第六話

 あの日から二年と半年。ようやくこの時が訪れた。


「……」


 鋭く研ぎ澄ませた心で、低く押し殺した呼吸で、フレーゲルは組み敷いた女を見据える。見間違えるはずもない。あの時両親を殺した人間のひとり――エレナ・ヴァイスだ。

 気を失って次に目覚めたとき、フレーゲルは育児院へ入れられることが決まっていた。そこで従順を演じるようになるまでさほど時間はかからなかった。しかしその芯にある想いは、どんな矯正教育を受けようと揺らぐことなどない。


(お父さんとお母さんを殺したこの女を、殺す)


 今のフレーゲルを貫くものはそれだけだ。


 彼女のいる部隊が育児院から子どもの構成員を募っていると聞き、フレーゲルは迷わず希望を出した。故郷に戻って民間に潜む国家保安省のスパイ――非公式協力者IMとして務め、審査に有利になるならなんでもした。そのために姉のように慕った女性さえ生贄にした。

 そこまでやって、ようやくここに辿り着いたのだ。目的地まではあと一歩だった。


(このまま、喉をひと突きするだけ……それだけでいい)


 フォークは今や白刃の輝きさえ帯びている。ベッドに篭って数時間、隠し持った研摩紙で研いできた成果だ。

 本当はナイフや包丁を手に入れたかったのだが、あのイングリットという女性も案外用心深いのか、刃物の類は目につくところに置いていなかった。下手に漁りまわって勘付かれては本末転倒だとそのままエレナのフロアまでやってきたものの、鍵を破って踏み入ったあとにはもう、新しく凶器を入手しようなどという余裕は失われていた。


 ようやくあの日の続きができる。この女に一矢報いることができる。昼間の顔合わせですべての感情を堪えていた反動か、この衝動に抗うことはできなかった。彼女はあの時踏みにじったクソガキフレーゲルに殺される――このためにこそフレーゲルは生きてきたのだから。

 視線を注ぐのは浮かび上がるように白い首筋一点だけ。ふう、ふうと早くなりそうな呼吸を制御する。汗のにじむ手のひらをハーフパンツで拭い、またしっかりとフォークの柄を両手で握る。父と母の像を一瞬まぶたの裏に描き、覚悟とともに眼を見開いて。


 そして、フレーゲルは刃を振り下ろした。


「――ああ、なるほどね。フレーゲル……あの時のバカガキか」


 涼しげな声が吐息のように囁いて、切っ先は中空で止まった。

 フレーゲルが止めたのではない。万力のごとき抵抗が、少女の両手を下から押しとどめている。先まで閉じられていた睫毛は翠の瞳をのぞかせて、見上げているくせに見下すよう、にやにや笑っていた。


「一回銃向けてきたっけ、すっかり忘れてたよ。何の件だったか覚えてないけど。まあ察するに親でも殺したかな、イングリットがそんなの言ってた気がする」

「……!」


 我に返り、ぐっ、と全体重をかけて凶器を押しこもうとするフレーゲル。しかし力に揺らぐのは自身の身体とフォークだけで、エレナの片手は巌じみてびくともしない。

 どうして。いや、ここまでの力量差も想定外だが、一体どうして気づかれて――


「なんで、って顔してるね」


 内心を言い当てられ、びくりと肩が跳ね上がる。それにエレナは一層口端を歪めて、物分かりの悪い生徒へ噛み砕くように告げた。


「分ーかーりーやすいんだよ、殺意がさあ。

 イングリットはニブチンだから気づかんかっただけでさ、こうやって目ぇ覚めるくらいにはバレバレ。昼だってフォーク右の袖に隠したからってわざわざ左手で取って食べるんだもんな、笑っちゃうかと思った」


 くっくと嘲笑交じりに言われて、冷たい殺意が熱く滾る憎悪へと変換されていく。全力だと思っていた腕にまた力が加わった。


(ぜんぶ、分かってたんだ、この女)


 見透かされていた。最初からすべて。両親を殺したことも忘れていたくせに、この女は必死に足掻くフレーゲルをあっさり見破っては嘲笑っていたのだ……そう思うと、糸一本で繋がっていた理性はあっさりと燃え落ちる。

 悔しい、憎い、嫌い嫌い大嫌いだ、心の底から殺してやりたい――感情の激流に呑まれるままのフレーゲルと、愉快そうに玩弄の笑みを浮かべたままのエレナ。この温度差も激情に油を注ぐ。


「で、ここまで乗りこんで敵討ちってわけか。いじらしいなあ健気だなあ。んでもって――」


 だからフレーゲルは気づけなかった。エレナがゆっくりと、だが確実に、体勢を変えつつあることに。


「ほんと、クソガキ」


 声に愉悦が滲むと同時、フレーゲルの手を押さえていた力が消えた。

 勢いよく突き下ろされるフォーク。エレナは半身をひねって難なく回避し、切っ先は柔らかなシーツに埋もれるだけだ。

 だがすべての力と体重をフォークに預けていたフレーゲルはそれでは済まない。意図しないタイミングでの解放に小さな身体はあっという間にバランスを崩し……下から脇と二の腕を掴まれたと思った瞬間、流れるように視界が反転した。


「ほい、マウント取った。私の勝ち」


 次いで体重が腹へ伸しかかる。月光を含んだ金の髪に一瞬目がくらむ。凄絶なまでの美貌は、悪意に染めぬかれて嗤っていた。


「さて、どうしようかな。とりあえずこいつは没収っと」

「っ!」


 もう一度振るおうとしたフォークは、手首を極められて取り落とす。

 大人の重みに気圧されながらも無我夢中に抵抗する。手首に走る痛み、溢れんばかりの罵詈雑言。それらを口にしようとしても、漏れてくるのは息のこぼれる音だけだ。


「……、……っ!」

「あ、声はほんとに出ないのな。半分疑ってたよ」


 素直に意外だったと言わんばかりにあっけらかんとした感想で、頭に血がのぼった。


(いったい、だれのせいだと……!)


 両親の死を見たあの日以降、フレーゲルの声は失われた。「あなたが死んでよ」と、そう叫んだのが最後だ。

 思ったことをすぐ口に出しがちだったフレーゲルが育児院で勝ち抜くにあたって、この欠落はむしろ祝福だった。しかし今はただただ無力の証でしかない。


 マウントの姿勢だけでも崩そうと背を逸らすなり腰を捻るなり必死に足掻く。しかしエレナの座す腹部はびくともしなかった。闇雲に突き出した腕は手首を掴まれて拘束され、脚はじたばたと無為にもがくだけ。

 生きたまま標本に刺された昆虫の気分。その様を鑑賞してけらけら笑うエレナの表情には、少年の無邪気な残酷と大人の乾いた酷薄が混ざりあっていた。


「あっはは、無駄無駄。これでも結構場数はこなしてんだ、放してやーらない」


 片手で両腕を捕らえたままフレーゲルを組み敷く。そして値踏みするかのようにじろじろこちらを見下してきた。抵抗もできず声も出せず、できるのはただ憎悪を込めて睨みつけることだけ。彼女の翠の瞳は、そんなフレーゲルの姿を鏡のように映している。


 エレナのもう片手が無遠慮にフレーゲルの身体へ触れる。髪を絡め、頬を揉み、首筋に軽く爪を立てながら鎖骨へと滑り落ちる。その端から悪寒が走り肌が粟立った。

 そして指先がシャツの合わせ目に触れたときだ。「あ、そうだ」と何気なく思いついたという調子の言葉が、しかし明らかに嗜虐の色を帯びて滴り落ちてきた。


「そーだなあ……うん、そうしよ。わざわざ夜更けに起こされてこんな面倒に付き合わされたんだ、なんか役得がないと割に合わないしさあ」


 なにやら自己完結し、うんうんとひとりで頷いている。この隙に、とまた抵抗しようとしたフレーゲルの心身は、エレナの次の一手でぴたりと止まった。


「よっ、と」


 まるで雑草でもむしり取るような無造作さで、フレーゲルのシャツのボタンが引き千切られた。

 突然の奇行に目を白黒させるフレーゲルをよそに、エレナは事もなげにボタンを外すなり千切るなりしていく。ネッカチーフの被さった第一ボタンは面倒だったのかそのまま残されたが、最終的にはそれ以外のすべてのボタンが外され、薄いキャミソールをまとった上体が外気に触れる。

 わけがわからない――怒りや憎悪より困惑が勝りはじめた直後、キャミソール越しに左胸が掴まれた。


「あ、ちょっと膨らんでる。歳いくつだったか……十そこら? ガキでもこれくらいにはなるのか。もう覚えてないなあ」


 興味深そうに言いながら小さな乳房を弄ぶ。ゆっくりと揉んだかと思えばぎゅっと力を入れ、しまいには先をくすぐってくる。この接触そのものには生理的な嫌悪感しか覚えない。

 しかしフレーゲルもおぼろげながら知っている。これはなにかひどくいやらしく、いけないものだ。そしてこうした行為はたぶん、


「声、出してもいいぞ。出せるならだけど」


 フレーゲルの耳元で囁く。離された唇にはこれまでで一番陰惨な笑みがある。それに憎悪も困惑も上回る捕食の恐怖が駆け上がり、キャミソールが捲り上げられて――


「――っ!」


 その一夜の地獄を、フレーゲルは一生忘れることはないだろう。

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