第二話

 フレーゲルと自ら名乗った彼女は、もとは平凡な親元で育った平凡な少女だった。

 もっとも、平凡というのは表面上だけの話であって事実ではない。彼女の父親は弁護士、母親は教師という立派な家庭だったが、隠れて西側諸国への亡命を支援しているスパイでもあった。二年半ほど前、それが発覚して自宅へ検挙に入ったところ、激しい抵抗から交戦状態に入り両名とも射殺……イングリットが書類で知った限りはそういう話だった。


 両親の死と正体を知らされたフレーゲルは心的外傷を負い、失声症を発症。失声については今に至るまで快復の兆しを見せず。身寄りのない彼女は『育児院』――孤児を理想的社会主義者に育成し、将来の国防要員とする極秘の国営養護施設――に入れられ、徹底した思想教育と諜報教練を受ける。

 もとから真面目な性質たちだったのだろう。反革命分子の娘にもかかわらず、努力を惜しまず優秀な成績をあげていたそうだ。


 そして半年と少し前、少年少女を実験的に特務に加える計画が立ち上がる。

 フレーゲルも推薦されて適性試験を受けた。IMとして活動し、身近な人物の内情を探っていたのもその一環だ。最終的にはその相手を自白に持ち込めるまで自分も尋問と拘置を受けるというのだから、十歳そこらの少女にはさぞや過酷だったろう。

 それでも彼女は最後までやり遂げ、見事に選抜された。


 そして配属されたのがこの特務部隊――国家保安省レヴィーネ機関の第十三部隊だったという次第だ。


「ええと、それでお手洗いはこっちですね。給湯室はあっちです」


 てくてくと、フレーゲルの小さな歩幅が背後に続く。彼女に案内しているのはこの隠れ家の間取りだ。

 隠れ家といってもただの偽装事務所で、小さなオフィスビルの丸々一階を間借りしているだけでしかない。このフリードリヒスハイン地区は東ベルリンの中心地にもほど近く、戦後の復興期には大きな区画整理も入った。国営ペーパーカンパニーを構えるにはうってつけだろう。ここも陶器の貿易会社の看板を掲げている。

 まあ結局のところ特務部隊の拠点なので、まったく普通のオフィスというわけにもいかないのだが。


「で、この裏に武器弾薬が隠せるようになっているので、必要になったら言ってくださいね。誰かにどかしてもらうので」


 秘書室の本棚をこんこんと叩く。我ながら物騒な話だなとは思うものの、思うだけだ。もう慣れた。


「ううん、そうですね、今説明できるのはこんな感じでしょうか。なにか質問ありますか?」


 廊下の端で振り向くと、じっとこちらを見上げるフレーゲルと目があった。大海のようにたゆたう瞳に情動の兆しはない。このまま覗きこんでいると呑みこまれそうだ。

 幸いにも、イングリットが視線を逸らすより先に彼女がペンと手帳に目を落とす。そして書き出された問いは、しごく真っ当にイングリットの痛いところを突いていた。


『ここで働いてる人は、これだけ?』

「あー……」


 なんとも言えない声をあげ、眼鏡の位置を直す。先ほどフレーゲルに紹介したのは受付係の事務員と、あとは各々の仕事に従事する無口な盗聴要員たちが数人だけだ。これからフレーゲルと絡むことはほとんどないだろう。

 一方、彼女と多く接するような人間はといえば。


「ちょっと今、出払ってる人が多くて。別のところに出向してる人もいますし、こっちに出てきたときに改めて紹介しますね」


 嘘ではない。約一名について言及していないだけで。


「えーと、ほかにご質問はあります?」


 やや強引に次へ移る。しかしその次でも、意識的にか無意識にか、フレーゲルは的確に逃げ道を塞いできた。


『あそこの部屋は、入っちゃいけないの?』

「……ううぅ」


 小さな指が示したのは、廊下の最奥にある部屋――『社長室』のプレートが打ちつけられた扉だ。


「は、入っちゃいけないっていうか……いけなくもないんですけど、どうお話すればいいか……」


 なんと説明したものか。入ってはいけないのだと安易に頷いてもいいが、今後彼女が必要なときに入室できなくなってもいけない。そもそもあの部屋の主は気まぐれだ。入室の基準は特に決まっていなかった。

 とはいえこのまま案内してしまえば、なんというか、威厳に関わる。イングリットのではなく、言及を避けた約一名の。


(もう、大尉は何やってるんだか……!)


 胸中で毒づいても来ないものは来ない。あの上司がイングリットの願いを聞いたためしなどないのだ。少女の肩をつかみ、半ば無理矢理回れ右をさせる。


「も、もう少しで案内できるようになると思うので、それまでお茶でもどうですか? おいしいお菓子もあるんですよ!」

「お菓子ってアレか、戸棚の上のとこに入ってたクッキー? 超美味かった」

「そう、ほんっとおいしいんです! もうベルリン一じゃないかっておいしさで、党がパン屋まで完全国営化する時がきたら、あのお店のレシピを共通化すべきだと思うんですよ!」

「ふうん、そこまでか。どこの店か言ってみ? 党のお眼鏡に適うか私が試してきてやるよ」

「またまたそんなこと仰って。もっともらしい理由をつけて抜け出したいだけでしょう大尉……は……」


 脊髄反射で反応していた思考がようやく異常を検知する。

 フレーゲルは声が出せない。受付係は受付から動かないのが仕事だ。ならばイングリットの背から聞こえる、この飄々と涼しい声音は――


「どーしたよイングリット、そんな檻破って出てきた珍獣見るような目して。傷つくじゃん」

「檻破って出てきた珍獣以外のなんなんですかあなたは!?」


 振り向きざまに突っ込むと、影は思いのほか近くでイングリットを見下ろしていた。着崩したシャツからバニラの香りがふわりと漂う。気怠げな金髪がイングリットの鼻先をかすめていた。


 美しい女だ。そう言ってしまえば陳腐だが、十人中九人は同じ第一印象を抱くだろう。


 軽くパフを叩いた程度の化粧は、筋の通った目鼻立ちをむしろ引き立てている。瞳がどこか艶っぽい印象なのは睫毛が陰を落とすせいか。しかし血色のいい肌は溌剌と瑞々しく、唇など少女めいた桜色だ。色気とあどけなさの調和、一種独特の雰囲気がある。

 そんな三十路も半ばとは思えない姿を台無しにせんとばかり、当の本人はニヤニヤ笑うばかりなのだが。


「ひっどい言い草。せめて猛獣とか言えってば」

「先に言ったのは大尉でしょう。というか珍獣でも猛獣でもなんでもいいんですが、何か言うことはありますか?」

「おはよイングリット。クッキーはもうないぞ」

「もうお昼です!!!」


 フレーゲルの前であることも忘れて声を荒げる。そもそもとして、彼女がさっさと表に出てくればこんな苦労はしなかったのだ。こちらを悠々と見下ろす美貌に詰め寄る。


「今日は新しい人が、それも子どもが来るって私言いましたよね? 最初くらいちゃんとしてくださいっていうのも言いましたよね!?

 なのに大尉爆睡してるし全然起きないし私ひとりで場をもたせなきゃいけないし、もうもう、もうっ!」


 不満が溢れて止まらない。もう少し自制心が欠けていたら地団駄だって踏んでいただろう。

 上司にこんなことを言うなどもっての外なのだが、こと彼女についてはここまで言わないと――時には言っても――行動にセーブがかからなかった。しかも諌める人間はイングリット以外いない。胃に穴が空きそうだ。


「それはそれはお疲れ。んじゃ私の代わりにあっちで寝る?」

「寝ーまーせーん! それより大尉、ほら、挨拶してください!」


 彼女の後ろに回り、ぐいぐい背中を押す。完全に置いてけぼりの流れになっていたからだろう、フレーゲルは背中を向けたままだった。さりげなく促すと横顔がちらりと振り向く。やはり表情は硬い。


「今日から配属のフレーゲルちゃん……あ、いえ、実際の偽名は違うんですけど。本人がこう呼んでほしいって」

「ふうん。フレーゲル、ね」


 興味があるのかないのかそれだけで済ませ、上司はしゃがみもせず手を差し出す。親子ほど歳の離れた相手なのに、まるで旧来の友人を前にしたかのような気安さだった。


「どうもおチビさん、大尉のエレナ・ヴァイスだ。第十三部隊のボスだよ、一応。これからお前の上司になる。敬うといい」

「……」


 声を出さないまま向き直り、その手をとるフレーゲル。しかし無言ではなかった。エレナの手を握りしめながら、うつむいた唇がうごめく。


 ――『あいたかった』?


 不思議な言葉選びだ。単純に育児院に言い含められた定型句なのか、それともどこかでエレナの噂を聞きでもしたのか。少なくともイングリットには、彼女がそう言っているように見えた。

 エレナもその言葉を読み取ったのだろう。垣間見える口元には笑みがあった。


「ああ、そう。私もお前を待ってたよ。さて、一服するか」

「え、一服って」


 まさか顔を合わせて早々喫煙するつもりなのかこの上司は。そう戦々恐々としたものの、振り向いたエレナはひょいと肩を竦めて言った。


「お茶にするって言ってたじゃん。そいじゃイングリット、よろしく」

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