第五話

 ◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎は、よく笑いよく喜び、しかしそれと同じくらいに激しく怒って涙する少女だった。


 感情のコントロールができなかったというのとは少し違う。幼年期特有の素直さや感情の豊かさも一因だろう。しかし何より大きい理由は、尊敬してやまない父と好きで好きでたまらない母の教えにあった。


『他の誰を騙すことになっても、自分の目と心だけは騙すことなく生きなさい。今はそれが難しい世の中かもしれないが……目の前の現実から逃げていては、人は簡単に道に迷ってしまうんだ』

『あなたのまっすぐな心は宝物よ。もちろんそれで人を困らせてはいけないけど、お父さんお母さんはそんなあなたが大好きだから。いつまでもまっすぐなあなたでいてね』


 毎日のように言い聞かされるそれが、◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎にはよく分からなかった。


 けれど父母がなにか大事なことを言っていることは理解できたし、何より両親が間違っているなどと露ほどにも思わなかったのだ。

 だから彼女はずっと心のままに笑って泣いて怒って……そしてその日も、ぶすっと仏頂面で帰路についていた。


「……ちがうもん、今日はわたし悪くないもん、ぜったい」


 ライプツィヒのローゼンタール公園から家までの道のりは、九歳になったばかりの少女にはやや遠い。白シャツに青いネッカチーフを合わせた年少少年団ユングピオニールの服装でひとり大通りを歩む。物怖じしないハキハキした声が彼女の自慢だったが、今はぶつぶつと自己弁護をつぶやくだけだった。


「だってだって、お父さんが悪いわけないもん。お父さんは悪いことしてないひとを助けられるんだもん、正義の味方だもん。わたし、間違ってない」


 言いながら涙が滲んでくるのをぐっと堪える。悲しいからじゃない、悔しいからだ。思い返すだに腹が立って仕方がなくて、なのに誰も説得できなかった自分が情けない。


 この土曜日の晴れた午後、少年団のレクリエーションは公園の清掃と動物園見学だった。公園のゴミ拾いを終えたら敷地内にある動物園を見ることになっており、要するにゴミを早く拾えば拾うほど動物園を見る時間も長くなる。こうなれば自然とチームワークを取る必要があった。そうした団体行動訓練こそ少年団の意義である。

 しかしチームワークも互いの信頼関係があってこそだ。そして今日の出来事は、その信頼関係へヒビを入れるに足るものだった。


『◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎ちゃんのお父さん、ベンゴシさんなんでしょ? 悪いひとを守るひと』

『そんなのおかしいって、うちのお父さん言ってたよ。ハンニンをかばうのに労働者プロレタリアとおなじくらいお金もらってるなんて変だって。なんで悪いひとの味方するの? おかしいよ』


 こんなことを何の気なしに聞かれて、怒らずにいる方がおかしい。


 尊敬する父親を無邪気に貶された怒りがまず先にきたが、それでも彼女はなけなしの根気を発揮した。「手を出してはいけない」。何かと直情的な娘に父母はそう言い含めていた。暴力や暴言を振るうのは負けた証拠だ、正しく言葉で戦え、と。

 それを◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎は素直に守った。けれど「おかしいのはそっちだ」という趣旨だったからか双方喧嘩腰になり、やがて周囲が止めるほどの大喧嘩へと発展して……結果、全面的に悪いのはこちらだということになったのだった。


「う……」


 路地の陰に入り、ごしごしとシャツの白い袖で目を拭う。絶対に彼らの前では泣きたくなくて衝動的に飛び出してきてしまった。おかげで動物園がフイになった。次の活動も気まずいだろう。

 それでもこちらだけが謝るのは納得がいかない。少なくとも父やその職の正しさは認めてもらわないと許せそうになかった。

 父は、正義の味方なのだから。


「……わたし、悪くないもん。お父さんも悪くない。わたしたち、おかしくなんてないんだから」


 誰にも受け入れてもらえなかった主張をひとりごちながらうつむき気味に歩く。三十分以上かけ、ようやく家のある住宅街まで来た。

 まだまだ中心街の趣があるが、大通りに比べれば閑静だ。工業団地にある直線的でシンプルな高層集合住宅プラッテンバウとは異なり、このあたりのアパートは正面玄関ファサードや窓枠に意匠を凝らしたものが多い。戦前からの建物らしく、その古臭さや工業都市特有の煤煙の汚れが、彼女には少なからず不満だった。プラッテンバウの小綺麗さやモダンな設計はささやかな憧れだったから。


 父は今日休みだと言っていた。教師の母も午前までの授業を終えて帰宅しているだろう。夕飯近くに帰る予定だった娘がこんな太陽の高い時間に帰れば、両親が揃って問い詰めてくる。遅かれ早かれ今日の騒ぎは伝わるだろうが、しばらくは放っておいてほしかった。

 しかしこのまま街をうろつくにも、集団行動すべきピオニール姿の少女がひとりでいるのは多少なりと目立つ。だから手はひとつだ。


「よい……っしょ」


 四角く区切られたアパートの中庭。観賞用に植えられた木に手をかけ、器用に幹を登っていく。

 そう広くもない中庭に植えるような木だからあまり大ぶりではない。しかし二階窓際にある自分の部屋へ届くには十分だった。枝に足を乗せ、不安定な姿勢で窓を力いっぱい押す。気密性の高い窓はやや抵抗も強かったが、力が閾値を超えるとあっさり開いた。


 こういう時のために窓の鍵を開けておいて正解だった――母親からは厳しく禁じられているやり方だが。まあ今日のゴタゴタで叱られるのは変わりない、と音をたてないよう室内に入り、クローゼットから普段着を取り出す。そしてそそくさと着替えようとした矢先、彼女はかすかな違和感を覚えた。


「うん……?」


 ぽつりとつぶやく。自室の外、特に居間のほうがなんだか騒がしい。

 テレビの音だろうかと思うが、なんだか違う気がする。そんな質量のない音ではなくて、そう、明らかに父や母以外の人間の気配がするのだ。しかも複数。


「だれか来てるのかな……エマお姉ちゃんのおばさんたちとか」


 同じアパートの彼らなら突然来ることもままある。そしてお客様がいるなら、このまま家にいても彼らが帰るまでお小言は保留になるかもしれない……そんな打算を抱いて、用心深く自室の扉を開いた。

 とりあえずバレないよう居間の様子を伺って、それから決めよう。この判断が分水嶺となることを彼女は知らない。


 板張りの廊下に出ると人の気配はより確かになった。居間のドアは半開きになっており、運がいいと少し思う。内開きだから少し覗きこむ分には見つかりにくい。

 そろそろと居間に近づき、隙間を覗く。細長く区切られた視界に見慣れた景色が映る。反対の壁際に父親の腕が見えて慌てて隠れかけたが、ふとおかしいと気がついた。


 どうしてこの位置に父がいる? こんな姿勢、壁にもたれかかって床に座りこんでいないとありえない。やたらとソファにこだわる父がそんなことをするだろうか。


「あーあ。ほんとどうしたもんかな、これ。で、まだ何も見つからん感じ?」


 聞き覚えのない女の声。居間と繋がった書斎の方から聞こえる。その時◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎ははじめて父の腕になにか赤いものが伝っているのを目撃して、思わず一歩踏みこんだ。

 違和感が警鐘に変わる。視界がドアとともに開けていく。そして映ったものに、彼女のすべてが凍りついた。


「おとう……さん?」


 ぽつりと呼んだ声は届かない。父は壁にもたれて座りこみ、虚ろな目で頭の風穴から赤いものを垂れ流している。


「おとうさん、おかあ、さん……え、なに……」


 母の顔は見えない。父に膝枕をしてもらうような姿勢で倒れこみ、やはり穴の空いた側頭部が父の脚とラグを赤く染めている。

 何も分からない、何も理解できない――ただ世界がひっくり返るような危機感だけに背を押され、両親のもとへ駆け寄った。


「お父さん、お母さん! なにこれ、やだよ、やだ……お父さん、お母さんってば、ねえ!」


 父母の身体を揺らし半狂乱で叫ぶ。

 いつも自分を抱き上げてくれた大きな腕は、弛緩しきってぴくりとも動かない。大きな声をあげれば必ず諌めてきた母も、お説教ひとつ口にすることなく横たわったままだ。肌に触れれば驚くほど固くて冷たい。父の手元には、初めて見る拳銃がひとつ静かに転がっていた。


 生ぬるい感触が脚をじわじわ侵食する。膝をついたソックスやスカートの裾が赤く染めぬかれていく。それに無性に苦しくなった。わけもわからない涙が溢れてきた矢先、背後から気怠げな女の声が降り注ぐ。


「おいおい、娘は少年団って話じゃなかった? ていうか玄関固めておけって言った覚えがあるんだけど。なんでこの子中に入れた」

「い、いえヴァイス中尉。玄関からは誰も」

「はあ。じゃあどっかの窓からかな。厄介なもんだよ」


 難儀そうに言って、両親の姿に釘付けになっていた◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎の肩を抱いて振り向かせる。整った顔立ちが至近距離でこちらの目を直視する。親しげな声と邪気のない触れ方は、無条件で心の警戒を解いてしまいそうになった。


「はいお嬢ちゃん、気になるのは分かるけど触っちゃ駄目。お父さんとお母さんはケガしてるんだ、分かる? 今から病院に連れてくから」


 にこやかに歯を見せて笑う。だからこそ頷けない。だからこそ敵意が止まらない。


 こんな状況で笑える人間が、味方であるわけがない――!


「うそつき」


 ほぼ無意識に吐き捨てて、その肩を思い切り突き飛ばした。

 きょとん、と目を瞬かせながら尻餅をつく灰色の制服の女。その表情も癇に障った。まるでこの拒絶を予想もしていなかったような顔。これまで家族で過ごした居間が見る影もなく荒らされていると、このときはじめて気がついた。


 敵意が敵意を呼ぶ。黒く渦巻く衝動に呑まれ駆りたてられる。気づけば父母の身体に縋りついて、泣き叫びながら彼女を罵倒していた。


「嘘つき……ひどい、大きらい! 分かるもん、お父さんもお母さんも死んでるんだ、あなたたちが殺したんだ!」


 殺した。その言葉を口にすると、よりはっきりと事実が刻み込まれる。

 死という観念は九歳の少女にあまりに遠い。命の消失、永遠の別離。ただテレビや本の中にある事象で、いつか誰もに訪れるとしても、自分たちに降りかかるものとして処理できていなかった。それを突如突きつけられ混乱していないわけがない、逃げ出したくないわけがない。


 だが、父は言っていたから、目の前の現実から目を背けるなと。

 母は言っていたから、まっすぐなあなたが大好きだと。

 だから◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎は真正面からぶつけられた理不尽に、同じく真正面から激情をぶつけるのだ。


「なんでこんなことするの!? お父さんは正義の味方なのに、大好きなお母さんなのに!

 なにも悪いことしてないのに。死んじゃったらもうお話できなくて、ごはんも作ってもらえなくて、いっしょに遊べなくて……」


 これまで当たり前にあったものがすべて失われていく。拙い言葉で並べたてていくほどそれが実感を伴い、空虚が心を串刺し、怒りが初めて抱く感情――憎悪へと変わっていく。

 この女をどうにかしてやりたい。このままじゃ絶対に済まさない。さまよう指先が硬い感触に触れる。そして自分が為すべきことを理解した。


「あなたきらい……大っ嫌い、あなたが死んでよ!」


 拳銃を拾いあげる。構えなど分からない。ただ唖然とこちらを見つめる女に銃口を向け、無我夢中で引き金を引いた。


 ぱん、と思いのほか軽い炸薬の音と、それに見合わない反動が少女の身を襲う。肩の外れた感覚。もんどりうって倒れると同時、どこかにぶつけたのか、それ以上の衝撃が頭を打ちすえた。

 意識が朦朧と遠くなる。鈍く失われていく知覚のなか、いくつかの声が反響する。


「だ、大丈夫ですか中尉! お怪我は?!」

「……掠った程度。けど、こんなの初めてだよ」


 弾は外れたのか――とかろうじて理解した。しかし殺意はもう指先ひとつ動かすことなく、空回りしては遠ざかっていく。

 背中が冷たい。両親の血が意識にまで染みこんで、もしかすると自分もここで死ぬのかもしれないとふと思う。あの女たちに一矢報いることもできないまま死ぬ。そう考えると無茶苦茶に泣きたくなった。


「中尉! 危険です、近づかれては……」

「うるさいなあ。なにが危険だよ、黙ってろ」


 ぼやけた視界が持ち上がる。目に痛いほどの金色が垂れ下がって、ああ、忌々しい。

 指の一本でも動けば、今すぐこの場で、縊り殺してやるのに――


「とんだクソガキフレーゲルじゃないか、反革命分子の娘さんは」


 その吐息のような言葉を最後に聞き届け、少女の意識は途切れた。

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