第四話

 偽装事務所を出て、地下鉄で一回乗り換え約三十分。閑静なヴァイセンゼー地区の片隅にそのアパートはあった。


 ベルリンは終戦時に大規模な市街戦を経験しているため、瓦礫から新たに生まれ変わった建物も、いまだにその傷跡を残す建物も少なくない。このアパートは後者で、一階部分の外壁には未だに生々しい銃痕が刻まれている。

 一方で中はそこそこ改装されていた。まっさらなシステムキッチンなど西にも負けないだろうと、イングリットはなかなかに気に入っていたのだ。

 ここの同じ階の二フロアが自分とエレナ――そして今日からはフレーゲルのものとなる。


 さすがに十一歳の少女をひとりで住まわせるわけにはいかないので、イングリットのフロアのひと部屋をフレーゲルの個室にすることにした。つまりこの無口な少女と同居することになるわけで、気が重いのが半分と気合が入るのが半分だ。

 イングリットが彼女と馴染んであげなければいけない。そういう使命感が、イングリットは嫌ではなかったのだ。


「ここがフレーゲルちゃんのお部屋です。好きに使って構いませんからね」


 フロアの鍵を開け、玄関からすぐ近くの寝室に招き入れる。

 壁紙は黄色を基調とした柄もので、いささか年月を感じさせる色合いだ。平たいベッドにはイングリットの選んだチェック柄のシーツが敷かれ、傍らには勉強机も備えつけてあった。翌日の着替えを準備できるよう、壁にはハンガーを引っかけられる造りになっている。どこからどう見ても完璧だろう。


「なんか、いかにもって感じの子供部屋だなあ。ダサい」

「うっ。い、いいんです。私の実家を再現してみたんですけど、結構居心地よかったんですから。今でもこんな感じですよ多分」

「イングリットが子供の頃って、それ多分十年くらい前のせだ……」

「その私よりひと回り上の世代の人に言われたくないです」


 なぜか一緒に入ってきた上司の言葉をかわしつつ、荷物を降ろしたフレーゲルの反応をうかがう。

 見たところ特に嫌がってはないようだが、別だん喜んでいるわけでもないようだった。まあ難しい気性なのはもう分かっている。快適に過ごしてもらえれば、イングリットにとってはそれで十分なのだ。


「ええと、今日からフレーゲルちゃんは『ポツダムから出てきた私の従妹』ってことになります。そのあたりの偽装カバーについては事前に監督官さんからお話されてるかと思いますので、その通りにお願いしますね。ポツダムに行ったことは?」

『このあいだ、研修で』

「そうですか。私も書類上ポツダム出身ってだけで、故郷は別にあるんですが……いいところだったでしょう?」


 問うと、無表情に頷く。本心なのか求められる答えを返しただけなのかは分からないが、それはこれから見極めていけばいい。

 やがてスプリングの具合を確かめようとしているのか、フレーゲルはベッドに横たわる。心地よさげに閉じた瞳に心が和んだ。


「さて、それでは今日の難しいお話はこれくらいにして。慣れるついでにベルリンをご案内しましょうか」


 ぱん、と手を叩く。タイトスカートのポケットから東ベルリンの観光パンフレットを広げた。そしてペンで色付けした個所をひとつひとつ挙げていく。


「見どころはたくさんあるんですよ。まず共和国宮殿とテレビ塔は鉄板ですよね。ブランデンブルク門も、あんまり壁に近づくと怒られちゃいますけど綺麗なんです。新衛兵所ノイエヴァッフェの衛兵交代式はかっこいいですし、カール・マルクス・アレーは広々としてますし……

 あっあとこの近くに湖があるんですよ! お休みの日はそこでピクニックとか」

「イングリット、イングリット」


 イングリットの長口上をさえぎり、エレナがぽんぽんと肩を叩いてきた。なんですかと少々不服をにじませて応じる。上司の赤いマニキュアがベッドのほうを指した。


「この子、寝てる」


 え、と視界を阻んでいたパンフレットを下ろす。その向こうにはベッドに身を預け、すうすうと無邪気な寝息をたてている少女の姿があった。

 それを見たとたん、計画がフイになったわずかな無念と、それ以上の微笑ましい気持ちが湧く。どれだけ気を張って平静そうに振舞っていてもやはり子供なのだ。午後三時の柔らかな陽射しのなか、寝顔は思いのほかあどけなく、薔薇色の頬が呼吸のたびかすかに震えていた。

 投げ出された足から靴を脱がせてやって、起こさないようにベッドに上げる。そして軽く布団をかけた。上司のほうへは小声で振り向く。


「新しい環境で疲れちゃったんですね。向こう数日は慣れるための期間ですし、今日はこのまま休ませてあげましょう」

「ふうん。イングリットも偉くなったなあ。上司差し置いて新入りの処遇決めちゃうなんて」

「えっ!? いえ、そういうつもりは……!」

「ま、いいよ。面倒だしイングリットに任せるわ。じゃああとよろしく、観光になったら呼んで」

「それまでにお仕事に区切りつけておいてくださいよ……?」


 苦笑する。こういうところに融通のきく上司のことがイングリットは嫌いではなかった。

 DDRの省庁といえば基本的に徹頭徹尾官僚主義だが、養父がソ連と太いパイプを持っているエレナはいささかの好き勝手が許されているらしい。イングリットにしても、息がつまるようなシステムの一部になるよりこちらの方がやりやすかった。そういう意味では自分を拾い上げてくれたエレナに感謝もしている。

 だから彼女もいつか、自分らしくやっていけるはず……そう理由のない確信を抱きながら、フレーゲルの額を軽く撫でた。


「フレーゲルちゃん、おやすみなさい。これからよろしくお願いしますね」


 踵を返す。そして共に部屋の外に出たエレナに早退を申請した。フレーゲルをひとりにするわけにはいかないし、世話役に専念できるようあらかたの仕事は片付けている。何よりエレナ自身が適当なので問題なく受理された。


(これで一晩ゆっくり、フレーゲルちゃんと友好を深められるはず……!)


 しかしその後、フレーゲルは夕食の時間になっても、シャワーを浴びにも起きてこず……よほど疲れていたんだなとイングリットはひとり納得して、大量に作った歓迎ディナーを泣く泣く冷蔵庫に預けたのだった。


***


 夜の帳が下り、それでも不夜城は眠らない。

 ネオンが瞬く。賑わいは衰えを知らず、誰もが肌寒い秋の夜を満喫している。ラフなジーパンを履いた若者たちが真っ赤な顔でバーをはしごし、観光客が夜闇も構わず写真を撮り、街灯の届かない暗がりでは髪を染めた青年たちが壁に落書きをして笑っている。ベルリンという街はいつもこうだ。人々という血潮が街をめぐり、羽目を外したお転婆娘のような生を謳歌している。


 しかし、それも壁に囲まれた街だけのこと。赤い海に浮かぶ自由の島西ベルリンの特権。

 壁の向こうの大海は、嵐の気配も見せず穏やかにたゆたっている。


「……」


 そんな鏡に写されたように真逆な世界で、密やかに小さな波が生まれようとしていた。


 東ベルリンの一角、壁に大戦の傷跡を残す古風なアパート、その踊り場。ある扉の前で場違いな光が灯っている。

 懐中電灯の光は覆いをかぶせてぎりぎりまで絞られており、ドアノブの鍵穴を遠慮がちに照らし出していた。細長く無機質な器具がいくつか突き入れられかちゃかちゃ動く。


 その様は歯医者の診療を真似たごっこ遊びにも思えるかもしれない。しかし一見しただけで分かるだろう――紛れもなく鍵破りピッキングそのものだ。

 人影は慣れた手つきで解錠を済ませ、懐中電灯のスイッチを切る。周囲一帯がまた闇と静寂に包まれた。きぃ、とわずかに窓の軋んだような音だけが、扉の開いたことを告げる。


 その内へ踏みこむ影。続く廊下はリノリウム張りだが、靴下を履いた足は歩む音を吸い取って響かせない。そのまま最寄りの部屋へ進む。影はしばらく扉ごしに耳を澄ませ……そろそろとドアノブを押した。

 部屋の主にカーテンを閉めきる習慣はないらしく、月明かりが中の様子を照らし出す。立ち並ぶ本棚と、窓際に据えられた机とスツール。どうやら書斎のようだ。

 目当てのものはないと悟ったのか、影は視線だけ走らせて扉を閉じた。そして次に向かう。短い廊下の突き当たりには左右に扉があった。


 影は迷わず左の扉に耳をつけ、物音のしないことを確かめる。そしてごくりと息を呑み、慎重にドアを押し開けた。

 寝室と思しきそこにもやはり月光が射し、モノクロームに沈んでいた。浮き上がる家具の輪郭は死に顔めいて仄青く、半端な光も陰影ばかりを強調する。静寂がいっそう耳に痛い。まるで夢の中にいるかのよう、現実味のない風景。

 影は迷わず足を踏み入れる。


 一直線に、これまでの用心深さを思えば性急なほど余裕のない足運びで、部屋の中央へ進む。二人用であろう大きなベッドの傍らで、眠る人間を凝視する。


「……」


 。どんな形容をしても、おそらくはこの言葉に収束するであろう。


 寝息のたびに長い睫毛がかすかに揺れ、ワイシャツに包まれた豊かな胸と金の毛束が上下する。

 真っ直ぐな仰向けなのに布団はほとんど蹴り落とされていた。ワイシャツ一枚の下は身につけていない。わずかにのぞく下着から伸びた脚は、月明かりに白く映えている。


 影はそれらを一顧だにせず、っと顔だけを確かめる。そして小さく唇を噛むと、出し抜けにベッドに膝を乗せた。

 音も立てず肢体をまたぐ。腹の上で少し腰を浮かせる。ほとんど馬乗りの姿勢だ。やがてハーフパンツのポケットをまさぐって、白々と冴え渡るものを取り出した。


 フォーク。笑ってしまえるほど日常的な道具。しかし影の手にあるそれは三叉の槍めいて鋭く研ぎ澄まされ、凶器独特の昏い輝きを放っていた。

 両手で柄を握る。横たわる首筋に切っ先を向ける。月が雲間に至り、より一層月光は明るさを増す。


 照らし明かされた姿は、殺意を眼に焼きつけた少女のかたちをしていた。

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