第二部:エレナ・ヴァイスという女

第八話

 フレーゲルが第十三部隊に来て――つまりエレナに手篭めにされてから――一ヶ月ほどが経った。


 この二人がいてまともに仕事ができるのだろうかと身構えていたイングリットだが、驚くべきことに今のところ特に支障なかった。

 「エレナとの関係が知れればここにはいられなくなる」とイングリットが説いた甲斐あってか、あるいはやはり怯えがあるのか、フレーゲルも表向きは従順に日々を過ごしている。ただ一点、イングリットが丈を直したコート父の形見を常に身につけるようになったのが分かりやすい変化だった。

 エレナもエレナでいつも通りのらりくらりとしており、気まぐれな猫のような生き方をしている。あんなことをして平然としていられる精神構造は正直理解できないが、最早イングリットには干渉のしようもない。


 そして三者三様のいつも通り、盗聴記録を纏めあげるなり黙然と勉強するなり部下に紅茶を要求するなりしていた平日の午後。やたらと爽やかな声が秘書室へ吹きこんできて、イングリットは思わず渋面を作った。


「はい、ただいま戻りましたっと。おや、今日はイングリットちゃんだけか。他の連中はサボタージュかな?」

「ランゲ中尉……」


 開いた扉に遅まきなノックをしているのは、スーツ姿の男だった。

 三十前後といったところだろう。綺麗に焼けた肌には親しげな笑みが浮かんでいる。ハッキリとした眉や撫でつけられた黒髪も異国的な雰囲気に一役買っており、なんというか、神秘的な色男だった。実際に見たことはないのだが、噂に聞くスペイン男とはこういう風なのだろうか。

 とはいえイングリットがこの男、ペーター・ランゲに見とれたりすることはない。むしろ苦手だ。フレーゲルを見てわざとらしい礼をしてみせたりと、こういうところが。


「お嬢さん、その節はどうも。これからよろしくお願いするよ」


 にこやかに言う。確かランゲは児童選抜のために一時期だけ試験官として出向していた。その際に面識があるのだろう。算数の問題集を解いていたフレーゲルは申し訳程度の礼を返しただけだったが。


「それで、イングリットちゃん。ボスはいないのかい。いないのなら伝書鳩だけして帰るよ、今日は観たいテレビがあるんだ」

「お菓子買いに行ってるだけですよ、すぐ戻ってこられると思います」


 断りもなく事務椅子に腰かけておちゃらけるランゲ。こういうところは上司に似ているというか、あの上司あってこの部下というか。常識人を自負しているイングリットの方が場違いな気さえする。コーヒーを用意しながら問いかけた。


「伝書鳩ってことは、本部から連絡ですか?」

「そうだね、こないだのボスからの連絡のお返し。今時文書っていうのもローテクなものだと思うが、このご時世だとかえって盲点なのかもね。単にドイツ人らしい文書主義かもしれないが」


 四つ折りの紙を手渡し、ランゲは大仰に肩を竦める。近年の通信技術の発達は情報戦をさらに熾烈なものとした。国家保安省シュタージが国民を網羅する東ドイツは盗聴や監視網には一日の長があるが、それを支える財政は西側の圧倒的優位にある。油断していたら簡単に足元をすくわれるだろう。


「ところで、新入りのお嬢さんはどうなんだい? もうここには馴染んだかな。まあまずボスが気に入るかどうかだろうけど」

「あはは……まあ、ぼちぼちって感じでしょうか」


 コーヒーを淹れながらの世間話は笑ってごまかす。こういう腹芸というか、演技は苦手なのだ。やはりここの仕事は自分には荷が重い。

 そう胃がキリキリ痛むのを感じていると、開いたままの戸から見慣れた金髪が顔を出した。


「あ、ランゲ戻ってきてるじゃん。女に刺されてなくて安心したわ」

「ただいま戻りました、ボス。そんなヘマしませんよ。何買ってきたんです?」

「バウムクーヘン。やらない」

「えーボスのケチ」


 そう軽口を交わしあう上司たちに肩の荷が降りる心地がした。この二人で会話してくれると楽なのだ。これ幸いと立ち上がろうとすると、エレナの目がにっこりとイングリットを射抜いた。


「イングリット、おすわり」

「……はい」


 大人しく椅子に座りなおす。バウムクーヘンのお皿を取りに行くという名目で脱出できると思ったのに。


 しかし、こんな空間にフレーゲルをひとり置き去りにするのも心が咎めた。結果的にこれで良かったのかもしれない……と諦め交じりに書類の山へ向き直る。途端、けたたましいベルの音が耳を貫いた。

 イングリットの机、灰色の電話機がうるさく自己主張している。いささか過剰な音量はいつものことで、向かいの席からはフレーゲルがちらりと視線を投げていた。


 受話器を取って「もしもしハロー?」と呼びかける。ペンとランゲの寄越した紙切れを手元に用意するのも忘れずにだ。


『もしもし、ガラス・セラミック工業省MfGuKです。そちら人民公社VEBベルリン陶器貿易ですか?』

「はい、間違いありません」


 よそ行きの声でにこやかに応じる。しかし実のところ気もそぞろだった。注意すべきは次の言葉からだ。


『お知らせしたいことがあります。ポーランドに対する陶器輸出について、近ごろの政情不安から予定を見直すべきではという党の方針で……』


 そこからは、もう余計なことを考える余裕などなかった。

 通信を一語一句違えず聞き取って、それに応じた返事を返す。だが意識を埋めつくすのはその内容ではなく言葉そのもの――情報の奔流が脳で交錯し続ける。視界は絶えず手元のメモを映し、ほとんど脊髄反射のようにペンを走らせ続けていた。

 そして何時間にも思える十分弱ののち、イングリットは受話器を置いて背もたれに身を任せる。


「おつかれイングリット。復号は?」

「できましたけど……もう本当私が失敗したらどうするんですか、せめて録音させてください」

「却下。我々は特務機関。それならそれらしく、記録残しとくべきものと残しちゃいけないものがあんの」


 とそれらしいことを言いながらイングリットからメモを受け取るエレナ。中身を見てもさほど驚いた顔はしなかったが、何を思いついたのか、ふわりとあどけない唇には嫌らしい笑みが走った。


「フレーゲル。これどういう意味だか分かる?」


 言って新しいメモに乱暴に走り書きし、フレーゲルに手渡す。その拍子に指先が触れ合うと、少女の身体が小さく跳ねた。

 やはりまだ怖いのだ。いたたまれなくなり、思わず席を立って向かいのフレーゲルに近寄る。横からのぞきこむと、彼女がエレナから受け取ったメモが見えた。

 内容はランゲが渡してきたものと同じだ。『夜間はポツダムの監視塔にて励むべしFür Nacht dient im Potsdam Wachturm』という文字が並び、フレーゲルはそれを黙って見下ろしている。熟考しているのか小さな指を唇に当て、やがてペンを取った。


『『今夜、ポツダム広場の監視塔に来い』ってこと?』

「うんうん、いい答えだ。ランゲ、そのままそこに行ったらどうなる?」

「クサいご飯の食べ放題ですね。俺たちの不眠尋問もついてきますよ」


 肩を竦め、暗に引っかけだと告げるランゲ。エレナがイングリットを見やり、あごを小さくしゃくる。


「イングリットー、解説」

「そんなことだと思ってましたよ、もう」


 諦めをこめて息をつく。結局こういう展開で、イングリットはこういう役回りなのだ。背後のカーテンを閉めてからフレーゲルに向き直る。


「ええとですね、実はこれ、文章そのものの内容に意味はないんです。注目しなくちゃいけないのはアルファベットだけですね。っていっても、今の電話を聴いてないとどうにもできないんですけど……」


 説明に窮し、無意識に眼鏡の弦を指で叩く。こうして長々と前置きしても分かりにくいだけかもしれない。単刀直入に答えを告げる。


「つまりですね、実はシフト暗号になってるんです。育児院ヴァイゼンハウスで教えてもらいました?」

『アルファベットをずらして、元の文章にもどす暗号?』

「わっ、大正解です! フレーゲルちゃん、ちゃんとお勉強してきたんですね。偉いです!」


 笑顔で拍手。子どもの成長には褒めるときにきちんと褒めるのが大事と聞いた。当のフレーゲルはといえばやはり一切表情が動かないのだが。


「簡単に言ってしまうと、暗号文を紙で、それを読むための鍵を電話で伝えて解読されにくいようにしてるんですね。

 片方だけじゃ意味がないので、万一どっちかが奪われたり傍受されても伝令の内容がバレないようになってます。さっきの電話の場合、会話の頭文字の数だけアルファベットをずらすことになっていました」

「で、今回の伝令はこれ」


 と涼しく話に入ってきたエレナが復号結果のメモを見せてくる。『オラーニエンブルガー門地下鉄駅Im UB Oranienburger Tor  火曜日 午前二時Dien vm zwei』。待ち合わせの場所と日時だろう。次の火曜日という意味であれば四日後だ。


「ここで詳しい話するぞってわけ。私はとりあえず当たり前として、誰かもう一人連れてきたいなあ。イングリットおいで」

「はあ。あ、でもフレーゲルちゃんをひとりで置いていくわけには……」

「えー。うーん、じゃあフレーゲルも連れてくか」

「連れ……はい?」


 耳を疑って二度見する。何度見てもエレナは至極当然とばかりの顔をしていて、疑問を覚えた自分の方が間違っている気さえした。


「ええとですね大尉、私もここに入ってたかだか二年目なので間違いがあればご指摘いただきたいんですが、そういう場に子どもを連れていくって結構まずいのでは……?」

「おや、イングリットちゃん勘がいい。ダメだね基本」

「ダメなんじゃないですか!?」


 あっけらかんと言うランゲに思わず叫ぶ。エレナは指に金髪を巻きつけて弄び、こちらを見もせずに笑っていた。


「まあ、一般生活に戻る見込みのあるただの子どもならともかく。フレーゲルも結局国家保安省の駒になる運命なんだから、多少強引だけど筋は通るよ。どうせ実験なら徹底的にやらせるべき」

「つまり?」

「逃げられない泥沼なら泳ぎ方を覚えとけってこと。フレーゲルに逃げる気があるなら別だけど」


 その言葉でフレーゲルに視線を向ける。俯くフレーゲルは小さなまぶたを伏せ、静かに首を横に振った。何も言うことはないようだ。

 エレナへの復讐はもういいのだろうか――そんなことをふと思うのだが、ランゲの手前聞くわけにはいかないし、何もないならそっちのほうがいいに決まっている。彼女は過去より前を見て、傷ついた心を癒していくべきなのだ。そのためにはエレナにも行いを改めてもらわないといけないが。


「ランゲ、伝書鳩ご苦労。今回の件、人員が必要になったら呼ぶわ。それまでせいぜい本部に媚び売っておけ」

「了解ですボス。そうさせていただきますよ、こちらとしても本部は宝の山ですし」


 軽く敬礼をして白い歯を見せるランゲ。普段のランゲは国家保安省のいち職員として働いている。要するに本部との間の連絡係だ。彼もエレナの配下ではあるのだが、民間人を装っているイングリットたちとはいささか違った立ち位置にいた。

 ランゲの黒いスーツ姿が部屋を去ると、ぱん、と手を叩いてエレナがこちらを振り向く。カーテンを閉じた部屋、わずかに残った光の粒子を金髪の軌跡が絡めとる。


「よーし、二人とも日時は覚えたな。証拠隠滅。フレーゲル、それ食べろ」

「はい? 大尉、いったい何言って」


 そう諌める間もなかった。フレーゲルが手元のメモをぐちゃぐちゃに丸めて、口の中に放りこむ。何度か咀嚼したのちに喉が大きく動き、嚥下したことがはっきりわかった。

 イングリットが唖然としているうちに、エレナは自分の持っていたメモを少女に渡す。いや、渡すというより与えるという風だった。ペットに餌を与える仕草そのもの。フレーゲルはそれも躊躇わず口に含み、また吞みこむ。エレナがからからと愉快げに笑う。


「あはは、素直素直。いい子だよお前は、なあフレーゲル」


 言って雑な手つきでフレーゲルの頭を撫で、柔らかな髪が無残に乱れる。その間もフレーゲルはされるがままだ。俯いた表情は陰に隠れて見えず、ただ身体を強張らせて震えているのだけがその心中を思わせた。

 復讐やそれを止めるどころの話ではない。このままではフレーゲルが――そんな予感に底冷えを感じながら、イングリットは上司を制止すべく手を伸ばすのだった。

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