第七話
翌日、フレーゲルの部屋の扉を開けたイングリットは心臓が止まる心地がした。
空っぽのベッド。そして、夜しっかりと施錠したはずなのに鍵の開けられた玄関。家出、深夜徘徊、誘拐――不穏な単語が次々と頭を駆け巡り、一瞬で血の気が引いた。
そうだ、そもそも昨日の時点で変に思うべきだったのだ。いくら疲れていたにしてもああまで起きてこないのはおかしい、あれはここを受け入れない無言の意思表明だったのではないか。今考えたところで遅すぎるが。
とにかくも、と上司に指示を仰ごうと玄関を出て、焦りと後悔に泣きそうになりながら隣のフロアのベルを鳴らし……そして数十分後、イングリットはなぜかパン屋でショーケースを眺めることになっていた。
「ふーん、ここがイングリットの一押しかあ。とりあえず昨日食べたクッキーは確定として、他なんかオススメある?」
「……
「ほー。そりゃ期待させてくれる。じゃあおっちゃん、とりあえずこれとこれと――」
「それよりエレナさん、いいんですか? あの子放ってきて」
やり場のない手でメガネや膝丈のプリーツスカートをいじりつつ、半ばため息をつきながら問う。外では
そもそもいったいどうしてこんな展開になったのか。その理由はイングリットがエレナを訪ねた時まで遡る。
フレーゲルは自分の部屋にいる。エレナは半泣きのイングリットにそう告げた。てっきりフレーゲルは夜のベルリンに迷い込んだのだとばかり思っていたイングリットは安堵で腰が砕けそうになったのだが、エレナは構わずその足でイングリットを連れ出し、朝食の買い物に付き合わせていたのだ。
それ以上のことは聞いていない。全然寝てないんだわ、とあくびを繰り返す姿を見る限り、夜通しフレーゲルに付き合っていたのかもしれなかった。自分ではフレーゲルを安心させてやれなかった事実に不甲斐なさを覚えもする。しかし夜に抜け出してエレナの部屋を訪れた少女をひとり置いてくるのは、なんというか、可哀想だ。
「そりゃ、お留守番くらいひとりでできる歳でしょうけど。なんなら買い物くらい私が行くのに……あ、もしかしてまだ寝てるとか?」
「うーん、どうだろな……あ、イングリット、この中で子どもが好きなのってどれだと思う?」
「え? ううん、ゼーツンゲとか甘いものじゃないですか? せっかくベルリンにきたんだし、縁起を担いでベルリナーもいいと思いますが」
「んじゃそれ一個ずつ。はいお代っと。はいどうもー」
と流れるように会計を済ませるエレナ。よほどお腹が空いていたのか、パン屋を出るときにはすでにハンバーグのサンドイッチを持っていた。
今日も白いワイシャツとスラックス、肌寒いからダウンジャケットを羽織っただけと、飾り気もなにもない格好をしている。しかしいやに様になっているからずるい。こちらはどう着飾ってもメガネひとつで野暮ったくなるというのに。
「それにしても、なんというか、意外です」
「なにが」
「エレナさんがそこまであの子のことを気にするなんて。面倒って言うくらいだから鬱陶しがってるのかと思ってたんですが」
首都とはいえ、朝の通りにはまだ人の行き来が少ない。俯き気味になると寒風とポニーテールの端がうなじを撫でた。我ながら女々しい自覚があるが、悔しいのだ。少なからず。
「面倒見、いいじゃないですか。あの子の好きそうなもの買っていってあげたりとか。私よりよっぽど、エレナさんの方があの子の心を……」
「いやさあ、それが困ってて」
サンドイッチを頬張りながら肩を落とす。なにか心配事でもあるのだろうか。そう思わず身を寄せると、エレナは心底参ったと言わんばかりに長い金髪を掻き上げた。
「
「…………はい?」
***
「え、はい?? えっと……膜って、鼓膜かなにかですか?」
「いやなんでだよ、処女膜だよ処女膜。あ、イングリットまだ処女だっけ」
「いや、ちょ、待っ……それはあの、合意の上で……?」
「うーん、そもそもあの様子だとセックス自体まともに知らなかったんじゃないかな。死ぬほど泣いてたし」
「ド畜生ですかあなたは!!」
そんなやり取りをして直後、イングリットはアパートへ全力疾走していた。
弾痕の刻まれた外壁を通りすぎ、正面の扉を開く。階段を数段飛ばしで駆け上がるとエレナのフロアはすぐそこだ。エレナから半ば奪い取ってきた鍵を使うのだが、手先が震えてうまく開けられない。落ち着け落ち着けと念じながら慌ただしく鍵を回す。ようやく解鍵の手応えが伝わった。
乱暴に押し開けてまた疾走。何度か来たことがある以上に同じ間取りなのだから、エレナの寝室も手に取るようにわかる。壊しかねない勢いで扉を開いた。
いた。ベッドの上、少女が丸々くるまっていそうな布団の塊。肌ひとつ見えないのが痛ましい。息を呑む間もなく駆け寄った。
「フレーゲルちゃん! だ、大丈――」
そう布団に手を伸ばしかけて、ひやりと脳に冷たいものが走る。一刻を争う状況なのに思わず足が竦み、そして結果的には、その一刻がイングリットの命運を分けた。
突如開かれるクローゼットの扉、奔ったのは小さな刃。本当ならばイングリットがいたはずの場所へ的確に飛びこみ、そのまま布団を突き刺した。
ナイフが引き抜かれる。また振り下ろされる。そのたびに布団の、あるいはその内にくるまれていた枕の羽毛が舞い、幻想的な風景のようにも錯覚する。しかしその中心にいるのは狂ったようにナイフを振るう少女の姿で、瞳孔の開ききった眼は明らかに正気のそれではない。
はじめて目の前の少女に恐怖を覚えた。脚は二、三歩後ずさっただけで萎え、震える声が彼女の名を呼ぶ。
「ふ、フレーゲル、ちゃん……?」
その言葉に、ぴたりとナイフが止まった。
肩で息をしながらこちらを向く。血走った――いや、泣き腫らした赤い目に理性が戻ってくる。獲物が剣筋から逸れていたこと、そしてその獲物がイングリットだったことをはじめて知ったのか、驚愕の表情が浮かびあがる。小さな指からナイフが落ちた。
とたん、彼女の目尻に生まれる大きな涙の粒。それが頬にこぼれ落ちていくといよいよ顔つきがくしゃくしゃ歪み、声も出さずにしゃっくりあげはじめた。
「フレーゲルちゃん……」
かける言葉が見つからない。混乱も止まらない。昨日まで感情の色も見せなかった少女が、先は激情に駆られて刃を向け、今は憚りなく泣きじゃくっている。
ただやはり彼女は子どもで、自分が守ってあげなくてはいけないのだと、それだけは理解して……そっと抱きしめようとした、その時だった。
「あーあーあ、だから止めとけって言ったのに。部屋からナイフ回収するの忘れてたからさあ。イングリット、運悪かったら今ので普通に死んでたじゃん」
悪びれない声に、フレーゲルの肩がびくりと跳ね上がった。
部屋の入り口にエレナが立ち、戸枠にもたれながら涼しい顔でベルリナーを食べている。思わずフレーゲルを庇うように立ち塞がった。これまで彼女に見せた中で一番軽蔑した眼を向ける。
「色々言いたいことはあるんですが、とりあえずシャワーをお借りします。行きましょう、フレーゲルちゃん」
言ってフレーゲルへ振り向く。よくよく見れば暴行の跡は明らかで、シャツはボタンの過半がなくなり、ハーフパンツもチャックが壊されている。柔らかな髪はぐちゃぐちゃに乱されていた。痛々しい、とそっと肩に触れると、エレナが声をかけたときのように身体が跳ねる。
慌てて手を離す。あまりに軽率だった。彼女はイングリットのような大人の女性から性的暴行を受けたばかりなのだ、怖くないはずがない。
「……ひとりの方が、安心できますか?」
ある程度の距離を意識して、優しく声をかける。真っ青な顔がわずかに頷いた。それを確認してから、イングリットはクローゼットの方へ向かう。
「お風呂は廊下に出て、玄関のそばの向かって左側です。タオルはこれを使ってください。ゆっくり温もってきてくださいね」
肌に触れないよう意識してタオルを渡した。それから入り口のエレナを押しのけ、廊下への道筋を確保する。
そして悄然とした小さな足取りが風呂場に消えた瞬間、イングリットはエレナを部屋に押しこんで仁王立ちした。
「それで、大尉。なにか申し開きはありますか」
「うわーイングリット怖。そんな顔もできるんだ」
「茶化さないでください! こんな、こんなの犯罪ですよ!? 国家の恥です!
小さい女の子を……いやそうじゃなくても問題ですけど、とにかく無理矢理なんて……いえ無理矢理じゃなくても駄目でしょう何歳だと思ってるんですか!」
「って言ってもね。こっちが先に無理矢理殺されかけたんだからおあいこだよ」
「そんなの理由にならな……え?」
どうせロクでもない言い分が出てくると用意していた言葉は、予想外の理由の前に立ち消えた。
エレナは悠々とベッドに腰かけ、ニヤついた笑みを崩さない。その姿はあまりにいつも通りだ。だからこそ真偽がつかめない。
「殺され、かけた? 大尉がですか?」
「うん。昨日部屋に押入られて馬乗りされた。凶器フォークだったけど」
「……大尉が大義名分を得ようと適当仰ってる可能性もあります」
「信用ゼロか。まああいつの剣幕見てそう思えるんならそれでも」
流し目で肩を竦めるエレナ。そういえば最初に奇襲されたとも言っていたような気がする。何よりあの鬼気迫った様子のフレーゲルを見てしまうと、まったくの空言とも思えなかった。
手近にあったドレッサーの椅子に腰を下ろす。これは一方的なお説教よりも厄介な話になるだろう。フレーゲルを迎える際に読みこんだ資料を思い返し、顎に手を当てる。
「……理由は、なんとなく察しがつきます。フレーゲルちゃんのご両親の事件、現場対応に関わってたのは大尉ですから」
「ま、当時は中尉だったんだけど」
「でもおかしいです。その件の報告書では確か、フレーゲルちゃんは少年団の帰りに拉致されて、そこで親御さんの『事故死』を知らされた、って……ならフレーゲルちゃんは何も知らないはずですよね?」
というか、そうでないとこの部隊に送りこまれるはずがない。矯正教育を受けたとはいえ、自分の両親を殺した人間を前にして冷静でいられるわけもない。ましてやその人間に付き従うわけがないのだ。
フレーゲルは、エレナが両親に手を下したことを知らない……いささか悪趣味だが、この前提があってこそ彼女はここに迎え入れられた。
それが崩れたのなら確かにエレナを襲うのも道理なのだが、それならいったいどういう経緯で、いやそもそもどこからどこまで報告書通りなのか――
「さあてね。どういうことなんだか」
嘯くエレナはそのあたりを語るつもりはないらしい。はあ、とため息がまた漏れた。
「とにかく。どういう経緯があるにしろ、この件は上に報告――」
「できるかな。イングリットが」
叩きつけようとして、ふわりと流される。エレナは頬杖をつき、余裕を匂わせながらも挑戦的な眼差しをこちらに向けていた。
「……どういうことですか」
「フレーゲルが選抜生になれたのは何も知らない忠実な子犬だったから。それが両親が体制に殺されたことを知ってて、裏で牙を剥く狂犬だと知れたらどうなるかな。洗脳して牙を抜かれる程度で済めば御の字だけど」
その先の想像に、ぞっと肝が冷える感覚がした。
イングリットだってDDRの暗部に足を踏み入れた身だ。子供とはいえ、ここまで知ってしまった敵意ある人間を当局がまともに生かしておくとは思えない。少なくとも今よりよほど酷い扱いになることは間違いなかった。
「しかもここは表向きには存在しない部隊だ。
「要はこういうことですか。私が上に掛け合ったところで立場が危うくなるのはフレーゲルちゃんだけで、大尉にはたいした痛手ではない、と」
「そういうこと。優しい優しいイングリットには無理だよ」
断言され思わず歯噛みする。反論のひとつでもしたかったのだが、事実、この状況ではフレーゲルに危害を加えないまま引き離すのも難しいだろう。イングリットは一介の新米職員だ、できることにも限りがある。
だから今のところ――我ながら情けないのだが――イングリットにできるのは上司に釘を刺すことくらいだった。
「……事情は理解しました。穏便に済ませるには現時点で大尉の案が最良だということも。でも金輪際こういう乱暴はやめてください。これ以上が続くようなら、私だって穏便でない方法を検討します」
「ういうい。約束するよ、こっちから手は出さない。あちらさんから仕掛けてこない限りは」
「フレーゲルちゃんから仕掛けてきても加減を弁えてください!」
それには答えないまま、エレナはけらけらと大笑いする。誤魔化された。
もっときつく言わないと駄目だ。そう声を荒げようとした矢先、エレナの唇からふいに笑みが消えた。
「それはそうとイングリット、これはちょっとお説教だわ」
「はい? いまお説教するのは私の方……」
「フレーゲルの奴、ピッキングセットとか持ってたみたいだぞ。荷物検査しなかったなあれ。そういうのは世話役のイングリットの仕事だよ、子どもだからって甘すぎ」
突然の冷たい指摘に喉が詰まった。次いでエレナは足元から妙に鋭いフォークを拾いあげ、イングリットに投げ渡す。
「あとフレーゲルこれ持ってたけど、覚えてる? 昨日の昼の。イングリットが忘れたと思ってたフォークは隙を見て袖に隠し持ってただけ、もうちょいちゃんと目を配るように」
「う……」
「あーこのフォークも結構時間かけて研磨してるみたいだなあ、大方ベッドで狸寝入りしてる間にやってたんだろうなあ。怪しいと思ってお布団引っぺがすとかしなかったのかなあ」
「……大変面目ございません。私の未熟も一因でした……」
返す言葉もない。しおしおと頭を下げる。
まだ日が浅いとはいえ、イングリットも秘密警察の、それも特務機関に属する身だ。子どもという理由で甘い対応をしていい立場ではない。少なくとも、今回イングリットがもう少し気をつけていれば、フレーゲルもこんな目に遭わずに済んだかもしれないのだ。
しかし一方の主犯が「分かればよし」と余裕綽々で頷いているのは納得がいかない。非常に。
「仮にも国家保安省っていう諜報機関にいるんだ。我々は常に騙す側で騙される側。それを忘れないように」
それでもたまには真っ当というか、こうした妙に達観したことを言うから、イングリットも彼女をただの堕落した上司とは片付けられないのだ。
「んでイングリット、このシーツ洗っといて。血とか色々ついちゃったんだわ」
「大尉のそういうところは本当にどうかと思います」
「あ、あと新しい布団と枕経費で落とすから」
「ご自分で買ってくださいよ自業自得じゃないですか」
そんなやり取りをしていると、やがて小さな裸足の足音が近づいてくる。躊躇いがちな気配が扉を半分開くと、生乾きの茶髪と疑い深げな瞳がまず覗いた。気づいたらしいエレナがそちらに嘲笑を投げる。
「あ、そうだ。フレーゲル、お前の家族直接殺した連中、私以外もう死んでるから」
まったく反省の見えない態度。イングリットがぎょっと上司を見やったのとは対照的に、影からこちらを伺うフレーゲルは静かなものだ。それをいいことにエレナは言葉を重ねていく。
「私さえ殺せば復讐達成、お父さんお母さんもお
「大尉! 言った端から煽り立てるようなことはやめてください!」
きつい口調を意識して割って入る。さすがに挑発しすぎだ。これではまるで向こうの殺意を誘っているようではないか。
しかしフレーゲルは思いのほか表情を動かさない。やはりまだ怯えているのか……そう思うと居た堪れない。もう一度エレナに一喝してやろうと思った瞬間、小造りな口元がゆっくりとうごめく。それはきっとこう言っていた。
『ぜったい、ころしてやる』
無表情のまま、そして無言で紡がれる、何度も何度も練りあげられたであろう殺意と憎悪。そこに幼い情動の極北を見た思いがして、イングリットはぞくりと言葉を失う。それがエレナには愉快なのか満足なのか、艶めかしく舐めた唇をなお歪めた。
「あっそ。じゃあせいぜい頑張りなよ、
言って、クローゼットからコートを一枚取り出す。丁寧に仕立てられたものだと一目で分かった。木枯らしではなく黄葉を思わせる優しい茶色は、どことなくフレーゲルの髪に似ている。
フレーゲルの警戒もよそにドアを全開にすると、エレナはそれを投げるようにして頭からフレーゲルにかぶせた。
「フレーゲルの家にあったコート。趣味が良かったから押収のとき貰っといたんだけど、男性用だもんでお蔵入りさせてた。お父さんの形見ってやつになるのかな、あげる」
さらりと
はあー、と何度目かもわからないため息をついて立ち上がる。どちらにせよ今日の勤務を思えばそろそろ潮時だった。フレーゲルは事情が事情だから休みをとってもいいと思うし、それならば自分もついてやるべきだろうが。
「フレーゲルちゃん、そろそろ帰りましょうか」
と数歩分の距離を置いて声をかける。フレーゲルはコートを頭から引き下ろし、じっと見つめているところだった。
父親の形見。その重みは――おそらくまともに再会することはないであろうが――いまだ両親ともに健在なイングリットには理解しきれない。
だからフレーゲルがそれに袖を通したときにも、イングリットにできるのはお姉さんとして微笑んでやることだけだった。
「……やっぱり、ぶかぶかですね。丈とかお直ししましょうか。フレーゲルちゃんが大人になっても着れるよう、少し大きめのままで」
「……」
フレーゲルは首を縦にも横にも振らない。まぶたを閉じて、長い袖をたくしあげもせず口元に運ぶ。
宗教を厭う社会主義者にはあるまじきことだが、そこになにか祈りにも似た神聖を感じて――フレーゲルがゆっくりと決意の瞳を開くまで、イングリットはただ隣に佇んでいた。
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