1981年 秋――なき人のためのソナタ

第一部:フレーゲルという少女

第一話

「子ども? ここに、ですか」


 中年の受付係が怪訝そうに問いかける。国家保安省シュタージの新米職員イングリット・ケルナー少尉はそれに苦笑し、ポニーテールを重く揺らした。


「はい。お手数をおかけして申し訳ないのですが、今日からうちに所属することになった子がいまして。そのまま通してあげてください」

「了解しました。なにか本人確認ができるものを教えていただければ」


 受付の事務員はあっさりと頷く。不審には思っていても、上から命じられたなら決して深く追求しない。この職場の鉄則だ。

 こうした不文律はイングリットにしても息苦しく感じることが多かったが、今回に限ってはありがたい。軽く頭を下げる。視界の端で眼鏡のフレームがわずかにずれた。


「ありがとうございます。お昼過ぎには着く手筈になってるので、その時間帯だけ気にかけてあげてください。身長は140cmくらいで、髪は肩につくかつかないかって感じで、」

「いえ。名前と身分証明書の番号だけ教えていただければ」

「ああ、そういう……」


 また苦笑する。勤めて浅いせいもあるが、この徹底的に事務的なところはまだ慣れない。あるいはイングリットが世間ずれしているのか。

 気まずいのをごまかすように眼鏡のブリッジを押し当てた。書類にあった名前を反芻する。


「ええっとですね、確か、名前は……」



***



 十三時きっかりに、応接室の扉を叩く音がした。


 「どうぞ」と応じて現れたのは、写真で見たのと寸分違わない少女だ。イングリットよりも頭ひとつ分ほど小さな体躯に、つむじから広がる柔らかな栗色の髪。前髪はまっすぐ切り落とされており、その下では凪いだ碧眼がこちらを見上げている。

 ワイシャツと赤いネッカチーフ――少年団ピオニールの服装にサスペンダー付きの半ズボンを合わせた姿は、いかにも愛国的な少年少女だった。


 はじめましてと挨拶をしてもぺこりと頭を下げるだけだったが、声が出ないことは聞いていたので特に驚きもない。しかしソファに座ってもらって書類の確認をしていると、不意に事務的とはかけ離れた声がでてしまった。


「IM名が……えっ? これでいいんですか、本当に?」


 手元の書類と向かいの少女を交互に見やる。少女が無表情に首を傾げたものだから、慌ててフォローを入れた。


「あ、いえ誤解しないでください。別にダメってわけじゃないんですけど、なんていうか」


 じっと書類のアルファベットを追う。どこか一文字違うのではと思いもしたが、やはり何度読んでも同じだ。眼鏡の弦に触れながらかけた言葉には、困惑が隠しきれていなかった。


「「クソガキフレーゲル」って……ずいぶん、自虐的だなって」


 非公式協力者IM――シュタージに情報提供する民間からの協力者――としてのコードネームは、通常自分の判断で選ぶことができる。

 彼女も「試験」の一環で半年以上IMの経験を積んでいたと聞いているが、その間このコードネームを使っていたらしい。「あ、自虐的って意味わかる?」と聞いてもふるふると首を振るこの少女が、そんなウィットを利かせるとも思えない。


 イングリットの戸惑いを察したらしく、少女は手帳を開いてペンを走らせる。しかしいささか幼い筆記体で綴られた文章は、イングリットをさらに困惑させた。


『わたしが、その名前にしたくて決めたの。だからこっちの名前で呼んで』

「え、えぇ……」


 使うのを嫌がるどころか、積極的に呼べときた。

 分厚いレンズごし、少女の親類縁者の名に目を通す。フレーゲルという名に該当はない。友人にも。アナグラムやいくつかのシフト暗号等を考慮しても、それらしい由来は彼女の人間関係に見当たらなかった。


 クソガキ、とはいっても子どもの諜報員など大方の想像の埒外だろうし、個人に結びつくような要素がなければ支障はない。支障はないのだが……個人的な抵抗がある。


(まあ名字でなら聞かなくもないし、そういうつもりで呼べばいいかな……?)


 そう罪悪感を宥めすかし、イングリットはその名を舌に乗せた。


「ええと……フレーゲル、ちゃん?」


 こくり、と当然のように頷く少女――フレーゲル。この国には珍しい、クッションのくたびれていないソファが気に入ったのだろう。しきりに尻を浅く上げては沈めてを繰り返している。

 そんな子どもらしい仕草と、自らを卑下する名を平然と名乗る無表情は、いかにもアンバランスで違和感が凄まじい。


 しかし「育児院ヴァイゼンハウス」の育ちは多かれ少なかれズレている……と上司が言っていたから、きっとそういうことなのだろう。多分。努めて気にしないことにして、イングリットは背筋を正した。


「では、同志フレーゲル。改めて意思表明をいただければと思います」


 国家保安省の少尉としての言葉が朗々と流れてくる。昼下がりの陽射しの映りこむ、鏡のように平らかな瞳と対峙する。


「あなたは祖国ドイツ民主共和国DDRと社会主義のため、その身を捧げることを誓いますか?」


 間をおかず、言葉の代わりに首肯が返る。どこまで理解できているのかは分からないが。


「人民の平等のため粉骨砕身の努力をいとわず、反革命的・帝国主義的思想と徹底的に闘い、党の盾であり剣たることを約束できますか?」


 これにも首肯。ここでイングリットは傍らの茶封筒を手に取り、一枚の紙を引き出した。


「ならば同志。この署名でもって、あなたは祖国と党の闘士となります。よき社会主義保安要員チェキストたる覚悟とともに、この名誉をお掴みください」


 机に差し出す書類と万年筆。長々と小難しい言葉ばかりが綴られているが、要約すればこうだ。


 ――この書類にサインした瞬間から、彼女の命はDDRの所有物となる。


 そう説明する間もなくフレーゲルは万年筆を取り、インクを名前のかたちに結んでいく。相変わらずの無感情だが無思慮の筆致ではない。おそらく彼女は、このサインが何を意味するか知らされている。

 だから、イングリットもこれ以上彼女を子ども扱いすることは許されなかった。返された書類をゆっくりと受け取る。新たな同志に向け、迷いなく手を差し伸べる。


「ようこそ、フレーゲル臨時下級少尉。国家保安省レヴィーネ機関 第十三部隊はあなたを歓迎します」


 そっと添えられた小さな手。握るぬくもりは本当にただの少女のもので、けれど確かに、なにか覚悟のともった熱でもあった。

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