5【良い感想書きの見分け方】いつも酷評たまに絶賛の感想書きはNG

 何故ならばその感想書きはたったひとつの判断基準で小説を評価している可能性が高いからです。



 いつも酷評しているけどたまに絶賛する感想書き、見たことありませんでしょうか。

 褒め0指摘10がスタンダードだけど、十作に一作くらいの確率で褒め10指摘0の感想が出てくる。

 “厳しい感想書き”にたびたび見られるスタンスだと思います。


 前回の話「褒め7指摘3と決めている感想書きはNG」を踏まえると「あ、こういう感想書きが良いのかな」と思えそうです。

 褒めると決めている褒めは駄目、褒めすぎは駄目、褒めない選択肢があるから褒めに価値が生まれる。

 その話に照らすと、“いつも全然褒めないけど、たまにめっちゃ褒めてくれる”感想書きは、褒めに価値のある良い感想書きに感じられると思います。

 いつも酷評だから、たまの絶賛がすごく眩しく見える。本当に良い作品なんだなと思える。本気の感想を書いているんだなと思える。

 「十作のうちの一作になりたい」と思って励む小説作者もいるかもしれません。



 ただフィンディルの考えとしては、こういう感想書きはNGです。褒め7指摘3徹底の感想書きよりもNGです。

 褒めの価値とかいう以前の問題としてNGです。

 危険だから近づかないほうが良いぐらいに思っています。私は絶対に応募したくありません。


 感想を書いていると、褒め0指摘10か褒め10指摘0の二択になることなんてないんですよね。

 「指摘するところしかない」「褒めるところしかない」の二択しかない、なんてことはないのです。

 ほとんどの作品は「褒めるところもあるし、指摘するところもある」のです。

 「ここは良いな」「ここは良くないな」「ここは良いけど、もっと良くなりそうだな」「ここが良くなると、ここも(もっと)良くなるな」「ここが良いことが、ここが良くない原因だな」が複雑に入り組んでひとつの作品はできあがっているんですよね。

 確かに「指摘するところしかない」「褒めるところしかない」作品もあります。しかしそういう作品は多くありません。その小説の要素や魅力を横軸にも縦軸にも見ていけば、大体は「褒めるところもあるし、指摘するところもある」と思います。

 品質の高い小説や低い小説で「褒めるところもあるし、指摘するところもある」をどこまで維持できるかが、感想書きの実力のひとつだと私は思っています。

 きちんとその小説を見れば、「指摘するところしかない」「褒めるところしかない」の二択にしかならない、なんてことはまずありません。


 では何故「指摘するところしかない」「褒めるところしかない」の二択になってしまうのか。

 たったひとつの判断基準で小説を評価しているからではないか。私はそう思っています。

 その感想筆者が思う“小説にとって一番大事なこと”ひとつだけを引っ提げて小説を読み、その“小説にとって一番大事なこと”が不足していれば酷評、満たされていれば絶賛しているのではないか。

 価値基準が複数あれば「ここは良いが、ここは良くない」「ここが良いことが、ここが良くない原因だ」「ここが良くなると、ここも(もっと)良くなる」という複雑な褒め指摘バランスになります。感想構成の選択肢は無数に生まれます。

 しかし価値基準がひとつだと「良い」「良くない」の二択しか生まれないんですよね。


 「小説は冒頭が全て」「小説は読みやすい文章が全て」「小説はプロットが全て」

 私が覗き見るかぎりでは、酷評or絶賛の感想書きは上記のような極論を使いたがる傾向があるように思います。「小説は~~が全て」。上記のようなひとつの極論を後生大事にし、その唯一の価値基準のみで小説を評価している。

 単純明快でわかりやすいですが、浅い。

 もちろんそのひとつの価値基準だけで感想が構成されているわけではないのですが、その価値基準に適う小説は他全ての要素も素晴らしく見え、価値基準に適わない小説は他全ての要素も粗悪に見えてしまう。その感想書きの目には。

 「小説は~~が全て」だから。“~~”が満たされてさえいればその小説は面白いから、他全ても面白く見える。逆も然り。

 感想筆者がただの持論を金科玉条まで育てた結果、酷評or絶賛という極端な二択になっているのではないかと思います。



 この感想筆者のスタンスは、小説作者にとっては有害なんですよね。

 その感想筆者が何を一番大事に思っているのかは勝手ですが、小説作者もそれぞれ大事にしていることがあります。大事にしていることは作者それぞれで作品それぞれ。それに則って創作活動をしていますし、その小説を一生懸命書いている。また小説作者の自覚無自覚を問わず、客観的に輝いている作者・作品の魅力もあります。

 方向性と魅力は作者・作品の数だけあるのです。

 これを見極めるのが感想書きの務めですし、これを見極められるかが感想書きの素質であると私は思っています。


 この方向性と魅力を見極める意欲すら出さずに、感想筆者の「小説は~~が全て」を押しつけてもプラスにはなりません。むしろ作者・作品の方向性や魅力が曲がってしまう危険があります。

 その小説作者が創作活動をしている動機が「この感想筆者に評価されるため」ならばそれでもかまいません。しかしそんな小説作者はまずいません。その感想筆者個人に評価されるために創作をしている人なんてまずいません。

 感想筆者を公募に置きかえたら、そのように割りきって活動している小説作者もいるでしょうけどね。しかし公募でも抵抗感を示す小説作者はいるでしょう。いわんや感想筆者をや、です。


 なので私は、こういう感想書きには近づかないことをオススメします。

 「小説は~~が全て」を堅持して酷評or絶賛してくる感想書きではなく、小説作者・作品の方向性や魅力を見極める能力と意欲を持った感想書きをオススメします。

 その作者・作品にあった感想構成を柔軟に選択できる、無数の感想構成バリエーションを選べる感想書きをオススメします。



 いつも酷評たまに絶賛の感想書きはNGという話でした。

 その感想筆者が勝手に思っている「小説は~~が全て」を無分別に小説作者に押しつけている可能性があるから、が理由です。

 個人的には「絶対に酷評の感想書き」「絶対に絶賛の感想書き」のほうがまだ健全だと思います。その方針をとる動機は尊重できるものである可能性があるからです。

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