緑の章:再編の英雄ベアトリクス・ヤグリューネ

内戦

 シトレック大公国。


 レムレス北東部に位置する、幾多もの諸侯を束ねる名門貴族、シトレック大公を代表とする大公国。その下で、森林に点在する小都市、居住地とその領主、騎士による緩やかな共同体が組まれている。

 名目上レムレス帝国の属領ではあるが――高度な自治権を有する事実上の「独立国」であった。


 その首都アイヒェンベルクから、足早に脱出する一団がある。


「お、おい、兄様はどうなった!」

「……今はただ、信じるのです! マルティン様に限って、滅多なことはありませんぞ、と!」

「お前、仮にもヤグリューネ家に仕える教育係だろう!? 答えろっ、どうして兄様はシトレックから離れたんだ! 知らないはずが……、知らないはずが無い!」


 ヤグリューネ家の紋が入った馬車の中。緑色の髪色に、同じ緑色の瞳の若い女性が、立派な口髭をたくわえた鎧姿の老貴族にまくし立てる。それきり、老貴族は返事をしなかった。

 馬車の中からその女性は身を乗り出して、降りしきる雨に霞む首都を眺める。車輪がはね上げた泥も、顔を濡らす雨も気にせずに。


(兄様は……どうして……っ! 私に話してくれなかったんだ!)


 レムレス全土を揺るがした争乱の時代、シトレック大公領は始まって以来の危機に陥っていた。

 事の発端は先日行われた南大陸への遠征の失敗。これに自発的に参加したシトレック貴族のうち、少なくない人数が敗戦による影響を受けた。


 まずいことに、シトレックでは伝統的に会議による選挙君主制が取られていた。といっても、あくまでほぼ形だけのものであり、実質的には先天的な疾病や障害、無能力者が世襲のままに大公位につくことを防ぐブレーキ以上の役割は無かったのだが……。


 この場合はそれが裏目に出た。


 きっかけは大貴族の支配に不満を持っていた小領主、ドミドリ・スミェーリヒトが待遇改善のために起こした小規模な反乱だった。


 結果的にほぼ事故ではあるのだが――。自ら鎮圧に向かった前シトレック大公ヨゼフ・ヤグリューネは死亡。後退中に誤って川に転落し溺死したと伝えられた。


 これを好機と見たシトレック貴族の一部は、弱体化した諸侯を蹴落とし、自らの権勢を拡大するために、公子マルティン・ヤグリューネではなくドミドリを次期大公として擁立する動きが出たのだ。


 この――便宜的に変革派とする――派閥は、こともあろうにシトレックの東、いまだレムレスの支配がおよばぬ東部平原に起こった軍閥を領内に引き入れてしまった。


 起きたのは、外患を伴う内戦であった。



「風邪を引きますぞ、ベアトリクス様」

「小言はいいゲオルク! ……実の兄に、理由も告げられず出ていかれる気持ちが、私以外に分かるものかっ!!」

「……申し訳ありません。しかし、今やシトレックにいるヤグリューネの血筋は」


 遮るように、ベアトリクスは語気を荒げて言う。


「私だけだ。と言いたいのか!? ……戻ってくるさ。兄さまがシトレックを、私を、捨てるはずがっ、捨てる、はず、がっ!」


 雨に濡れた顔ではよくわからないが、この時ベアトリクスは確かに泣いていた。

 しかし、ゲオルクは気が付いていないそぶりで、じっと目線を落したままだった。


「我輩としては、理由を告げるのは好ましくない、と考えております。……あまりにも、あのときのシトレック貴族は醜く、酷すぎた。本来であればそうならないよう努力するのが我輩たちシトレック貴族の勤めであるのですが……言い訳ですな、これは」


 悔恨の念をにじませながら、静かに目をつむりゲオルクはこう言った。


「重ねて申し訳ありません。しかし、吾輩はベアトリクス様を脱出させヤグリューネ家の血筋だけは守らねばならぬと、これが最善であると判断いたしました。シトレックを、あるべき姿に取り戻す。そのための方策として」

「分かってるさ。私だって子供じゃない! ……兄様、兄様ぁああ! あう、ぐ、ひぐ、うあああああん!!」


 ベアトリクスは涙と雨粒を拭い、大きく深呼吸した。


「泣いたらすこしすっきりしたよ。覚悟はできた。……ゲオルク、話してくれ。あのとき何があったのかを。ヤグリューネの血筋のものとして、知らなくちゃ、ならないだろう?」

「ああもう、その強情さだけどうしてこう兄上にも父上にも似るのだか……。いたし方ありません、今お話しできる範囲でよろしければ話しましょう。吾輩も、全てを正しく知っているわけではありませんので」

「それでいい。詳しいことはフライブルクに着いて、調査ができるようになってからだ」


 ゲオルクはわずかに頷いて、アイヒェンベルクで起きたことを話し始めた。


 ―――


 少し前、シトレック大公領首都アイヒェンベルク。


 今日はシトレック各地から選挙権を持つ貴族が集められ、次代の大公を決めるため会議が行われる日。

 南大陸遠征で崩れた領内のパワーバランスを何とか調和のもとに再整備するため、此度の会議と選挙は今までにない特別な意味を持っていた。


「これで晴れて大公ですね。ベアトリクスも、自分のことのようにうれしく思いますわ」

「まだ決まった訳じゃないよ。あくまで会議と選挙をもってして即位するのがシトレック大公なんだから」


 マルティン・ヤグリューネは優しく言った。


「そうですね。しかし、ここで兄様に反対票を投じるなど、そんな真似をする輩はいるのでしょうか」

「……そこが問題なんだ。知っての通り、ドミドリ・スミェーリヒトの乱は単なる待遇改善を目的としたものから……なぜこうなってしまったのかはともかく、シトレックを、ヤグリューネ家をも揺るがす内乱になってしまった。今示すべきは権威だ。伝統によって裏打ちされた権威で、この内乱の拡大を可能な限り防がなければならない」

「そうですね。お父様の死も……まだ不明な点は多くあります。秩序を取り戻し、真相を明らかにするためにも……お兄様、ベアトリクスにできることがあれば何でも言ってください。妹としてではなく、ヤグリューネの血筋のものとして、フライブルク伯爵として、シトレックのために働きたいのです」


 ベアトリクスは兄の前で柔らかく、しかしはっきりと言う。

 その時だった。


「敵襲ー! 東より馬賊とっ……ドミドリ・スミェーリヒトの一味です!!」


 敵襲の知らせである。


「……っ! 迎撃だ! ドミドリはともかく、東部平原の馬賊は森がちなシトレックの地に慣れていないはずだ。こちらから打って出て戦線を絞らせないように動くぞ!」

「兄様、どうかご無事で!」

「心配はいらないよ、ベアトリクス。僕は今までこうして生き残ってきた。今回も生き残れるはずさ。……さあ、ついて来たい奴だけついてこい!」


 いの一番に駆けだすマルティン。その後ろ姿に続くのは、やはりヤグリューネ家に近い貴族たち。そしてその配下の兵士や武具持ちが続く。


「……っしゃあ! 行くぞオラァ!! 貴族としての筋を通しに行くぞっ!!」

「フロレンツィア、吾輩もご一緒しますぞ。教育係として、マルティン様に同行しない、などありえませんからな」


 続いて駆けだしたのはカスタニエ女伯爵フロレンツィア・アルダファ。次にマルティン、ベアトリクスの教育係にしてベンシュラム伯爵ゲオルク・ペリドール。そして、マルティン含めこれらに仕える騎士や従者たち。


 もちろん、全ての人間がマルティンに続いたわけではない。アイヒェンベルク城を守るために残った者もいた。


「……やれやれ、猪武者どもには困ったものだな?」

「そうだねぇ。ケイラーハイム辺境伯として守戦には一家言ある。私にここを任せたのは得策だ、と思わせるような戦いをしてやるさ」


 迎撃に出たマルティン以下をアイヒェンベルク城中から見送るのは、シトレック北西部の国防を預かるケイラーハイム辺境伯マリベル・デンヴィッヒ、そしてレムレス帝国とのパイプ役で、宮仕えの文官であるアイヒェンベルク宮中伯アンドレアス・リューゼ。


 この二名とマルティンの妹、ベアトリクス・ヤグリューネだった。


「兄様が帰ってくるこの城は守らなければならない。二人とも、よろしく頼みます」

「当然ですとも、ベアトリクス様。シトレックの心臓部が落城するなど、あってはならないこと。このアンドレアス・リューゼ、文官ですが、防戦に参加いたしましょう」


 恭しく応対するリューゼを、マリベルは内心冷ややかに見つめた。


(リューゼめ、ペコペコしちゃって。書類仕事を担う宮中伯無しにこのシトレックは回らない。そりゃ謙遜は美徳だがな、もう少し足元を見たってバチは当たらんだろうに)


 マリベル・デンヴィッヒは――ある種の貴族である。

 彼女は自分の実力と地位に自信を持っている。それはつまり、シトレック大公であっても自分を無下には扱えないだろう。という認識に繋がっている。


 事実、アーブの勢力圏との境であり、また北の海を見ればカナヴィアの海賊どもが元気にうろついているケイラーハイムが一定の発展を享受できているのは、結局のところ彼女の手腕によるところが大きい。


「マリベル、貴方に防衛の指揮をお願いしたいのですが……よろしいですか?」

「ええ、このマリベル・デンヴィッヒ、ケイラーハイム辺境伯として、アイヒェンベルク城の防衛の任、謹んでお受けいたしましょう。まずはあり合わせでもいいので杭でも何でも打ち込んで接近しにくい地形をつくるところからやりましょうか。最悪、その辺の木を切り倒してバリケードにすることも視野に入れねば」

「マリベル、我がリューゼ家配下の手勢に情報収集を行わせよう。馬賊と反乱軍の動向がわかれば、守るのも容易いはずだ」

「ああ、頼む。それじゃベアトリクス様、城の人員を借りますよ」


 マリベル、リューゼはそれぞれの領分、得意分野で、ベアトリクスの指揮下で動き始めた。


 ――のだが。


「……おい」

「どうした?」

「敵は?」

「それが、待てど暮らせど『敵がいた』という報告が上がらん。連中の狙いはここではないようだが……ま、アイヒェンベルクが荒らされていないのだからそれで良いではないか」


 予想された襲撃は起こらなかった。小規模な略奪者の襲来こそあったものの、当然ながらこれらはあっさりと撃退された。


 しかし、これはベアトリクスにとっては良く無い知らせであった。

 敵がここにいないということは、それはつまり、別の場所に行ったということだからだ。


(兄様、どうかご無事で。恐らく襲撃者どもの狙いは、城ではなく……)


 ベアトリクスには悪い予感があった。

 状況として、シトレックを襲った賊が狙うものがアイヒェンベルクにないとしたら、それが狙うのは――。


「はっ、追撃だぁ!? あんにゃろ城じゃなくこっち狙ってきやがったぜ!?」

「……考えたくはないが、手引きした者がいる。と考えたほうが自然ですな」

「ドミドリの野郎か! あんにゃろーめ、貴族やってんなら利害損得より筋通しやがれってんだド畜生がッ!!」


 マルティンを追いながら、現れた軽騎兵を森林地帯を利用して各個撃破するフロレンツィアとゲオルク。

 ベアトリクスが感じた予感は、この二人もまた、しっかりと感じ取っていた。


「ベアトリクス、これは……よくない予感がいたしますな」

「わーってらぃ、だから突っ走ってるんだろうがよ! はやいとこマルティン様に追いつかねぇとっ……がーっ!! チマチマ襲って来るんじゃねえ馬賊どもが!」


 悪態をつきながらフロレンツィアは弓をつがえ、素早く木立の合間に矢を放つ。

 命中を確認する間もなく、次の矢を従者から受け取りながら耳に意識を集中させた。


(……あん? 足音が遠くなってら。まっさかあの一発で怖気づいたわけじゃあるめえし……)


 ぱったりと襲撃は止み、ざああっと、遠くに離れていく足音が聞こえた。

 フロレンツィアは目をまん丸く見開いて、ゲオルクは眉間に手を当てて目をつむり――まったく真逆の素振りの後、まったく同じことを思いながら駆けだした。


 それは最悪の事態。


 マルティン・ヤグリューネを討ち取ったために、賊は後退を始めたのでは? ということだった。


 首都周辺に茂る樫の森を抜け、少し開けた丘に飛び出る二人。

 稜線を超えて炎の揺らめきがわずかに見えて、火の粉が合わせて飛ぶ。


 馬賊の野営地には火が放たれていた。マルティンの速攻は成功したのだ。


「……や、やった! やった! やりましたねマルティン様ぁ!!」

「は、逸るなっ! ああもう、行かねばならぬか!!」


 まずフロレンツィアが駆け上がり、ゲオルクも追って向かう。

 そこにはゆらゆらと、陽炎のようにマルティンは立っていた。


「マルティン様! ご、ご無事でっ……!!」

「……ああ、フロレンツィアか。悪いけど、僕はシトレックを出るよ。大公位はベアトリクスに任せる。あいつは頭いいから大丈夫だと思う」

「ど、どういうことですかっ!」

「イオニア教会には付き合いきれない。僕はシトレックを出て、世界に正しい姿を取り戻す……。そのためならなんだってやってやるさ」


 そういってマルティンはゲオルクのほうを向く。

 その眼差しからは普段の優しさは消え、どこか薄ぼんやりとした、現実感のないものだった。


「これをベアトリクスに届けてくれ。連中の戦利品の中でも、これだけは特別だ。あいつなら、これの持つ意味が分かるはずだから、さ」


 マルティンが投げて渡したのは、煌びやかな貴金属のペンダント。

 イオニア協会の象徴である、五本の平行線が刻まれていた。


 ―――


「捨てたわけじゃ……なかったんだ……」

「はい。件のペンダントはここに」


 ゲオルクは一通り語り終えると、そのペンダントを懐から取り出しベアトリクスに手渡す。


「……ありがとう。受け取っておく」

「そうしてくだされ」


 雨はやみ始めた。草木が濡れ、シトレック出身の二人にとっては優しい香りがした。


「一応聞いておくが、このペンダントのことを知ってるのは……」

「吾輩とフロレンツィア、そしてマルティン様とベアトリクス様だけです」

「……と言うには多すぎる気もするがな、4人とは」

「口の堅さは保証しましょう。フロレンツィアのことを知らぬわけではありますまい」


 丁寧にペンダントをしまい込み、ベアトリクスは少し考えて、つい独り言を口にした。


(……恐らく、今回の一件はイオニア教会が大きく関わっている。動機は恐らく、権勢拡大においてレムレス最大の貴族であるシトレック大公の弱体を狙った……、そんなとこだろう)


「困ったなあ、私は本来、大公になるべき人間になかったというのに」


 帝国一の大貴族にして保守派の頭目、シトレックからすれば、この革命戦争は、また別の側面を見せていた。


 それは、世俗権力と宗教的権力の衝突に他ならなかった。

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