第5話 医師と患者

そしてゆっくりとわたしたちの車の後ろに止まった。あたしはあることを思い出していた。

この女性を1つ目のダムで乗せ送ってあげていたといっていた夫婦の言葉を。でもあたしがこの女性を最初に見たのはすでに1つ目のダムの駐車場だったはず…。いつ乗せたんだろう。そんな疑問をかき消すような出来事がこの後、起こることになってしまう。


「あ、近藤さん、どうも。」

「やっぱり心配で来てみたの。この辺道がわかんないんじゃないかって主人が言うから。」

車から降りてきた笑顔の奥さんに、わたしも少し安心していた。

「あら、この方の家はこの辺だったのね?」

「はい、たぶんあっちの脇道を登ったら家があるんだと思います。」

修也は女性の代わりに答えた。

「そう。でも、建物見えないからまだしばらく歩くんじゃないかしら。ここからはまた私たちが乗せて行ってあげるから、あなたたち早く温泉に向かいなさい。日が暮れちゃうわよ。」

修也とあたしは無言のまま目をあわせ、小さくうなずいた。

「じゃ、お願いしちゃっていいですか?」

修也はしゃがんだまま前後に体を揺らす女性と奥さんを交互に見ながら答えた。

時刻はちょうど5時だろう。遠くから聞こえる音楽。どこかで聞いたようなクラシックが帰宅をうながしているのだろう。静けさの中ににつかない曲が終わると、女性の動きが止まった。そしてゆっくりと立ち上がった女性は、わたしたちが最初に見た女性の目に戻っていた。ふらふらと女性は老夫婦の車に歩きはじめた。

「あ。」 わたしの横を通り過ぎようとしたとき、ふらっと倒れ掛かってきた。とっさに女性を支える。そして、違和感を感じた。女性はわたしのポケットに何かを入れた気がした。修也もかけより、女性を支える。

その時、近藤さんの旦那も運転席から降りてきた。

「大変でしたね。じゃあとは私たちがきちんと送り届けますから。」

わたしは何か腑に落ちないことを忘れているような気がした。えっと…近藤さんたちって確か、息子さんの面会に向かわないといけないはず… ダムのとこではすでにこの女性は車に乗っていたはず… なぜ女性は急にまた目を伏せてしまったのか…

女性はどこから逃げてきたのだろうか…

そしてとっさにあたしの口からは、さっきまでのあたしでは絶対に口に出さなかったような言葉が飛び出した。

「いえ、あたしたち暇ですし、送っていきますよ。それよりも早く息子さんのとこに行かないと面会時間終わってしまいますよ。」

修也虫があたしに伝染してしまったのだろうか。その言葉を聞いた修也は、となりできょとんとしていた。そして、修也もうなずいた。

「そうですね。僕たちが送りますから大丈夫です。任せてください。」

今度は夫婦が黙ってお互い目を見合わせた。そして、奥さんがゆっくりと口を開いた。

「そうね、本当のこと言わなきゃね。いいでしょ?あなた。」

奥さんは旦那さんの方を一瞬向いて、再び話を続けた。

「実はね、私たちあの施設の医者なの。そして、この方は私たちの患者なのよ。」

薄闇の中、わたしたちは黙って聞いているだけだった。

「昨日の夜中に、病院からこの方がいなくなったの。この方、精神的に不安定で、突然わけのわからないことを話始めたり突然行方不明になったりすることがあるのよ。」

わたしの謎が少しずつ消えていく。でも、修也は謎がまだ残っていたようだ。

「じゃ、息子さんの面会っていうのは…?嘘だったんですか?」

「ごめんなさいね。決してだますつもりはなかったのよ。仕方なかったのよ。」

奥さんの顔からすっかり笑顔が消えた。夜の闇はもうすぐそこまで来ている。

「急がないと日が暮れるぞ!」

旦那さんが急に大声で奥さんに向かって突きつけた言葉にあたしは恐怖を感じた。とっさにあたしは女性の腕をつかみ、修也の車に引っ張っていた。

「ちょっと、あたしたちが送るから大丈夫って言ったでしょ!」

近藤夫妻があわてて近づいてくる。そのあわてた様子に修也も不気味さを感じたのか、急いで運転席に乗り込んだ。

「奈美、急げ。」

あたしたちは後部座席に転がり込むと、急いでドアを閉める。

「奈美、行くぞ。あの夫婦普通じゃない!」

修也は急いで車を走らせた。さらに山奥の方へ。

「修也、少し落ち着いて。後ろからは来てないみたいだから。」

「わかった…。なあ、奈美…あの夫婦、手にかくして注射器を持ってたの気づいたか…?」

あたしはぞっとした…

車はダムの上流の方へどんどん進んでいく。もうライトをつけて走らないと何も見えないぐらい暗くなっていた。どこに続いているのかもわからない道をただ進んでいた。あたしは後ろを気にしながらも、隣でうなだれている女性の肩を抱いたまま、ただ時間が過ぎるのを待つことしかできなかった。

「修也…どこに向かってるの?」

修也はバックミラーを確認し、追ってこないことがわかると車のスピードを落とした。標識も街燈もない山道、たまにある民家にもあかりは灯っていない。

「奈美、やばい。」

修也は一言つぶやいた。あたしも何がやばいのかすぐにわかった。

あかりだ。正面から車のあかりが見えたのだった。


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