おねロリチェキスト

橘こっとん

序章 東ドイツという国家


われら同志よ手を取りあい

人民の敵を打ち破らん

輝き満つるは平和の光

母が二度と子を亡くして泣かぬよう 泣かぬよう

 ――東ドイツ国歌「廃墟からの復活」より



***



 この国には嘘ばかりが満ちている。

 それが女子大生エマ・ホフマンの奥底に刻まれた確信であり、彼女が唯一手にすることのできた真実のかけらだった。


「大丈夫。大丈夫だからね。お姉ちゃんがついてるから……」


 廊下の看守に届かないよう耳元で囁く。何度となく撫でる頭はかすかに震えていて、小さな身体には収まりきらない怯えを伝えてきた。


 エマ自身にも余裕などない。このままだと眠ってしまいそうで、薄いベッドに座ったまま周囲を見回す。申し訳程度の机が壁に面して沈黙し、洗面台とトイレが剥き出しで佇んでいる。ここ数日だか数週間だかで見慣れた景色。夏の暑さが身にしみる狭い独房。

 はめ殺しの窓には格子が据えられ、かろうじて今が昼か夜かくらいは判別できた。ここがどこにある施設なのか、肝心なことはさっぱり分からなかったが。


 ただ理解していることはひとつ。これはならず者の仕業などではなく、もっと厄介なもの――れっきとした権威のもと行われている無法であるということだ。


「大丈夫……」


 壊れたレコードのように繰り返す言葉。震える少女を安堵させようとしているのか自らに言い聞かせているのか、エマ自身にももう分からない。

 これがエマや少女の生きる国。ドイツ民主共和国DDRの真の姿。

 一九八一年、壁は堅く高く首都ベルリンを分かち、その先の自由は天地ほどにも遠かった。



***



 なぜこんなことになったのか。直接的な理由としては、エマが体制批判と西側賛美のグループに加わっているのがバレたからだった。


 工業都市ライプツィヒでは国際見本市が開催されることもあり、西側――資本主義諸国の文化にも比較的触れやすい。そうして彼らの自由に惹かれ、自国の理不尽を理解する若者も少なくなかった。カール・マルクス大学に通っていたエマもその一人で、地下グループで祖国を変えるべく動いていたのだ。

 ビラ貼り、陳情書の送付、亡命希望者の手助け……活動には万全を期していたが、逮捕は突然だった。


 パン屋の柄のワゴンバルカスが傍らに停まったかと思うと、中から灰色の制服の男たちが出てきて告げたのだ。「反革命的活動およびスパイ活動の容疑で逮捕する」。それにはいともいいえとも言う間もなく、エマは後部座席に放り込まれていた。

 外も見えないまま狭い護送車に閉じこめられて、数時間どことも知れない場所を引きずり回される。停止する回数が少なかったあたり高速道路アウトバーンすら使ったのかもしれない。最終的には監獄で降ろされ、この独房に放り込まれ――


「起きろ、この反革命分子が!」


 怒鳴り声がぼやけた思考を叩き割る。忙しないノックの音をようやく認識して、エマはむっくりと身を起こした。

 いつのまにか眠っていたらしい。扉の覗き窓からは看守の厳つい顔が半分見えていて、くぐもった声が届いてきた。


「睡眠は夜間しか認めないと何度言えば分かる。大人しく座って自己批判でもしていろ、マットレスを没収してもいいんだぞ」

「……ごめんなさい。反省するわ……」


 虚ろな声が考えるより先に漏れてくる。本当なら口汚い言葉を浴びせてやりたかったが、それで被害を被る人間はエマ以外にもいる。同じく目が覚めたらしい少女がエマの傍らで上体を起こしているところだった。

 何よりもう頭が回らない。眠気が意識のほとんどを侵食していて、眠らせてくれと懇願しないのがやっとだった。


「でも、せめて彼女は、この子だけは……まだ子供なの。眠らせてあげて、お願い……」

「規則だ。諦めろ」


 無情な吐き捨てとともに、カシャンと覗き窓が閉まる。そのまま壁に背を預け、ぐらつく頭で天井を仰ぐ。

 何が睡眠は夜間しか認めないだ。尋問は夜に長時間かけて行われる。規則とやらに照らし合わせればまともに眠ることも叶わない。そうして消耗させることが狙いなのだろうが、エマも素直に罪を認めるわけにはいかなかった。

 グループの仲間や恩師のため、職を失うかもしれない親のため――そして傍らにいる、彼女のため。


「……」


 労るようにエマの肩を叩いたのは、憔悴しきった目をした少女だった。公園でエマと話していたところを同時に捕縛され、同じ独房に入れられた女の子。

 なぜエマだけを捕らえなかったのかという問いには、「彼女がエマから思想汚染を受けているかもしれない」からだという。エマと同じように眠れない尋問も受けていた。

 つまりエマが喋ってしまえば少女も不利になる――その使命感がエマの正気を保たせていた。


「……ありがとう。大丈夫だよ、私は負けないから……絶対守ってあげるから」


 そう肩を抱くと、少女はエマに寄り添ったまま無表情に頷く。「おねえちゃん」と唇だけが動いた。


 彼女は口がきけない。正確には、きけなくなった。


 もともとエマとは同じアパートに住んで家族ぐるみの付き合いをしていたが、しばらく地方の親戚に引き取られていた。二、三年前、事故で親を失い、その場に立ち会ってしまったらしい。

 その際のショックで声を出せなくなり、今でも改善の兆しは見えないという。故郷のライプツィヒに戻ってきたのも半ば療養目的なのだと、彼女を引き取った親戚と名乗る女性から聞いていた。


(前はあんなに元気な子だったのに……)


 エマを「エマお姉ちゃん」と慕ってくれた。豊かな喜怒哀楽は微笑ましく眩しかった。だが今の表情には年不相応に起伏がなく、ここではないどこかに心奪われているようだ。だからだろうか、最近のエマは彼女から目を離すことができなかった。

 あの笑顔を取り戻してほしい。その一心で接し続けてきたのに、その結果がこれではあんまりだ。せめてエマが責任を取らなくてはいけない。彼女の小さな手を握り、何度となく誓ったことを囁く。


「大丈夫。私が守ってあげる。絶対に……」


 自分や仲間の身だけではない。この子のことも守ってみせる。

 それがエマたちを抑えつけるこの国に対する、エマ・ホフマンただひとりの、ちっぽけで精一杯の抗いだった。



***



 戦後ソ連によって作られた社会主義国家であり、東欧でもっとも経済的にも社会的にも安定している国であり、東西冷戦の最前線。それがドイツ民主共和国という国だ。

 階級のない平等社会、労働者が尊重される理想国家。ソ連をはじめ、社会主義を奉じる東側陣営は総じてこのように謳っている。お笑い種だ。自分たち人民から自由を奪っておいてなにが理想というのだろうか。


 たとえば旅行。同じ東側陣営内ならともかく、西側――資本主義諸国への渡航には厳密な審査が必要となり、滅多に許可は降りない。西への亡命防止のためだ。そして一度申請すればやはり亡命を疑われ、当局から目をつけられることになる。

 たとえば職。「DDRに失業者はいない」というのが公式発表だが、「DDRでは失業者の存在を認めない」という方が正しい。祖国を批判する作家は活動を認められず、反革命思想が疑われればまともな就職すら難しくなる。学生や教授が大学を追われることさえあった。

 たとえば、そう――


同志ゲノッスィンホフマン、そろそろ意地を張るのはやめたほうがいい。睡眠不足は健康にも美にも悪い。若い君がそれを蔑ろにしてはいけないよ」

「だ……れの、せい、よ……」


 自制もままならず悪態をつく。毎日のように顔をつきあわせてきた尋問官の男が、にこやかな悪意で微笑むのが目に浮かんだ。

 国家保安省シュタージ――国内外のあらゆる場所にスパイを放ち、密告者を飼っているという国家諜報組織であり秘密警察。存在こそ公表されているがその内実は大方の市民にとって謎そのものであり、ぼんやりとした恐怖の対象でしかなかった。それが今、エマの前で笑っている。


 いや、本当に笑ったかどうかは分からない。視界がぼやけて頭も重く、夏場なのに芯から肌寒かった。ずっと両手を膝の下に置いて座っているから全身が軋む。今日の尋問が何時間、十何時間続いているのかも判別できない。

 とにかく眠い。それだけが全てだ。


「君さえ素直になってくれれば、好きなだけベッドとお友達にさせてあげるとも。だが、残念ながらまだそうするわけにはいかない」


 丸めた背をパイプ椅子の背に押しつけられ、また眠りの淵から無理矢理引き離される。エマの後ろに控えるもう一人の男の役割はこれで、数度に及んだ尋問では同じようなことばかりだった。頭に水を垂らされた覚えもある。

 そして少しだけ鮮明になった視界では、いくつもの写真が机に散らばっていた。


「エマ・ホフマン。君はいったい誰の指示でこんなことをしていたんだい? それを教えてくれれば、もうこんな目に遭わなくて済むんだよ」


 自分の写真――西側に歩み寄るポスターを貼り、書記長エーリヒ・ホーネッカーの肖像画をひそかに焼き捨て、亡命実行者と連れ立って歩くエマの姿。内密に進めてきたはずのすべてが、幾枚もの写真のなかでは赤裸々に晒しあげられている。


 いつの間に盗み見られたのか、思想をまとめるためのメモまで写されていた。「西に平等なし、しかし東には偽りの平等以外すべてなし!」「嘘をつかないだけ西のほうがいくらもマシだ!」とある。紛れもないエマ自身の筆跡だ。


「あ……ぁ」


 喉が震える。もう限界だろう、言ってしまえと本能が囁く。ここまで押さえられたのだ、逃げ道などない。

 しかし幸か不幸か、理性の鎖はまだエマの信念を繋ぎとめていた。


「だれでも……ない。わたし、なにもしてない……党に逆らうことなんて、ほんとうに何も……」

「うんうん、党に忠実であることは素晴らしい。だが嘘はいけないよ同志。君のような勤勉学生がこんなことをするなんて、よほどの人間に唆されたに決まっている」

「ちがう……私、私……」


 うわごとのように繰り返す。自分のやったことについてはもちろんだが、彼らは協力者についての問いを絶えず突きつけてくる。つまり主眼はそこなのだろう。

 そしてこれは、エマにとってはどうあっても譲れない一線だった。


「どうやら君はまだ自分の立場が分かっていないようだ。君の関与したことは、立派な反革命的、反社会的行為だよ」


 乱暴に机を叩き、尋問官が冷たい声を浴びせかける。柔和な口調と冷酷な脅しの使い分け――尋問中には何度もあったことだ。


「資本主義礼賛はすなわち敵へのエールであり、祖国が滅びることさえ是としているも同然。君は祖国を裏切る気かい? 今も核兵器を増やし続け、我々を脅かす敵国のために」


 そう愛国心を煽ってみても、エマは黙りこくるだけ。やがて尋問官は色黒の顔でかぶりを振った。


「困ったな。それでは、少し趣向を変えてみよう」


 芝居がかった、さほど困っている風でもない嘆息。鈍い感覚の中にかすかな悪寒が走ったのは、きっと気のせいではなかった。


「君と同じ独房のあのお嬢さん……君が自白するまでずっと、彼女が連帯責任を負う。そういうことでいかがかな」


 どくん――と、久方ぶりに自分の鼓動を聞いた気がした。

 文字通り体力を削りながら視線を合わせる。遠い机越し、尋問官はいやに愛想よく微笑んでいた。


「あの子、に、なにを……」

「安心してくれ、心身を痛めつけるような真似はしない。我々も児童は大切に扱うつもりだ。

 いくつか特別製の部屋に案内するだけさ。例えばそうだね……ゴムでできた部屋なんてどうだろう。遊び場のようで喜んでくれるかもしれない」

「ゴム……?」

「そう。泣いても暴れても誰にも届かず、外からの音も響かない真っ暗な無音室……口下手な彼女にはぴったりだろう?」


 ゴムの部屋。真っ暗な無音室。訴えは誰にも届かない――

 そう何度か反芻してようやく、エマはその真意を理解した。


「いやっ……お願いやめて、やめて!! あの子には手を出さないで!」

「だから、大事に扱うとも。もちろん食事も出すし、なんなら睡眠の邪魔もしない。尋問もなく、誰とも接触しなくていい。いまよりもよっぽどいい環境じゃないかな?」

「いや、いやよ、やめてっ! あの子は悪くないの、あの子は何も……!」


 もはやなりふり構ってはいられなかった。プライドも敵愾心も忘れ、懇願だけを声にする。

 誰とも触れあえず、真っ暗な部屋の中ひとりきり……そんなことをすれば今度こそあの子は壊れてしまう。人間がすることとは思えない。しかし彼らがそれを意に介する組織でないことは、エマも身をもって理解していた。

 シュタージなら、やる。

 その確信が今のエマを駆り立てていた。


「早々に真実を話してくれれば考えよう。もっとも、我々公務員にとって時間というのは限られたものだ。早ければ早いほどいい」


 尋問官が席を立つ。部下の男に言葉をかけ、記録の挟まったバインダーを受け取っていた。尋問終了の合図だ。

 あの少女を助けたいなら、今この瞬間をおいてチャンスはない。つまりはそういう最後通牒だった。


「まって……待って!」


 そう声をあげたときでさえ、尋問官の男は穏やかな表情を崩さなかった。獲物が満を持して罠にかかったにもかかわらず。

 エマにも分かっている。これは罠だ。きっと思想汚染がどうこうというのも、少女エサを捕らえておくための方便だったのだろう。すべては仕組まれていた。

 分かっているのだ。それでも、他の道が見当たらない。


「さて、それでは今一度聞こう。同志ホフマン。君を反革命分子の道に引きずりこんだのは、いったいどこの誰なんだろうね?」

「わたし……わたし、は」


 目の前に尋問官の顔が迫る。わななく唇が絶え絶えの言葉を紡ぐ。

 喉を詰まらせるのは罪悪感。これを吐いてしまえば、きっと多くの仲間や恩師に迷惑がかかる。自分と同じような目に遭わされる者も出てくるだろう。

 そうなればエマだけではなく、多くの人間が人生を狂わされるはずだ。そんなもの、エマ一人で担える重さではない。


(だけど、あの子は――)


 小さな体躯。遠くを見てやまない瞳。守ってあげると約束したのだ。彼女からこれ以上光を失わせてたまるものか。

 今のあの子を守ってあげられるのは、エマただひとりなのだから。


「私は……」



***



 泥のように眠って、沼から這い出るように目覚めた。


「……」


 視界に映るのは独房の天井。どれだけ眠っていたのだろう。頭はいくばくか晴れてきたが、まだ寝足りなかった。

 少女はいない。釈放されたのだと、尋問室からの帰路に聞かされていた。

 空っぽの独房に寂しさを覚えないといえば嘘になるが、今は彼女を救えた安心感の方が大きい。もういくらでも眠っていい解放感も。

 シュタージに仲間を売った罪悪感は、ふたつの安堵の中に埋もれていった。


(もう……なんでもいいや。あの子が助かっただけで、もう……)


 うとうととまた眠りの波が寄せてくる。本能に身を任せれば、自己弁護ばかりが頭を巡る。

 仲間も恩師もエマよりよほど経験を積んでいる。きっとうまく逃げ切ってくれるだろう。エマが消えて数日は経っているはずだから、そろそろ不審に思うころだ。シュタージの仕業だと勘付いてくれるはず。

 そもそもとして、あの証拠写真――


(きっと誰か、密告者がいた……全部そいつのせいよ)


 捕まった当初から頭にあったことだった。東ドイツには密告者があちこちに身を潜めている。悪いのはエマでも反体制派の仲間たちでもない……シュタージに心を売った獅子身中の虫がいたのだ。


 いったい誰なのか。仲間たちの中に? 違う。それならエマなんて末端も末端を捕らえる意味はない。外部の人間だ。

 いったい誰が。学内の写真がなかったから学友ではないだろう。家族は絶対に違う、両親や兄弟が国の狗になるはずがない。

 誰だ。そういえば、あの写真はどこか違和感がなかっただろうか。なぜか視点が妙に低くて、まるでそう、


「……え?」


 そこまで思い至って、血の気と睡魔が同時に引いた。


「ま……って、よ」


 ベッドから身を起こす。うまく回らない頭が、必死にその先を筋立てる。

 低い視点からの写真、彼女を引き取った見知らぬ「親戚」、本来捕まるはずのない少女の逮捕、そもそも独房に二人一緒に閉じこめられる不自然。眠れず磨耗していく意識ではバラバラのままだったピースが、ひとつずつ嵌っていく。


 違う、あの子がそんなことをするはずない。あの子は昔からエマを慕ってくれていて、自分もあの子を家族のように思っていた。だからこんなことを考えてはいけない――そう疑念を打ち消すよりも早く、最後のピースがカチリと埋まった。


 そうだ。逮捕されたあの日、相談があるからと外に促したのは、誰だった?


「ちが……違う、やだ……」


 妄想は推測へ、推測は確信へ。そして理解したのはただひとつ。

 エマ・ホフマンはなにも救えなかった。

 仲間や恩師を売りわたし、小さな密告者の思惑通りに動き、すべてを失っただけ――


「あ――」


 息が一瞬、途切れて。声が一拍、途絶えて。

 そして、絶叫。



***



 その少女の眼窩は濃い隈に彩られ、だが表情に揺らぎはなかった。

 この二週間ほど、尋問と不眠の繰り返しで心身ともにすり切れているはずだ。彼女を担当した尋問官は何も知らされていなかったから容赦もない。しかし両の足はしっかりと床を踏みしめ、瞳は陰惨な光を孕んで凝とこちらを見上げている。


 まるで彼女がこちらを見定めているかのようだ。そんなことを思いながら、エマを担当した尋問官――ペーター・ランゲはさらさらと署名した紙を差し出した。


「はいどうぞ、お嬢さん。よく頑張った。あとはゆっくり結果を待って休むといい」

「……」


 こくりと頷くだけで証明書を受け取る少女。声が出ないというのは本当らしい。

 ベルリンの一角に佇む、ホーエンシェーンハウゼン拘置所の一室。ランゲと少女は釈放の手続きという名目でここにいたが、内実はまるで違った。


「しかしまあ、よく耐えたものだ。睡眠を奪われれば大の大人でも堪えるっていうのに。おまけに帝国主義者ファシスト気取りのチンケな右翼学生とはいえ、昔からの知り合いもきちんと籠絡してみせた。やっぱり育児院ヴァイゼンハウス育ちは違うなあ」


 言って反応を窺うものの、幼い表情はぴくりとも動かない。本当に何も感じていないのか、あるいは……

 どちらにせよ、適性として文句はない。の結果にも期待がもてそうだ。自分たちのボスが気にいるかどうかは、また別の問題だが。


「試験番号八一〇九、非公式協力者(IM)名「フレーゲル」へ。ペーター・ランゲ中尉が通告する」


 言い終わらぬ間に少女が踵を揃えて敬礼する。育児院での教育が行き届いている証拠だ。


「第三育児院に帰投し、証明書を院長に提出。数週間以内には結果を告知する。それまでいつものように勉学に励むように」


 了解ヤヴォール、と口だけが動いた。ペーターはそれに尋問用の爽やかな笑みで返し、ドアノブに手をかける。


「ではお嬢さん、お家まで車でエスコートしよう。また護送車になるが、まあ、よく眠れはすると思うよ?」


 扉を開ける。廊下で控えていた部下に少女を送り届けるよう告げ、小さな体を引き渡した。

 少女はやはり顔色を変えない。部下に手を引かれ、年不相応に淡々とした足取りでリノリウムの床を歩み。


「――――」


 つ、と視線が一瞬だけ廊下の最果てを振り向いて、それきりだった。

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