僭主

 シトレック公女ベアトリクスの領地、フライブルク伯領


 首都アイヒェンベルクから脱出したベアトリクスとその配下は、彼女の伯爵領まで無事に後退することに成功。


 そのベアトリクスは、フライブルク城執務室にて、第一の配下であるベンシュラム伯爵ゲオルク・ペリドールと言葉を交わしていた。


「……大体わかった。公国首都アイヒェンベルクの連中は私の存在を快く思っていない。そういうことだな?」

「は。伝統的なグループは大公をどうするか、ということで空転するばかりの会議に興じております」


 ゲオルクは顔の皴をひくつかせながら淡々と言った。語気や表情からは読み取れないものの、ベアトリクスは彼の内心をおおよそ察知して、気遣うように受け答えた。


「だろうさ。今更驚くべきことではないな。シトレック大公は代々、男の長子が相続してきた。いくら大公領内に残るヤグリューネ家の直系が私だけとはいえ、おいそれとそこを譲るつもりはないだろう」

「まったく、伝統と格式あると言えば聞こえは良いですが、どいつもこいつも頑固者の石頭か、さもなくば自分の土地の事しか頭にない者ばかり。守るべきはそこではないだろうに……、おっと! 愚痴を言ってしまいましたな。申し訳ありません」

「構わない。……と言うか、心中お察しする」


 マルティンの出奔という事象は厳重に秘されることになった。

 ドミドリ・スミェーリヒトの乱にイオニア教会がかかわっていたという疑惑。そしてその調査のために長子で大公位継承者であるマルティン・ヤグリューネが家を飛び出し、大公位を妹ベアトリクスに譲るよう言った――。


 など、とても大っぴらに言えることではない。ましてシトレックの大公は選挙君主制によって決まる。

 いくら大きな問題が迫っているからといって、その慣例に背くなど、考えられないことであった。


「これはまだ良いほうで、改革的な連中は事実上、大公位の乗っ取りを企てております。……あの程度で隠し通せると思っているのか、嘆かわしい。何が男性のみの相続か、直系のほうが重要であろうに、ぶつぶつ……」

(愚痴っぽくなったなぁ。それだけ状況は悪いということなんだろうけども)


 本人が言う通り、ベアトリクスの置かれた状況は、とても良いとは言い難いものだった。


 マルティンがシトレックを去る際に残した言葉こそ秘匿に成功したものの、世の中には光より速く伝わるものがあるとはよく言ったもので、「マルティン・ヤグリューネの出奔」そのものへの完全な箝口令は不可能だった。


 第一継承者の不在。その事実は、ゲオルクが言う通り、一部の身の程知らずな諸侯が持つ野心を掻き立てるには十分なものだった。


「……さて、マルティン様の言う通り、吾輩はベアトリクス様こそ、シトレック大公として相応しいと思いますぞ」

「兄様を連れ戻そうって考えには至らないのか? 私が即位なんてしたらシトレックがひっくり返るぞ?」

「マルティン様は反教会運動のためによりカリシュへと逃亡いたしました。今では現地勢力の騎兵隊長として活躍なさってるとか」

「そういうことを聞きたいんじゃなくてだな……」


 ベアトリクス・ヤグリューネはシトレック大公ヤグリューネ家の息女、父ヨゼフと兄マルティンからはたいそう可愛がられて育てられてきた。

 彼女の興味は戦や政治よりも、信仰や文学に向いていた。特に奇跡論が持つ、ある種の神秘的整然さに心惹かれた。

 つまり、世俗的な権力とか、そういうのには全然向けられていない。


「……私が言いたいのは、適当な家から人を出させるのはどうか、ということだ。アーブみたいなここ百年で勢力を伸ばした新興貴族ならとかならともかく、数百年単位の歴史を持つ、伝統の積み重ねが違うシトレック大公なんて、私みたいな女が付く仕事じゃないだろう」

「これはベアトリクス様個人の問題ではなく、もっと大きな話なのです。マルティン様の意もそうですが……やはり、ヤグリューネ家が持つ権威に比肩する者はおりませぬので」


 シトレック首都アイヒェンベルクでは、空席となった大公位を巡って空転するばかりの会議が行われていた。

 マルティンの出奔という罪を許し――もとい、無かったことにしてなんとかシトレックに呼び戻す案。

 ベアトリクスが口にしたように、伝統に沿って有力な家系に大公位を継がせる案。


(私がシトレック大公? 冗談じゃない。……世の習いに背いたものに待つのは良くて破滅が関の山)


 ――そして、その手腕を評価し、慣例に背く形にはなるが支持者も多いベアトリクスをシトレック大公にする案。

 しかし、これには大きな問題があった。


 まず論理的正当性が一つ。先ほどベアトリクスが言及したように、シトレック大公は男性の長子が、慣例的な(ほぼ出来レースの)選挙を受けて相続する。ベアトリクスが大公となるには、この慣例を反故にしても許される程度の理屈、あるいは実績が必要なのだ。


「悪いが、やはり私は徒に、このシトレックの地を荒らすことは好まない。本来相続する立場になかった人間が表舞台に顔を出せば、起こるのは内乱。……ただでさえレムレスは危機に陥っている。ここでシトレックの国力を浪費するのは得策ではない」


 もう一つは、なにより当人が乗り気ではないことだ。

 そこで、彼女の配下であるゲオルクは一計を案じていた。


「聞きましたかな皆の衆。やはり我輩は、ベアトリクス様こそシトレック大公の座におわすべきと確信いたしましたぞ」

「……はっ?」


 ゲオルクはわずかに、嬉しそうに、なにかに向かって呼び掛けた。

 虚を突かれたように、ベアトリクスの口から驚きの声がこぼれ出た。


「ほらほら、ベアトリクス様は聡明なお方だ。つくならこっちだっての……。おっと!」


 どやどやと賑やかに、配下の他に見知らぬ顔を何人も引き連れ現れたのはシトレックに多い緑髪、そしてポート・ド・ルーブに多い赤眼の女性貴族。その衣服には、カスタニエ伯爵アルダファ家の紋章である栗の木の意匠があしらわれていた。


「失礼しました、私はフロレンツィア・アルダファ。カスタニエ女伯として、配下盟友ともども、貴女様にお仕えすべく馳せ参じました!!」

「いや、それは知っている。ええっと、その、有り難い申し出ではあるが……なんだ、内乱はよくない」


(ゲオルクめ、私を嵌めたな? 教育係としての恩を忘れたわけではないが……これはさすがに礼儀を知らん真似だな)


 ベアトリクスは小さな苛立ちを感じた。フロレンツィアはさておいて、確実に一枚噛んでいるであろうゲオルクに対して。

 それでも、彼女はいたって冷静だ。こういった瞬間的で、しかしありふれた感情をそのまま顔に出すのは良くない。と、そのことをはっきりわかっていたので、表情をわずかにも変えずに次の考えを示した。


「あー、フロレンツィアと、ならびに君たちは私をシトレック大公とすべくここに集まった。そういう認識でよろしいか?」

「そうですともっ!」

「それが慣習に背き、下手をすれば大逆の徒という謗りを受けることになってもか?」

「筋を通すってのは、伝統や上が決めたことに唯々諾々と従うことではありません。あたしらはシトレックを守るため、あんな進展の無い会議をやってる連中に見切りをつけてここに来たんです。あたしらが通したいのは、貴族としての筋です」


 息を吐きながら目を瞑り、ベアトリクスは観念したように口をまた開いた。

 ゲオルクは自分を担ぎ上げて、自分の理想とする政体を実現するつもりなのだろう。そのことに気が付かないほど、彼女は鈍くなかった。


「……仕方ない。ゲオルク、私は何をすればいい? 立ち上がったあとの計画はあるんだろうな」

「もちろんですとも。我ら……シトレック貴族連盟が求めるは秩序を回復し、アイヒェンベルクを実行支配すること。混乱状態の領内に秩序をもたらせば、誰もがベアトリクス様こそ大公に相応しいと認めざるを得なくなりましょう。それに、この混乱を好機と見たかシトレック各地に僭主が現れ始めました。力を蓄えて、新秩序の中で実権を握るつもりでしょうな」

「秩序の回復を行うというならやぶさかではない。……今やるべきは現状の回復だ。混乱につけこんだ無暗な革新など認められようものか、それで一番疲弊するのは国であり、民だろうに」


 ベアトリクスは革命とか、反動とか、そういう言葉が嫌いだった。勿論、現状自分自身がその対象になる側である、というのも理由の一つではあるが。

 歴史上、そういう時は決まって大量の血が流れるし、ツケを払わせられるのは決まって一般の民草である、と認識していたからだ。


「そうですっ! ただでさえ会議がお流れになり、マルティン様が出てったせいで弱体が著しいというのに……、連中は筋を通すってことを知らねぇってのかい! 今やるべきは内紛じゃなくて団結だってのによ!」

「フロレンツィア、落ちつきたまえよ。ベアトリクス様の前ですぞ」

「あっ、す、すいません!」


 フロレンツィアは先ほど当人が発言した通り、貴族としての「筋」というものを重要視している、今時珍しいくらいの昔気質だ。


 そのせいか、ちょっぴり熱くなりやすく、荒っぽい訛りがでるのが玉に瑕。ではあるのだが。


「君の意見も分かった、やむを得んな。ゲオルク、私からの命という形で旧来の秩序を回復するために挙兵だ。間違っても、この乱痴気騒ぎにあてられるな。私も出るから準備が終わったら報告を。……フロレンツィアは私の近くにいてほしい、何かあった際に相談と連絡、護衛の役が必要だからな。……少し私は休む、アイヒェンベルクから脱出して、疲れてるんだ。それに兵に強行軍を命じるつもりも毛頭ないぞ」

「おお……、ベアトリクス様、万歳! ……では、行きますぞっ!」


 素早く、とても老人とは思えないきびきびした動きで立ち去るゲオルク。

 それを、ベアトリクスは心の中でため息をつきながら見送った。


(はあ、もう、年取ったら性格が丸くなるんじゃないのか。ゲオルク……、なんだか昔に比べて、更に尖ってきているような気がするのだけれど)と、そういうことを思いながら、残ったフロレンツィアに向けて言った。


「フロレンツィア、あなたには警護と身辺調査をお願い。あなたが連れてきた人たちと……、万が一、何か紛れてたら大事だからね」

「了解しました。……それ、あたしに回すんですかい?」

「いつも熱くなってる人間とたまに熱くなる程度の人間なら後者の方がいくらか冷静だからな」

「ああ、そうですね……。あの人、如何にもなお爺さんなのに血の気が多くって。んじゃ、行ってきますわ。何かあったら叩き起こしてでも伝えに来ますんで」


 二人を送り出したベアトリクスは、ゲオルクが言っていたことについて考えながら、ゆったりと背もたれに体重をかけた。あくびをして、軽く目をつむって思考を巡らす。


(ちっ、野心家の僭主シニョーレどもめ。シトレックの選挙君主、貴族制度を利用して事実上の支配を形作るなどと……。大それた真似は看過できん。できん……が、それと私を大公に推挙することは話が別だろうに。意図的に問題を混同するなど、古典的なうえに子供騙しすぎる。私をいつまでも子供だと思って舐め腐りやがって)


 ベアトリクス、普段は発言に気を使っているので柔和な人間に見られがちだが、思考そのものは(若い貴族として)年相応に鋭く、またほどほどにプライドをしっかりと持っていた。


(人生において重要なことは、この世の理を、運命を素直に受け入れることだ。これは……私の運命なのか? 運命であるならば担ぎ上げられて大公となるのも一興。……しかしなあ、私は奇跡論とか、歴史や文学やらに耽溺して生きたかったんだが……これもワガママかなぁ)


 そして、そのまま目を瞑って、少しだけうたた寝をするのだった。


(……シトレック貴族連盟と、つい聞き流していたが……、ゲオルク、お前は何を望んでいる……ん)


 フライブルク城の一室には、寝息だけがわずかに響いていた。

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