第二十二話

「今回の目的は、端的に言っちゃえば西ベルリンを引っ掻き回すこと」


 そうエレナが口火を切ったのは、正式にイングリットも任務に同行すると決まった日のことだ。

 フレーゲルは学校に行っていて不在だった。基本的にエレナは彼女も含めた場で任務の話をすることが多かったから、今にして思えば、この時点で不自然だったのだ。


 エレナは行儀悪くも椅子ではなく社長机に腰を預け、ストローでジュースを啜る。オレンジ色の液体が底をつくと、物足りなさそうにストローを回しながら先を続けた。


「今の西欧諸国は官民の足並みが揃ってない。ポーランドが戒厳令出したのもあって、NATOは社会主義陣営うちらへの警戒を強めてる。

 向こうにすりゃソ連を牽制するのは必須だし、西欧への核ミサイルパーシング配備は不可避って流れだ。そこから双方で核減らしていこうってのが二重決定の建前なわけだし」


 昨年――八一年の十二月、ポーランド統一労働者党は戒厳令を発布した。

 一年半ほど続いていた労働者グループ『連帯』の活動が反体制的とされ、公的に非合法化されたのだ。自分たちの任務とエレナのリーク――DDRの二重スパイになろうとした米工作員を『連帯』が爆殺したのは、彼らがCIAと繋がっていたからだという状況のねつ造――がそれに影響したのかどうかは、定かではない。


 ただ確かなのは、資本主義諸国が社会主義圏に対して警戒を強めているという、その事実だけだ。


「でもそれでソ連がキレて先に核を撃ってきたら? 万一核戦争になったら?

 そう思っちゃうのが民間人様だよ。矢面に立たされる可能性の高い西ドイツでは特にだ。だから反核デモとか平和運動が流行ってる」

「はあ、なるほど……」


 それ以外に言えることもなく、イングリットは生返事を返す。平和運動自体はDDRにも存在する。しかし党に疎外されている教会が中心になっていることもあって、勢いはさほど強くなかった。

 一方西ドイツをはじめとする西側諸国では数万人規模のデモが起こることもあるという。イングリットには想像もつかない。


 それより気になるのは、いまいち話の内容が見えないことだ。

 西の反核運動に政府と市民との乖離。これまでの任務にはほとんど関わりなかった話だった。だからエレナがこうして話を一段落させたときにも、納得しがたい気持ちばかりが残る。


「ってなわけで、ありがたくそれにあやかろうっていうのが今回の趣旨だ。DDRで反核運動なんて冗談じゃないけど、西むこうでやってくれる分には万々歳だから」

「ええと、それって……」


 たまらずイングリットが問いかけようとすると、エレナは「しー」と赤い爪の先を口元にあてた。今は聞くなと、そういうことらしい。

 わずかな沈黙を誤魔化すように飴をひとつ投げてくる。イングリットが慌ててキャッチしている間にエレナ自身も飴玉を口に含み、もごもごと頬を動かした。


「いかにも簡単そうな話に聞こえるけど、難易度は決して低くない。この作戦書、但し書きがいくつかあるんだけど。その中に『西側情報機関の目を引きつけろ』ってのがある」

「えっと、どういうことですか」

「西ベルリンで核配備推進派・反対派問わず西側の人間と接触する。で、それをMI6やらCIAやらの連中に補足させる。まあ要するに西側を攪乱するんだよ」


 西側の人間にスパイの疑いをかけ、各国諜報機関の情報を混乱させる。立派な破壊工作だし、極秘でしかできないことでもある。だがやはり得心するには遠い。「なんでですか」と曖昧に問いかけようとしたのと同時、それを見透かしたようにエレナの言葉が続く。


「核抑止って考えは一致してても、ソ連にバカスカ経済制裁出して緊張を煽る米国ヤンキーと、ソ連から天然ガス買ったりしてるから経済的には大ごとにしたくない西欧諸国。NATOもNATOでいまいち連携が取れてない。混乱させるにはもってこいだ。

 特に今は米ソの軍縮会議やG7のサミットも控えてそこそこ大事な時期だし、もっとバラバラにしておけば帝国主義者ファシストどもの力を削ぐことにつながる。


 要は西側諸国をうまいこと迷走させて、市民からの信用度を落として、反核運動をもっと盛んにさせる。それが今回のお仕事ってわけ」


 そう珍しく丁寧に教えてくれるものの、やはりイングリットの知りたい答えではなかった。続くのはがり、と飴玉を噛み砕く音だけだ。どうやらこの場は徹頭徹尾はぐらかすつもりらしい。

 イングリットの沈黙を了解ととったのだろう。唇を舐めたあとのエレナの笑みは、芸を覚えた犬に対するそれだった。


「党は私らが西の連中の気を惹くのをお望みだ。だったらDDRの顔として恥ずかしくないよう、華々しく踊るとしよう。分かったアレス クラー?」


  ***


 鉄道を一度乗り換えて、やっと眼鏡を返してもらって、本当にどうやったのか公園に隠していたらしい銃器を回収して、ホテルに着くまでざっと一時間半ほど。だというのにイングリットはすでに疲労困憊の極みにあった。


 別世界。そうとしか形容できなかった。

 東側では近づくことも許されない壁は落書きだらけで、あちこちで奇抜なファッションの若者たちが集まっては大笑いしている。道行く車はすべて違う種類のようにも見えた。怪物じみたモノと喧騒の渦だ。質素で静かで穏やかな祖国とはなにもかもが違う。


 すでにベルリンの壁を「対ファシズム防壁」と呼ぶ党の言葉を信じるほど純朴でもなかったし、エレナの部屋で西のテレビ番組を見たことも一度二度ではない。だが壁の向こうを目にしたことで、西と東は相容れないのだと実感として打ちのめされる。エレナ曰く「これでも刺激の少ないルートにした」らしいのだから、明日からの行動がなおのこと不安になった。

 だが不安なことはそれだけではない。むしろイングリット個人の問題ですまない分、こちらの方がよほどやっかいだ。フレーゲルをホテルの探検という名目で外にやり、重い身をベッドから起こす。そこでようやく、傍らで退屈げに腰かけるエレナへ問いかけた。


「ねえ大尉、やっぱりなんだか気になりませんか」

「んー、わかるわかる。西の割に大人しいホテルだなあとか思ってる顔だな。市街に行けばもっと派手な成金ホテルもあるんだよ、党が愛する人民をそんなとこに泊まらせたがらないだけで。目がくらんでそのまま逃げられたら困るし」

「違います。というかそんな事情があったんですかこれ」


 やっと人心地つく場所に来れたと思っていただけに寝耳に水だった。エレナの言うことだからどこまで真実かはわからないが。


 ベルリンいちの自然公園・ティーアガルテンの西に位置するこのホテルは、一言でいえば趣味がいい。周辺は閑静だが決して寂れてはおらず、外観も身構えていたほどけばけばしくなかった。小綺麗なアパートメントと聞けば信じてしまうかもしれないシンプルさだ。それでいて内部は洗練されており、通された客室こそやや手狭な感じがあるが、カラフルで調和のとれた配置のインテリアが心を安らげる。

 イングリットにしてみれば満点だ――これが任務でなければだが。


 こほんと咳ばらいし、他の誰が聞いているわけでもないのに密やかな声で問う。


「今回のこれ、なんですけど。私たちの仕事じゃなくないですか?」


 それは任務の詳細を聞いたあの日から、ずっと心にわだかまっていた言葉だった。


「えー、イングリットってばサボタージュに目覚めちゃったか。いーけないんだー本部に言ってやろー」

「ふざけないでください。だって何か、おかしいじゃないですか」


 エレナはけらけらと笑ってこちらの鼻先をつつくが、その指を払って詰問する。からかって誤魔化せる段階ではない。イングリットだって伊達に二年近く危ない橋を渡っているわけでもないのだ。やや早口気味にまくしたてる。


レヴィーネ機関わたしたちのターゲットは、DDRでの反革命行為を支援する危険分子スパイ。使命は手段を問わず彼らを排除し祖国を防衛すること、でしょう? 過激ではありますが要は防諜の枠内です。

 でも西側の攪乱って、そんなの諜報や謀略の域じゃないですか。分野が違いますし畑違いです、なんだか噛み合わないですよ」

「って言われても、少佐からのお達しだからさあ。多少管轄外でも従うしかない」


 動じた様子もなく肩をすくめるだけのエレナ。イングリットが不審に思うのだから彼女が気づかないはずもないのだが、言葉通り受け流しているのか、それに足る事情を把握しているのか。いつも通りのにやにや笑いからは見当もつかなかった。


 いつものイングリットなら諦めの息だけ吐いて、それならそれで構わないと思ったかもしれない。エレナは圧倒的な力量を持つ上司だし、イングリットも彼女のそういう面は信じている。

 だがここ半年については事情が違った。何人も殺して教会を丸々ひとつ焼き払ってやっとなんとかなった一件を、イングリットはまだ忘れていない。


 エレナの肩をつかむ。はじめて触れたそこは思いのほか華奢だ。どこにあんな馬鹿力があるんだと場違いな疑問を抱きながら、彼女の半身ごと振り向かせた。若葉色の視線をまっすぐ捕らえて一語一語を重く発する。


「従うしかないじゃないんです、真面目に考えてお話ししてください。

 以前の『連帯』との件が関係してるんじゃないんですか? あのとき、大尉はミュラー少佐に嵌められかけてたんですよね? 今回も同じような意図じゃない保証なんてどこにも……」

「あー、まあそうだろうね。ていうかそうじゃないはずがない」


 しごくあっさりとした肯定で、呆気にとられるより頭に血がのぼった。

 ベッドへ思いきり拳をたたきつける。が、ふかふかのマットレスに痛みもなく跳ね返された。若干の空回りを感じながらもエレナの肩を揺らして食ってかかる。


「だったら対策とか立てましょうよ! このままじゃ前の二の舞……いえ、それ以上だってありえるじゃないですか! 大尉は平気なんですか!?」

「へーきへーき。っていうか正直あの人が何してくるかなんてよく分かんないし。

 その上西ベルリンで一週間なんて、いつどこで何仕掛けてくるのか見当もつかんよ。だったらヘタにビクビクして疲弊するよか、臨機応変に対処した方が賢明ってやつ。前もそうだったじゃん」

「そんな呑気な……前回だってやっと凌ぎきっただけって言ってたじゃないですか」

「前回だって、事前にどうにかできたと思う?」

「う……」


 応酬はイングリットの側で絶たれた。この反論はずるい。返す言葉がないというより、本当に思いつかないのだ。


 次似たようなことが起きたらどうすべきか、あのときイングリットたちはどうすべきだったか、考えなかったわけではない。しかしどれだけシミュレーションを繰り返そうと、前回の罠を予期することは不可能だったという結論に至るのだ。

 ミュラーは常通りの振る舞いをしており怪しい点は皆無だった。現場の監視は別の管轄にされていたから、ミュラーたちによる爆弾の設置を把握することも難しい。

 強いて言うなら狙撃ポイントの司祭館を先に押さえていればあるいは、というくらいだが、教会の制圧作戦を目前に控えた状況でその選択肢はありえなかっただろう。少なくともイングリットたちには、あの状況を見抜く手立ては存在しなかった。


 改めて思うと、ミュラーの策は隙がないゆえにシンプルだ。あらかじめ道に誘導しておき横合いから不意を打つ。

 ならば対策として有効なのは「提示された道筋を疑う」ことになるのだが、今回については一週間という期間での任務となる。エレナも言うとおりミュラーの出方を読むことは難しい。


 だからといってああまで割り切れるほど、イングリットは楽観も達観もできないのだが。


「それに元々、西の連中の眼をこっちに向けさせるのが前提の任務なんだし。敵に監視されてる状況下の私らに少佐も派手な手は打たないよ。熱視線がひとつ増えるだけと思えばいいじゃん。有名人になった気分でさ」

「大尉はまたそうやって適当なことを……いいですか、もっと真剣にですね、」


 と再考を促そうとしたところでドアノブの回る音がした。フレーゲルが戻ってきたのだろう。彼女の前であまりこういう話はしたくない。慌てて口を噤む。

 不満丸出しで押し黙ったイングリットを横目で見やり、扉が開くまでの一瞬。今度はエレナがこちらの肩を抱き寄せ、耳元でふっと囁きかけた。


「心配ないよ、私が上手くやるから。かわいいかわいいイングリットの上司なんだし」


 言葉は吐息とともに鼓膜を撫でる。胸が小さく跳ねたと同時、何気ないすべての存在感が膨らんで、イングリットの意識を侵略してきた。


 肩へ回された腕からエレナの体温が伝わる。そこから身体が熱くなってきて、妙に居心地が悪くなって肩をすくめた。するとエレナはまた抱き寄せる力を強めるから、彼女の髪が一条イングリットの素肌に降り立つ。

 毛先の感触がくすぐったい。バニラのふわりとした甘さがむずがゆい。それだけで頭がいっぱいになる。先までの言い合いがどうでもよくなるくらいに。


 エレナは計算でこうしたことをしているのだろうか。わからない。だがどちらにせよ、イングリットの感想としては同じだった。


(こういうところが、本当にもう、大尉ってひとは――)


 ずるいのだと、そう思う。

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