2【感想論一般】指摘同意はとりましょう(1/2)
指摘をしたいなら指摘同意くらいとりましょう。
指摘同意がとれないなら指摘はやめましょう。
「指摘同意」とは「その小説への指摘行為について作者に許可をとること」です。私の造語です。
指摘は小説作者の許可をとってからやりましょう。許可がとれないなら指摘はやめましょう。ということですね。
言うまでもない当然のことだと思うのですが、そうでもなさそうなので記事にしておきます。
これを読んでいる人のなかにも「そうかなあ? 許可いるかなあ?」と感じている方もいるかもしれません。
「自分は許可なしに指摘してもらってもいいけどね」と思っている人もいるかもしれません。
“投稿サイトで公開しているということは、作品を読んでもらいたいということだ。読んでもらいたいなら、指摘だって受けいれるべきなのでは?”
こういう意見を見かけることがあります。投稿サイトで公開している→読んでもらいたい→読んでもらうために指摘も受けいれるべき、ですね。
この意見、一見すると「確かに一理あるな」と感じるんです。
何故ならば投稿サイトに作品を公開している人のほぼ全ては、自作を読んでもらいたいと思っているでしょうから。
ならば指摘も受けいれるべきなのかもしれない、と。
ただこの意見は論理が飛躍しているんです。
読んでもらいたい→指摘も受けいれよう、じゃないんです。
読んでもらいたい→読んでもらうために上手くなりたい→上手くなるために指摘も受けいれよう、なんです。実際は。
ここをすっぱりカットしているのです。
確かに投稿サイトで公開する人のほぼ100%は読んでもらいたいと思っているでしょう。
では読んでもらいたいと思っている人のほぼ100%は上手くなりたいと思っているのでしょうか?
さらに読んでもらいたいと思っている人のほぼ100%が上手くなりたいと思っているとして、上手くなりたいと思っている人のほぼ100%が指摘を受けいれてまで上手くなりたいと思っているのでしょうか?
そんなわけはありません。
読んでもらいたいけど上手くなりたいとはそんなに思っていない。上手くなりたいけど指摘を受けてまで上手くなりたいとは思っていない。そんな人も沢山いるはずです。
それを本気度の差と捉える人がいるかもしれませんが、これは本気度の差ではなく動機の違いです。
投稿サイトに作品を公開する理由は読んでもらいたいからでしょう。しかしこの「読んでもらいたい」の種類は千差万別です。
「プロとして営業の一環だ」「プロを目指している」「公募で受賞したい」「サイト内ランキングで上位になりたい」「注目されたい」「上達するのが楽しい」「作者同士の交流が楽しい」「誰かに読んでもらえる出会いが楽しい」「ちょっとした生産性・充実感が楽しい」「気分転換だ」
これら全てが「読んでもらいたい」に分類されます。どれも否定されるべきものではありません。
果たしてこれら千差万別の投稿動機のなかで、他者からの指摘を必要とするものがどれだけあるでしょうか。「気分転換だ」と思って投稿している人の作品に指摘なんかして、誰がどう幸せになるのでしょうか。
「読んでもらいたい」の意味はひとつではない。人間は様々です。様々の動機が同居しているのが投稿サイトです。
「読んでもらいたいなら指摘だって受けいれるべきだ」は「読んでもらいたい」の意味を一方的に決めつけた考えだと、私は判断します。詭弁です。
“書き手として作品を公開した以上、読み手がどう感じるかが大事だ。指摘を受けいれる覚悟を持たなければならない”
こういう意見も見ますね。書き手としての責任だと。
「書き手として作品を公開した以上、読み手がどう感じるかが大事だ」そのとおりですね。
ああ厳しい意見だな、書き手に対して厳しいな、でもそのとおりかもな。そう感じてしまいます。
でもこれは逆なんです。書き手をゲロゲロに甘やかした意見なんです。
というのも感想・指摘を書いて公開した時点で、その人も書き手になるからです。
小説を読んでいるあいだは読み手です。小説を読んで感想を胸に抱くあいだも読み手です。しかし感想を書き、公開あるいは作者に届けた時点でその人は感想の書き手になります。そして小説作者は感想の読み手になります。
書き手・読み手の構図は逆転するのです。あるいは双方とも、書き手であり読み手になるのです。
「書き手として作品を公開した以上、読み手がどう感じるかが大事だ」そのとおりですね。でも同時に「書き手として感想を公開した以上、読み手がどう感じるかが大事だ」も発生するのです。
感想について、書き手という認識が非常に乏しいのです。
小説の作者には書き手としての責任を言い聞かせますが、感想筆者については書き手という認識すら持たせない。
「指摘を受けいれる覚悟を持たなければならない」は小説作者への覚悟を説いている言葉ではありません。「だから何も考えずに指摘していいよ」と感想筆者を甘やかしている言葉なのです。指摘をする覚悟はどこいった。
小説を書く人に書き手の責任を問うなら、同様に感想筆者にも書き手の責任を問わなければなりません。読む人がどう感じるのか、読む人が顔をしかめるようなことを無許可無配慮に書いてはいけません。
自身が書き手である認識すらない人が書いた文章なんて危なっかしくて人に読ませられません。
「指摘はお断り」などで自衛をすればいい。現実的にはそのとおりです。しかしそれは解決ではありません。
自衛の推奨による解決は、感想筆者の無責任な指摘の追認でしかありません。
小説作者に自衛を奨めるよりまえに感想筆者に自覚と自制を促すのが先のはずです。
指摘とは相手を不快にさせる可能性のあるものです。
指摘同意なしに指摘をするのは、レーティングなしにエログロ作品を公開するのと同じです。
「自分は許可なしに指摘してもらってもいいけどね」と思うのは自由ですが、それで指摘同意なしの指摘そのものを肯定するのは危険です。
自分は突然のエログロ描写も全然平気だから、世にあるエログロ作品にレーティングは不要と言っているようなものです。
だから当たり前のように指摘同意が必要なのです。
「読んでもらいたい」では到底不十分。「読んでもらいたい→読んでもらうために上手くなりたい→上手くなるために指摘も受けいれよう」まで意思を示してもらってはじめて、指摘は誰かを幸せにします。
指摘同意はレーティングです。指摘とは人を不快にさせるものという自覚と責任をもって、それでもなお公開するために最低限必要なものです。小説作者にばかり書き手の責任を説き、それを言い訳にして責任なく甘えた指摘をするのはやめましょう。小説作者の覚悟に甘えるのではなく、ちゃんと自前の覚悟を持ちましょう。
なお「誹謗中傷」に類するコメントは論外ですので本記事の俎上にはあげていません。
本記事で問題にしているのは、指摘同意なしの指摘です。
後半は、指摘同意のとり方について触れちゃうぞー!
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