った。銃かなにかが入っていると思われたのだろう。無理もない、そもそもフレーゲル自身……


「銃でも入ってると思ってた、フレーゲル?」


 耳元で囁きかけられて、生理的な嫌悪感が肌を這った。


 振り向けば思いのほか近くにエレナの顔がある。甘ったるい香りが鼻先を侵し、悪戯っぽい瞳がレンズの向こうでにんまり笑った。陶磁器入りのトランクを軽く支えて、フレーゲルを促すように一歩を踏み出す。


「銃器の調達はこれからだ。さて、西の連中に張りつかれる前に済ませるかな」

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