悪と経典
レムレス大陸は二つ、大きな山脈がある。
大陸西部と中部を隔てるヘットウェル山脈、そして――
今回のお話は、大陸の中部と東部を分かつクルーシュネ山脈から始まる。
その宗教的中心地、ジルウェスト大寺院。
かつてここより南のエブナードや、大陸東部への布教拠点として設立された由緒ある大寺院である。
しかし、今はもうその面影はどこにもない。
(驚いたな、本当にイオニア教会が排除されている。ずいぶん貧民が多い。が……、よそとは目の色が違う。これが狂信というやつなのか? だとしたら油断はできないか)
使節として派遣されたパウエル・バーブラスは慎重に大寺院門前町の様子をうかがっていた。
大陸北側のノールト海に注ぎ込む河川を利用し、河川船舶ではるばるクルーシュネまで遡上してやってきたパウエルは、適当な人間にフリギア改革教団のことを聞いて回った。
分かったことは一つ。
フリギア改革教団は、当初の予想よりはるかに手強い、結束した組織である。ということだった。
(シスター・アデル……フリギア改革教団の首魁……いったい何者なんだ? 確かにイオニア教会の権威は先の遠征から低下している。費用の捻出のためにかけられた税や、それに伴う腐敗を僕も知らんわけじゃないが……。一枚岩の組織を作った上で独立を守り、あまつさえ、クルーシュネ地方を事実上の支配下に入れつつある。……どんな手段を使ったんだ?)
思考を巡らすうちにパウエルはジルウェスト大寺院の前にたどり着く。
門前の守衛に自らの身分を明かし、アーブ公爵ヨアンナの命で使節として参上した旨を告げる。
現れたのは帯剣した身なりの良い一人の女性。顔つきや印象は、ただ鋭いと感じさせるものだった。
「……貴殿がバーブラス伯パウエルだな? 私はフリギア改革教団僧兵長、カリーナ・ヴォルケンベルク。全く急な来訪だが、アデル様は会談をお許しになられた。その寛大さに感謝することだな。さあ来い」
カリーナに連れられてジルウェスト大寺院に足を踏み入れるパウエル。そのまま歩きながら内装を観察した。
(質素、だな。煌びやかな装飾は軒並み剥ぎ取られたようだ。……慣れ親しんだ宗教の寺院であるはずなのに、あるはずのものがないだけでこんなにも薄気味が悪いのか)
そう考えているうちに、パウエルは応接室に通される。気がつくと、カリーナに加えもう一人、フリギア改革教団の関係者らしき人物がいた。
「マルティン、客人だ。アデル様との会談を希望しているらしい。私が外れている間、見てもらえるか」
「ん、了解」
そういうとカリーナは応接室から出ていった。代わりに現れたのは緑髪緑眼の、どこか暢気な雰囲気の男性。
「どうも、僕はマルティン・ヤグリューネ。フリギア改革教団の軍団指揮官。君もアデル様の教えに興味があるのかな? 良い心がけだねー、この世の摂理を分かってる人間は必ず幸せになれるよ」
「は、私はパウエル・バーブラス。アーブ公に連なる貴族で、ここに来たのは友好の打診のため……、待て、君は今、ヤグリューネと言ったか!?」
驚いた様子のパウエルだが、マルティンの方は相変わらず暢気な様子で言葉を続ける。
「ん、そうだよー。と言っても昔の話。僕は相続とか、貴族同士の醜い争いに嫌気がさしてシトレックから出てきたんだよ。ここはいいところ、アデル様の教えに従っていれば何も間違いはない」
(こいつかっ! チャイカが言っていた『シトレック貴族の盟主であるヤグリューネ家から、フリギア派とかいう新興宗教に転向した者が出た』やつは!)
パウエルは少し焦りながらマルティンの目を見る。事の重大さを理解しているのかいないのか、相も変わらずぼんやりとした印象だ。
(自分の家を捨てて出てきただと!? 自分のやったことを分かってるのか!? ……いいやっ! 分かってないはずがない!)
「うん? 僕の顔がどうかした? ……ああ、気を使わせちゃってごめんね。確かにシトレック大公ヤグリューネ家の生まれだけど、今の僕には貴族としての立場はないからさ、遠慮はいらないよぅ、アデル様は人類皆平等って言ってたから」
「そうですよマルティン、人はみな平等。王となるために必要なものは、血筋ではなく才覚です」
ぎいっと古い戸を開けて現れたのは、少し背の低い修道服姿の女性。
エブナードに多い黒髪とシトレックに多い緑の瞳は、彼女が単純な生まれではないことを物語っていた。
「ようこそいらっしゃいました。私はアデル・シュッツェン。このフリギア改革教団にて、イオニアに排斥された者たちのために、苦しむすべての人たちのために教えを広めております。有意義な時間を過ごせること、期待していますよ」
「これはこれはどうも。僕はアーブ貴族、バーブラス伯パウエル。……急に訪ねたにも関わらずお出迎えいただいたこと、光栄に思います」
(さあて、首魁のお出まし、か。……見たところ、普通の修道女に見えるが?)
眼前の、一見普通の修道女アデル・シュッツェン。主観的な話をすればこの場に似つかわしくない存在。だからこそ、パウエルは警戒し思考に集中する。
そこに割り込むように、鋭利な印象の言葉が聞こえた。
「ここにあるはフリギア改革教団の総主教、アデル・シュッツェン猊下である。ご無礼の無いように。もし、過ぎた真似をすれば……」
「素っ首、切り落として差し上げましょう」
「……カリーナ、交渉相手の客人を脅してどうするんですか。これより始まるのは友好的な会談なのですから、それに相応しい振る舞いを行いなさい」
「っ、申し訳ありません、アデル様。出すぎた真似をいたしました」
「分かれば良いですよ」
パウエルの思考に割り込んできたのは、カリーナとアデルの会話だった。
アデルは少しだけ決まりが悪そうに謝った。
「すみません、気を悪くされたのでしたら私からも謝りましょう」
「いえいえ、立派な忠節ではありませんか。……重要なのはそこではありませんからな」
(……流石はアーブ公爵様から使節として送られてきただけのことはありますね。感情に流されるようなことはしない、と。彼に響く言葉を選ぶのは少々骨が折れそうです)
アデルは言葉を慎重に選び始めた。ということは、彼女が話す事柄は本心からの言葉ではない。
本心から話すことよりも「どんな言葉を使えば相手の心理、思考を制御できるか」ということが重要だとアデルは認識していた。根っからの伝道師であり、煽動家として天性の才である。
「寛大なお心遣いに感謝いたします。……ええ、それでは本題に入っていただけますか? 私はフリギア改革教団の代表ではありますが、あくまで一介の聖職者、細々とした交渉は苦手ですので」
(嘘、だな。慎重な言葉選びや波風立てぬような振る舞い。これで交渉が苦手なわけあるか。……手強いなあ、流石は乱世に現れた新興宗教の教祖か)
パウエルはアデルの嘘を鋭敏に感じ取っていた。
言葉で腹の探り合いをすることは損と踏んで、単刀直入に本題を切り出すことにした。
「こちらとしても助かります。私がここに来た目的は、あなた方フリギア改革教団と、我らアーブ公国は同盟関係になれないか、ということです」
「嬉しい申し出ですね、あなた方は我々、真実の信徒の敵ではないようだ」
重畳という様子でアデルは言葉を続ける。
「……しかし、それだけではないでしょう? 真実を示しなさい。我々フリギア改革教団は真実を重んじます」
「と、言いますと」
空とぼけるパウエル。アデルの柔和な表情の裏に隠された、ある種の――誤解を恐れずに表現するならば――邪悪さを感じ取っていた。
「アーブ公爵が、単に仲良しこよしをするためだけにあなたを派遣した……、そんなわけないでしょう? 真実を、目的を曝け出しなさい。このアデル・シュッツェンの前で、密事など罷りなりませんよ」
(お見通しか、弱ったなあ……。しかし、フリギアがシトレックと対立していることさえ確証が持てれば、こちらの真の目的……シトレックへの挟撃案を明かしたところで何の不利益もない)
アデルはカリーナに目配せを行う。カリーナは即座に剣の柄に手をかけた。
「あ……いや、そうじゃなくて……、ここから一時的に外れていてほしいのですが」
「アデル様を一人になんてできません」
「もしも事になったらちゃんと呼びますって」
少しだけ不服そうに、カリーナは応接室から出ていった。
いっぽう、こちらは少しだけ安堵した表情でアデルは少しだけ楽な姿勢をとる。
「はい……言葉に出すのは憚られることでも、これなら良いでしょう?」
(逃げ場は無しか。已む無し、ここで直接問いかけるほか無いだろう!)
「一つだけ……確認させていただきたい。フリギア改革教団はシトレック大公とはどういった関係で?」
「ああ、マルティンのことですね。……御心配なく、シトレックとは何の関係もありませんよ。離反者を囲っている以上、良好な関係とは言い難いですしね。……で、なぜ我々とシトレックの関係を探ったんですか?」
ついに、観念したように、意を決したようにパウエルは口を開く。
「我が主君、ヨアンナ・アヴィズル公爵はシトレックへの攻撃にあたり、同盟国を求めている。あなたがたフリギア改革教団に接触したのもそのため。……これが、私のお話できる全てです」
アデルの表情を読み取ることは難しいが、パウエルはそこから「安堵」を読み取った。
「なるほど……アーブは、我らフリギアを正式な宗教団体として、一つの勢力として認めていただける。そういうことでよろしいですね?」
「……そのつもりです。教義についての確認は致しますが、アーブ公爵ヨアンナには良く伝えておきます」
「宜しい。このアデル・シュッツェンの名において、フリギア改革教団はアーブ公国との同盟を締結いたしましょう。我らの使命は、イオニアによって救われなかったものを救うこと。あなた方がその同志であると信じていますよ」
アデルはペンを取り、自らの名前をしたためる。
教会風の書体は、アーブ貴族のそれと並ぶといっそうよく目立っていた。
(いやにあっさりと、トントン拍子でことが進んだな? ……それもそうか、新興宗教が真っ先に求めるものは後ろ楯。イオニア教会と対立している以上、友好関係を拒否する理由は無いということか)
「お帰りになるのでしたら、我らの布教団から代表を連れて帰るのはいかがでしょう。我々の教えを知るには良い方法だと思いますよ?」
(……しまった! 本命はこっちか!?)
パウエルはアデルの狙いを直観し、こう推測する。
端から彼女の第一の狙いは「フリギアの教えを広めること」だったのだと。
同盟も確かに必要なことではあるが、それ以上に――信徒を増やし、事実上の国力増強を行うことが何よりのミッションである、と。
誤算がひとつだけあるとすれば、目の前の勢力はパウエルが思うような「国家」ではなく「宗教団体」であると言うこと。
それが、読み違えを引き起こしたのだ。
(やられたなあ。……アデル・シュッツェン、貴女は恐ろしいお人だ。アーブ貴族、バーブラス伯爵たる僕の思考の上を行くとは……。しかし、僕とて完敗したわけではない。事後処理ではあるが、君の狙いに気づくことはできた。次はこうは行かないよ)
執務室を後にしたパウエル、ジルウェスト大寺院の出口までは、マルティンが見送りについた。
「マルティンか。……いやあ、そちらの教団長は物凄いお方だな」
「あっ、やっぱりわかった? まあそりゃそうだよねぇ、話すとアデル様って凄いってわかったでしょ?」
マルティンは相変わらずにこにこと、気楽そうな表情で話している。
「っとっと、そうだそうだ、帰るんだったらお土産がいるよね。さっき連絡があってさ、君の故郷にフリギアの布教団を送ってあげてって。凄いね、アデル様にそんなに気に入られるなんて。君、見込みあるよ、今からでも教団に入らない?」
「申し出はありがたいが……、まだまだやることがあるのでね。この先、予想外に隠居する羽目になったら頼らせてもらおうかな」
「あっはっは、その時は僕とお揃いみたいなもんだね。楽しみにしてるよ」
かくして、パウエルの使節としての仕事は、結果だけ見れば成功に終わった。
――しかし、アデル・シュッツェンはパウエルが思うより、よほど
まともな人物ではなかったのだ。
「カリーナ、汚れ役を押し付けてしまいましたね。これもフリギアのため……」
「フリギアのため、アデル様のためであるのなら、どのような事であろうと汚れ仕事ではありません。アデル様、私のために謝らないでください。あなた様はフリギアの聖女。隔絶されし存在なのですから」
先程のカリーナの言動はアデルによる仕込みだった。
アデルは、パウエルがどういった人間なのかを推し測るためわざとカリーナに失礼な言動をさせたのだった。
「それよりもアデル様、よろしかったのですか? シトレックを挟撃するなど……」
「これでよいのですよカリーナ、我々は早急に『潜在的な同志』を増やさねばなりません。……そのために、手段など選んではいられないのです。はっきり言いますよ、我々の軍事力じゃクルーシュネの木っ端どもならともかくとして、一枚岩の勢力に勝つなんて不可能です。そうでしょう?」
「は、確かに、我々の主軸はアデル様のもとに集った難民やら流民に訓練を施した武装教団員。数だけはおりますが、裏を返せばそれだけですね」
アデルは笑みを浮かべた。
「ですから、この提案はまさしく渡りに船ですよ。同盟国があてにならないんじゃアーブの連中も困るでしょう。いろいろと理由を付けて武器を……そうですね、火砲かなんかの製造法を頂いてしまいましょう。いざとなりゃ、武器職人や商人に布教してしまえば裏から手を回しやすくなるでしょうし。……勝って生き残るのは我々です。異端だなんだと一方的に烙印を押されるなんて、受け入れられよう筈もない」
「正しく、その通りですアデル様。我々は救わねばならない」
「太陽は我々のために昇るのです。大地を耕し、懸命に働く庶民のために。それを導くことこそ我々フリギア改革教団の務め。私が導かねば、彼等はしょせん弱者の集まり。烏合の衆に過ぎない……なら、私は偽りだろうと聖女になってやりましょう」
アデルは立ち上がって応接室の出口へ向かう。途中で振り返り、カリーナのほうを向いて言った。
「行きますよカリーナ、クルーシュネを手中に収め、来たる戦いに備えましょう」
「御意、全てはアデル様の意のままに」
「貧民の軍団にシトレック大公が敗れれば、きっと世の中ひっくり返りますよ? 私はそれが見たい。血統だけでのし上がった連中に目にもの見せてやらねば」
アデルは意気揚々と去っていった。後にはカリーナひとり。
(アデル様……、私は誰よりもあなたのそばで、その悲嘆も、義憤も、全て私が支えましょう。……ですので、どうか、私にとって、理想の主君であって下さい)
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