第十九話
イングリット・ケルナーの朝は午前六時に目覚め、化粧をして眼鏡をかけて、衣服とトレードマークのポニーテールを整えることからはじまる。
仕事柄、常に規則正しい生活など望めるべくもないのだが、それでも出来うる限り生活リズムを整えたいというのがイングリットのささやかな志だ。半年ほど前にフレーゲルと名乗る少女を部屋へ受け入れてからはなおさらだった。
大人としていい手本になってあげたいし、なにより生活環境は成長に大きく影響する。フレーゲルに健やかに育ってほしいイングリットとしては、率先しての早寝早起きは自明の理であった。
だが、それを後悔することもままある。たとえばこういう時とかに。
「フレーゲルちゃん。その首のところ、どうしたんですか?」
イングリットが異変を発見したのは、朝七時ごろ、朝食の席でのことだった。
フレーゲルの顔に疲労が見える。いつもは表情らしい表情を浮かべない少女だったが、昨日は夜遅くまで任務に駆り出されていたらしいから、さすがに疲れるだろう。だからそれは――痛ましいとは思うのだが――当然といえば当然だ。
だが今日の衣服、イングリットが買った可愛らしいハイネックセーターがなぜかやたらと目についた。
ヒヨコのようなパステルイエローが薄暗い朝に映えるからか、あるいは不自然なほど襟を引き上げているからか。時折そちらを伺いながらサラダを咀嚼していると、フレーゲルが卓の籠からパンを取る拍子、小さな首がちらりとのぞいた。
筋。そう見えるような痕がいくつか。
セーターの陰に紛れてはっきりとは分からないが、鬱血した色のようにも思える。
痕はすぐに隠れたが、それを見間違いと断じるにはイングリットはお節介で、なにより思い当たりがありすぎた。さりげなくどうしたのか問いかけたとき、少女の瞳に走った明確な感情――怯えに確信を得る。原因は彼女だと。
だからそれ以外に異状ないことを確認してフレーゲルを学校に送りだすと、イングリットは隣室のドアを鬼のようにノックし、気怠げに出迎える女を強く強く睨みつけた。
「あー、おはよイングリット。朝早くからなんの用」
「おはようございます、大尉。立ち話することでもないので、中に入らせていただきますね」
そうずかずか玄関に足を踏み入れる。イングリットは比較的身分序列の礼儀を守る方だと自負していたが、今のような場合は話が別だ。なによりここ半年でこのような振る舞いには慣れてきた。極めて不本意だが。
大尉ことエレナも特に気分を害した風はなく、まっすぐ寝室に招き入れる。ベッドに敷かれていた白いシーツはめちゃくちゃに乱れ、半ば剥がれかけていた。
容疑が確定判決に変わった瞬間である。もう問うことはない。
「で、大尉。今回はどのような言い訳を聞かせてくださるんですか」
「今までも言い訳した覚えはないけど。事実を教えてるだけで」
エレナは乱れたベッドに腰を下ろし、平然と肩をすくめる。服装こそいつもの簡素なワイシャツにスラックスだが、今日は寒いのか着飾りたい気分なのか、首元に赤いストールを巻いていた。
彼女の部屋の盗聴器は無力化されている。イングリットたちも言葉を選ぶ必要はない。
「じゃあその事実とやらを教えてください。ゆうべここでフレーゲルちゃんに何したんですか」
「誓って言うけど不純同性交友はしてないよ、今回は。ほらシーツ汚れてないじゃん」
「じゃあ、あの首の痕はなんなんですか? 任務でできたものじゃないですよね」
カマをかけてみる。イングリットは昨日の作戦に参加していない。だからどんな顛末になったのか知らないのだが、フレーゲルの様子を見るに鬱血痕の原因は十中八九エレナだ。ここで悪戯されたと考える方が自然だろう。
そんなハッタリが実ったのか、あるいはエレナがカマにかかって「あげた」のか。仁王立ちするイングリットにドレッサーの椅子を勧め、エレナは赤い爪の先で口元を叩く。
「だってフレーゲル、めちゃくちゃ首絞めるの下手だったんだわ。だから教えてやった。自分の身で体験した方が早いじゃんああいうの」
半分は予想通り、半分は予想のはるか外。どちらにせよイングリットには頭を抱えるほかない答えだった。
フレーゲルが親の仇であるエレナを殺そうとしているのは知っている。さらに彼女がエレナを襲うたび、時には性的暴行を含む手段で返り討ちに遭っていた。イングリットも何度となく防止策を講じてきたが、フレーゲルの殺意は止まらない。むしろ最近は頻度が増している気すらした。
とはいえ、それが少女に暴力を振るう理由にはならない。おふざけ半分ならなおのことだ。こぼす苦言も回を重ねるごとに遠慮をなくしていく。
「だから大尉は本当どうしてそういうことを……別に首絞め返さなくてもいいじゃないですか、情操教育に悪いことしないでくださいよ」
「情操教育って、それ今更言う? 国家保安省にいる時点で情操もクソもない」
「それはさておくとしても、フレーゲルちゃんは学校もあるんですよ? バレたらフレーゲルちゃんの交友関係にも影響しますし、
そもそも大尉に良心ってものはないんですか? 相手は子供でしかも声も出ないし助けも呼べないんですよ、そんな子をいたぶって楽しいんですかもう本当最低です!!」
言いながら軽蔑の念が高まっていく。そんな人だと思っていなかった……というほどエレナの人間性を信用していたわけではない。しかし少なくとも好意はあるし、飄々としながらも隙のない振る舞いは素直に尊敬できた。
もちろんそれは今も変わらないのだが、ああこの人のモラルは最低の部類なんだなという実感が日々強まっていくのは嬉しくない。非常に。
彼女にセーブをかけるのはイングリットしかいないという事実もある。だから見捨てることも告発することもできず、どんなに無力でもお説教に励むイングリットがいるのだ。
「まあそんなきつく絞めてないし、ほっときゃ二、三日で消えるだろあれ」
「そういう問題じゃないんです! フレーゲルちゃんの、こう、心が大丈夫なはずないでしょう!」
「つまり身体ならいいわけだ」
「いいわけないでしょうが馬鹿じゃないんですか」
「へえ。じゃあ、今回非があるのはフレーゲルの方だよ」
なにを、と反駁しかけた言葉は喉の内で消えた。エレナはストールを肩から落とし、白い首筋を軽く反らせる。
やっと昇りはじめた朝日が部屋へ射しこみ、艶やかな金の髪をきらきら縁取っている。しかし逆光で陰った首には小さな絞め痕が真っ赤に息づき、呼吸のたびに蠢いていた。陰と陽、美と退廃。目がくらむほどに強烈な対比。
見えないはずの痕を指先でたどり、エレナは唇を舐めて笑う。
「手取り足取り教えてやったらそのうちできるようになってさあ。こっちは手加減してやったのに、フレーゲルは死に物狂いで絞めてきたよ。
まあ最後には泣くほうに必死で手がお留守になってたけど。全然死ぬほどじゃないにしろ、多分一週間は消えないかな」
と言いつつストールを巻きなおし、痕を隠す。絶句するイングリットをよそにベッドから立ち上がり、鼻先に赤い爪を突きつけてきた。
「ってことで、今回は喧嘩両成敗。了解?」
「全然分かんないですよもう……」
肩を落とす。被害者でも加害者でもある彼女をどう叱ればいいのか分からない。
いや、フレーゲルが児童である以上大人であるエレナの方に責任があるのは確かなのだが、どれもこれも常識の範囲を超えすぎていて処理できなかった。
「でもまあ、どうせならもうちょい打たれ強くなってほしいかなあ。泣かれるのはともかく、途中で気力尽きちゃうのは萎えるし」
分かることはただひとつ。どうやってもこの上司が変わることはない。
ならこれ以上の被害と加害を避けるよう、イングリットがうまく立ち回るしかないのだ。
「あ、そうだ。イングリット、今日フレーゲルが事務所に来たら
「まだ懲りてないんですか?」
冷たい目を向けると、エレナは「違う違う」と手を振る。心外そうな顔をしていたが、そういう表情は自分の行いを省みてからにしてくれと思う。
「普通に仕事の話だっての。疑うならイングリットも一緒に来ていい」
「はあ。なら、お言葉に甘えて」
本当に疑っているわけではない。事務所には国家保安省の仕掛けた監視用の盗聴器が健在だし、エレナも滅多なことはしないはずだ。単にその「仕事」の内容を聞いておきたいだけだが、敢えて言わない。本来なら疑われてもおかしくないと実感してほしい。
そんな内心を知ってか知らずか、エレナはイングリットと入れ替わりにドレッサーに陣取り、いくつか化粧道具を取り出す。金髪に櫛を入れながら、鏡越しにこちらへ視線を投げた。
「私も上司だからさあ。そろそろフレーゲルもステップアップさせてやろうと思って」
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