第二十話

 人民公社VEBベルリン陶器貿易は、東ベルリンがフリードリヒスハイン地区に居を構える国営貿易会社である。

 設立はベルリンの壁ができて間もない一九六五年、主な事業内容は陶磁器の輸出入。マイセン陶磁器を多く取り扱っていることもあり、小さな会社ながら運営は堅実だった。少なくとも党を満足させるくらいには。


 しかしそこに裏があることを知る者はごく少数だ。国家保安省対テロ特務機関、レヴィーネ機関。その第十三部隊と称される防諜部隊のアジトというのが真の姿で、どんな因果か、イングリットもその末席に名を連ねることとなっていた。


 そんなわけで、一九八二年三月の夕方。ピークは過ぎたとはいえ、まだまだ寒気は厳しいものがある季節。カーテンを閉めた社長室には三人の女性が集っていた。

 副社長のエレナと、秘書であるイングリットと、その従妹であり下校後は社で面倒を見ているフレーゲル――むろんすべて擬装カバーである。さらに言えば社長も名前だけの存在で、実権はエレナのものだ。

 よって堂々と社長の机に就いているのもエレナだった。ジャムをたっぷり入れた紅茶を揺らし、机の前に直立するふたりに語りかける。


「で、昨日の今日だけど任務の話。西ベルリンに行くことになったからフレーゲルも来るように。以上」


 と告げるだけ告げて、エレナはお茶請けのクッキーをつまんだ。やや大きいコートを着こんだフレーゲルも表情ひとつ変えないまま頷く。異議を挟んだのはイングリットだけだ。


「大尉。近頃フレーゲルちゃんの任務が多すぎませんか? 昨日もだったじゃないですか」

「そんなの少佐に言いなって、私は知らん。いいじゃん別に経験が積めるって思えばさあ」


 なあフレーゲル、と同意を求めると、少女はまた頷いた。いかにも敏腕な上司と従順な手駒といった風情のやり取りだが、その裏にあるものをイングリットは知っている。

 フレーゲルは隙あらばエレナを殺そうとするのだろうし、エレナはそれを翻弄するのが好きなのだ。あまりにも剣呑な関係性で、とても見てはいられなかった。


「まあ昨日の今日だけど、今日明日行くってわけじゃない。出発は二週間後。で、期間は数日から一週間程度だ。目的は……」

「い、一週間ですか? 西で?」


 思わず身を乗り出す。この半年、張り込み等である程度の期間を織り込んだ任務もなかったわけではない。

 しかし外国――それも四六時中気を張っていなければいけない敵地で続けて一週間となると、フレーゲルもさすがに初めてだ。いきなりハードルが上がりすぎているようにも思う。


 だがエレナはそんなことを一切意には介さない。当然のように肯定しながら頬杖をつく。


「そっそ。まあちょっと長丁場だけど、今後のためにも頑張ろう」

「ちょ、そんなのフレーゲルちゃんの学校に影響が……」

「学校では虚弱体質で通してんだから、検査入院ってことにすればかわせる。勉強だって育児院で叩きこまれてるはずだし。別に一週間そこら行かなくても問題ないよ」

「でも、フレーゲルちゃんは」

「イングリット、ストップ。それ以上は聞かない」


 エレナの声音が一段冷める。これは国家保安省の大尉としての言葉だと、睥睨するようなまなざしが告げる。

 問答無用で唇が凍った。カーテンの隙から射しこむ夕陽がエレナとイングリットを分断している。黄昏のベールが輝きを増すごと、それを浴びるエレナをひときわ昏く妖しく彩った。笑みをかたどった唇がうごめく。


国家保安省うちらの本分はDDRと社会主義の保衛だ。そんでもってフレーゲルはそのために第十三部隊ここにいる。この話は前にもしたと思うけど」

「で、でも……」

「でもじゃないしもうおしまい。いい加減聞き飽きた」


 一方的に話を打ち切って、エレナはまたクッキーを口に運ぶ。雲間に隠れたのか、斜陽も薄暗がりへと溶けていった。

 イングリットとてそんな上司の対応を理解はしている。盗聴器がある以上、大っぴらに任務を否定するような真似は難しい。エレナはこう叱るしかないし、イングリットもこれ以上の抗弁は命取りになりかねなかった。


 だが納得もできない。今のふたりを放っておけば、誰にとっても良い方向にはならないだろう。

 なによりイングリット自身が放っておけないのだ。このままでいいはずがなかった。


(だとしたら、手はもうこれしかない)


 ぎゅ、と手を握って、ひと呼吸。覚悟はとうに決まっていた。必要だったのは、言葉を選ぶに足る時間だけだ。


「大尉。ご相談があります」

「えー? フレーゲルがどうこうっていうのはもう、」

「違います。その任務、私も同行させてください」


 逸る胸を押さえて告げる。どうあってもこれだけは譲れなかった。


 エレナとフレーゲルを一週間もふたりにさせるわけにはいかない。しかし命令には逆らえない。

 ならばこちらから動くしかないのだ。期間を長く取ってある以上四六時中荒事というわけではないだろうし、万一そうだったとして、イングリットにもやりようはある。足手まといにはならないつもりだった。

 そんな気負いを知ってか知らずか、エレナは拍子抜けするほどあっさり頷く。


「いやまあ、いいけど。どのみち同行者は必要だから私としても都合がいいし」

「あ、ありがとうございます。助かります」

「でもイングリット、確か西行くの初めてじゃん。じゃあ色々仕込まなきゃいけないけど」

「構いません。ご迷惑はおかけしないので、よろしくお願いします」


 言い切ってみせる。とりあえず第一関門は突破した。あとは現場でどれだけやれるかだ。

 エレナが席を立ち、肩を軽く叩いてくる。その調子は揶揄しているとも値踏みしているとも言いがたい。こちらに向けられた若葉色の視線だけが、イングリットの真意を見通すように細められていた。


「ういうい。やる気のある部下がいてくれて嬉しいよ。そんじゃよろしく、同志少尉」

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