第三話


 オイゲン・レヴィーネを知っているかという問いに、フレーゲルは首肯を返した。

 どんな人間だと聞かれて、手帳には『むかしバイエルンに共産党の国をつくって、でも殺されたえらいひと』と記された。

 彼の有名な言葉は分かるか、とわざわざ難問を当てる意地悪な教師の声にも『私たち共産主義者はみな、死にいとまを与えられた死者たちなのだ』とさらさらとペンを滑らせるから、イングリットは舌を巻くしかない。


 しかし、ならばこの特務機関が彼の名を冠することにどんな意味があると思う? との問いかけにフレーゲルはしばらく押し黙り……やがて潔く首を振った。


「つまりは、だ」


 紅茶にイチゴジャムが攪拌され、甘ったるい匂いが漂う。笑うエレナはティースプーンを引き上げると、壁に掛けられた書記長ホーネッカーの肖像画を指した。


「共産主義と社会主義の殉教者たるべし。祖国DDRに身を捧げ、命を散らすことをためらうな……まあ要するに、危ないことを死ぬほどやらされるってことだよ」


 物騒なことを言ってスラックスの脚を組む上司。そこにケーキを供しつつ、副官のイングリットは内心息をつく。

 お茶の席の出だしがこれか。それにこんな言い方だと、まるで自分たちだけが危険を負わされているかのようだ。


 「社長室」とはいえあまり華美な装飾はない。クリーム色の壁で囲われた空間には、いくつかの棚と簡単な仕事机が佇んでいるだけだ。上司の脇に控え、さりげなく補足しておく。


「国家保安省自体も諜報機関ですし、危なくないわけじゃないんですよ。外国に送られたスパイの人とかもいますけど、無事に帰ってこれる保証もありませんから……」

「だが我々の部隊は、敵との交戦が必要な事態を念頭に置いて存在している。レヴィーネ機関が特別な理由は色々あるが、これが一番大きいかな」


 早速チーズケーキをパクついてさらに補足するエレナ。ロシアンティーといい、寝起きだろうに血糖値を上げすぎではないだろうか。

 一方のフレーゲルは一番大きく取り分けたケーキにも手をつけていない。紅茶も唇を湿らせる程度に飲んだだけだ。仕事机を挟んで置かれた椅子にちょこんと座り、平然とした顔で手帳の文字を見せてくる。


『敵って、だれ?』

「DDRが戦う相手なんて決まってるじゃんか。反革命勢力、それだけ」


 単純明快な答えだ。だからこそ難解でもある。


「反革命勢力って言ってもですね、基本的には芽のうちに人民警察や国家保安省のひとが徹底的に潰すんですよ。なので、本当なら基盤なんてほとんどないんです」

「国内には、な」


 部下の説明に応じてまた付け足すエレナだが、なんだろう、もしかして自分はいいように使われているのだろうか。

 少し釈然としないものの、重要な話をしているのは事実だ。もう口は挟むまいとだけ決めて、上司の言葉に耳を傾けた。


「なら、交戦できるほど丈夫な『敵』は、いったいどこに支えられているか」


 反革命勢力。

 敵対国家。

 平等と共生共栄を理念とする共産主義に対する、格差と競争がすべての修羅の世界。


『西がわ』

そのとおりダス シュティムト


 数学の公式のような決まりきった答えに、エレナは小気味よく指を鳴らした。


「片っ端から国内の反革命分子狩りをしてんのに、それをすり抜けて国外のスパイがDDRに巣食ってる。ただの情報収集とかならまだしも、反革命テロ行為を支援したりしてみなよ。党の威信に関わる」


 党の威信。あまり好ましくはない文言だが、体面を保つことに腐心する高官が少なくないのも事実だ。西側スパイの話にしても、プロパガンダ以外の目的で国民に知らされることはほとんどない。

 西側諸国の脅威と戦いながらも、常に勝ち続けている豊かで正しいDDR――その幻想を崩すわけにはいかないのだ。


「で、そういう危険度の高い連中を秘密裏に捕捉して、必要とあらば潰すのが我々の仕事。秘密裏にやるっきゃないから、ここは特務あるはずのない機関ってわけ」


 そう締めくくり、エレナはチーズケーキの最後のひとかけを口に放り込んだ。もぐもぐと咀嚼しながら行儀悪くも口を動かす。


「仕事場についての説明は以上。で、質問はあるかな」


 その問いに、フレーゲルは一瞬だけ眉を寄せた。

 ほどなくして手帳にペンを滑らせてこちらへ見せてくる。相変わらずの無表情だが、文面にはやや戸惑っているような色があった。


『すこしだけ、いいですか』

「少しなら」

『ここでわたしは、なにをすればいいの?』

「考え中」


 あっさり突き放すと、エレナは椅子の背に身を預けた。長い脚を組み直し、お手上げとでも言うかのように肩を竦める。


「いやね、こっちとしても正直困ってるんだよ。上に言われたから関わったけど、実戦投入するにしても遊びじゃないんだからさあ、足手まといになると参る」

「遊びじゃないって、大尉……」


 まさか彼女の口からそんな言葉が出るなんて。

 本気なのか冗談なのか図りかね、半ば絶句するイングリット。追い討ちをかけるようにエレナがこちらに首を傾ける。


「だから当面考え中。イングリットに次ぐ我が隊のマスコットしてくれればいいや」

「ちょ、私そういう立ち位置だったんですか!?」

「あれ、自覚ないん」

「大尉の書類仕事減らしてるの誰だと思ってるんですか!」


 飄々と適当なことを言う上司に、イングリットの堪忍袋の緒がまた切れる。無意識に眼鏡の弦をカチャカチャ鳴らしていた。


「いいですか、この際言っておきますけど私は元々一般人民ですし、ここに来たのも事故みたいなものなんですよ!?

 それがどうしてこんなところでやたら権限のいる書類扱わされたりして……もう本当なんなんですか……」


 最後の方は言葉を濁す。実際は扱うどころの話ではない。内容を確認して問題ないと判断できれば、そのまま上司の筆跡を真似て署名させられたりもしている。

 機密厳守の国家保安省、それも特務機関ではあってはならない事態だが、当の上司はけらけらこちらを指差して笑うだけだ。片棒を担がされているイングリットにしてみればたまったものではない。


「いやあイングリットがいると助かるなあ、一部署に一台イングリット」

「人を電化製品みたいな扱いしないでください!」


 そんな半泣きの不満を感じ取ったのか、エレナは上半身をひねってこちらを向く。イングリットの肩を労わるのかあやしているのかポンポン叩いた。


「ほらほら愛い奴愛い奴。マスコット二号のお世話もこの調子でよろしく」

「ううぅ……」


 これぐらいで誤魔化されたくはないのだが、今はエレナ曰くマスコット二号――フレーゲルがいる。

 さすがにこれ以上の失態は見せられないし、そもそも今日の主役は彼女だ、このまま上司と自分とで話しこむわけにもいかない。そう我に返り、イングリットは小さな影に視線を戻した。


「……お見苦しいところをお見せしちゃいましたね、申し訳ありません。フレーゲルちゃん、ほかにご質問はありますか?」

「えー、少しだけって言ったじゃん」

「大尉は黙っててくださいませんか……あれ?」


 そう上司の軽口を抑えこんで、はたと気付く。

 フレーゲルの前に置いた、手をつけられていないままのチーズケーキ。いや、手をつけることができないのだ。そもそもフォークがないのだから。


「ご、ごめんなさい! 今すぐキッチンから取ってきます!」


 さっと顔から血の気が引く。なんて大失態だ。声が出せない彼女に自己主張は難しいのだし、これではまるで新米いびりではないか。

 確かにフォークを二本持ってきた覚えはある。あるものの、そんなもの目の前の現実に対しては無意味だった。慌てて身を翻す。


「やーい、イングリットの粗忽者〜」

「あなた本当に三十代ですか!?」


 小学生にも劣る揶揄にも突っ込みを忘れられない自分が恨めしい。

 その揶揄が「ちょい待ち」と涼しげな声に変わったのは、イングリットがドアノブに手をかけたあたりだった。


「これ使いなよ。使用済みでよければ。私は食べ終わったし」

「……」


 エレナの差し出したフォークを無言で見つめ、しばし逡巡するフレーゲルの背中。そのままおずおずと腕を伸ばす。ぎこちない手つきがフォークの柄を握る。

 ほっと、一気に肩の荷が降りた。エレナがこんな振る舞いをすることなどそうそうない。半ば感激、半ば申し訳なさで頭を下げた。


「……ご迷惑、おかけしました」

「許す。マスコットにはそういう可愛げも大事」


 マスコットという形容にはもう反論する気もない……というかフォローしてもらった手前反論できない。もうそれでいいや、と諦め混じりに机に戻る。フレーゲルがようやっとケーキに口をつけていた。

 フォークで切り分け、小さな口に運ぶ。それだけの流れが非常にゆっくりとしていて、どこかたどたどしくすらあった。よくよく見れば左手――ペンを握っていた手とは逆だ――で食器を握っている。単純に両利きなのか、あるいは……


(もしかして、緊張してるのかな。この子なりに)


 育児院育ちであることもあって肝の座った子どもだと思っていた。だがこんな得体の知れない場所で気後れしないはずがない。一切顔色が変わらないとはいえ、それを見越して気遣ってやるのも大人の務めだった。

 よし、と気を引き締める。不器用にケーキを食べるフレーゲルに近寄ると、一見平然としている顔を中腰でのぞきこむ。そして精一杯のにこやかさで語りかけた。


「フレーゲルちゃん、それ食べ終わったらちょっと休憩にしましょうか。とは言っても今日のスケジュールはこれくらいなので、帰ってゆっくりするのも全然構わないんですけど、友好を育むのもいいかなと思ってて、ええと……」


 とは言ってみるものの、フレーゲルはといえば本当にまったく表情が動かない。自信がどんどん萎んでいく。

 けれど、歩み寄るにはこちらから踏み込むことが大事――そう自分を鼓舞して、勢いのままに言い切った。


「フレーゲルちゃんの聞きたいこととか知りたいこととか、フレーゲルちゃんのお話したいこととか! なんでも言ってくれていいんですよ」


 全肯定の笑みを浮かべると、フレーゲルの視線がようやっとこちらを向いた。

 その反応だけで拳を握りそうになる。対面のエレナがニヤニヤしているのが視界の端に見えたが気にならない。口の端にケーキの欠片をつけたまま、フレーゲルはペンを持ち――そして手帳に走らせた問いをイングリットに向けた。


『帰るって、わたし、どこで暮らせばいいの?』


 あ、と間抜けな声が漏れる。

 フレーゲルが口をもぐもぐさせながら瞬きする。

 エレナがこちらを指差して大笑いしていたが、なんだかもう、抗議する気力は尽きていた。


 がっくりと肩を落とすのは辛うじて堪える。代わりに弱々しく微笑み、なんとか大人の務めを果たした。


「……今日からのおうちに、ご案内しますね……」

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