1ー12.失われた母との絆

 それから二日間、ルゥは〈蟻塚ありづか〉でまどろむような日々を過ごした。


 外の世界がどうなっているのか──それはずっと気になっていた。しかしからだが言うことを効かないのか、すぐに疲れてしまう。ルゥの部屋として割り当てられたその場所にはつねに侍女らしき女性がいて、名をシレーネと言った。彼女はルゥが出かけたいと言うと必ずお供しますと申し出る。確かに彼女の手助けによって迷わずに済んでいるし、疲れがちなルゥに無茶しないよう諭してくれるが、言うなれば見張りであった。


 とはいえ〈蟻塚〉のなかであれば、自由に歩き回ることを許されていた。

 ルゥは持て余した気持ちの捨て場所を探すように、可能な限り〈蟻塚〉の複雑に入り組んだ石洞を散策した。歩くとよくわかるが、そこここの壁や床がじつに丹念に磨かれており、たとえ転んでもすり傷かすり傷など付くことがなかっただろう。


 このことを興味深く観察していると、シレーネが「これを可能にしたのはいにしえの魔法だけでした」と説明してくれる。彼女の説明によれば、古代魔法文明はまさに大地を触れて知り、風の声を聞き、水を舐めて火を見ることによってさまざまな本質を観相しえたのだという。ただ、シレーネ自身もマグダレーナからの聞き語りを伝えるばかりで、当人はそうした過去を信じるよりほかにはしようがないといったところだった。


 マグダレーナとの対話は、あれから大きなひとつの頼みごとを聞くことで終わった。しかしそれはあまりにもルゥにとっては大きな決断を強いられるものだった──


 思い出すだけでも身震いがする。


「さて、〈根源の申し子ルートルット〉よ。あなたにひとつ大きな頼みごとをしなければなりません」

「……なんでしょう」

「エスタルーレが付与されている術式はほんらい魔女の結社の最も重要な力でした。わたくしたちはそれを〝世界の《記憶》につながる力〟というふうに表現しています。これは数ある魔法のなかでも、なぜゆえか可能な御業なのです」

「…………」

「いま、わたくしたち魔女の結社はひとつの大きな決断を強いられています。シルベール皇国がこらえきれずに争いに手を出す原因にもなった異変を、正しく知らしめなければならない。そのためにはわたくしたちもわたくしたちなりの戦いに身を投じる必要があります。端的に言って、〝力〟が足りないのですよ。そしてエスタルーレは願いを果たした以上、もはやその〝力〟を返してもらわねばなりません。エスタルーレの血縁者として、この権能を継承をしていただきたいのです」


 ルゥは初めてマグダレーナという人物を目の当たりにした。そしてようやく搾り出した言葉で、これに応えた。


「……ボクに母を殺せと言うんですね」

「はい」

「嫌だと言ったら?」

「確かに最初は反発するかもしれません。しかししばらくここで過ごして、母を見舞って暮らしてみると良いでしょう。たぶんわたくしの言ったことの意味がわかると思います」


 確かにその通りだった。直後にエスタルーレの身体がかすかに震えると、声にすらなっていない悲鳴を内側で噛み殺す。ルゥはとっさに身を支えたが、もはや触れることすら激痛になるようだった。身じろぎして、拒絶の意志だけが伝わっていく。

 マグダレーナはここぞとばかりに、小指大の玻璃瓶を取り出して、エスタルーレの顔の前で蓋を開けた。コルクの音が鳴ったかと思うと、強い刺激臭が一瞬だけ漂い、エスタルーレは眠るようにおとなしくなった。マグダレーナは蓋を閉じた。


「魔女の秘薬です。痛みを抑える代わりに意識の正常な働きを損ないます」


 ルゥは絶句した。


「もうこれしかないんですよ。呪いは身体を侵しつくし、つねに秘薬を使わねば死んでも死にきれないほどの痛みがおそう。もちろん秘薬の代償は大きく、使うたびに投与された人間を夢見心地の世界に誘います。肉体と意識がかい離し、こちら側からは何ひとつ感覚が伝わらない。二年前まではまだもう少し会話ができました。しかし昨年の暮れ頃から、五秒前口にした言葉すら忘れはて、ついにはこの通り。意識が戻るとすぐこれです」

「……そんな」

「もう限界ですよ。どちらせよ、彼女が借り受けた力は彼女をただ生かしていることしかできなくなっている。あなたが心のどこかで願っている奇跡はこの世には存在しません。ただ諦めるのがいまか、先延ばしするのかという違いに過ぎないのです」


 ルゥはすっかりくしゃくしゃになっていた。考えなきゃいけないとわかっていても、身体がそれを拒否している。

 手が痺れた。舌がザラザラする。めまいだってしていた。そんな状態で、ひとのいのちを天秤にかけるような決断を迫られる。


(リナ──)


 リナならこんなときどうしただろう。


 同時に、ルゥはこんな大事なときにふたごの姉がここにいないことに戦慄せんりつした。リナ。リナにお母さんを会わせなきゃ。でも、こんなお母さんのすがたを見せてどうなるって言うんだろう──ルゥの戸惑いと思考はただ空回りして、結論を出すなんて夢のまた夢だ。


 マグダレーナはそれを見透かしたように、静かに隣りに立った。


「判断は近いうちにしたほうが良いです。が、いまここで、とは申しません。しばらくやすんでから、決断してくださいね」


 それで、その日の会話は終わりだった。


 あれから一日が経ち、二日目も午後になろうとしている。時間がわかるのは、少なくとも〈蟻塚〉にも〝中庭〟と呼べる陽の光が差し込む箇所があって、そこで根菜類やクロムギ、ヤセムギを育てているからだった。

 食べるものは粗末だが決して貧しくはなかった。雑穀を交えた麦粥ミールと、根菜のスープを飲んで栄養を摂っているうちに、ルゥは次第に過去や未来のことを考えられるようになってきた。


 少なくとも、自分があのとき──メリッサにシルベール皇国軍が侵攻してきたあの場面からいまに至るまでの流れはだいたい整理できている。

 十三回の点鐘が鳴り響いたあと、困惑しきった村のひとびとの動きをかき分けてルゥはまずユリア婆の家に戻った。それで彼女に異変を伝えると、ユリア婆がとっさにルゥを裏口から逃がしてくれたのだ。「足を止めるんじゃないよ」と言ったのもよく憶えている。ルゥはそこから必死に走った。だれにも見つからなかったはずだが、走っているうちにどこへ行けばわからなくなり、足を踏み外して気を失った。それだけなのだった。


 村は燃やされたりはしなかった。それはときおり振り向いて見たから知っている。だが、あのあとみんながどうなったのかは知らない。シルベール皇国は異教徒の帝国だ、だから叙事詩圏の人間をやさしく待遇する理由はないはずだった。ルゥはユリア婆や木こりのフーゴー、洗濯女ダニエラや、ヘルマン司祭といった数々の大人たちの顔を思い浮かべて、気を重くした。


(みんなどうしちゃったのかな。ボクも心配されてるかもしれないけど)


 ただひとりでここを抜け出す気力も、理由もなかった。母がいる。とうの昔に亡くなったはずの母──それがたとえどんなかたちであったとしても、生きて会える。それに代わるほどの強い衝動は、ルゥにはなかった。


(リナ。メリッサがあんなになっちゃって、ボクも行方知れずじゃ……さすがのリナでもパニックになっちゃうんじゃないかな)


 不安があった。でもこのまま母をおいてはいけない。そのことで延々と悩み、そうしているうちにも母は激痛と昏睡こんすいを往復している。その間隔は長かったり短かったりした。ときおり見舞いに行こうとすると、シレーネに「やめたほうがいいです」と止められた。なぜかを問うと、「子供が見ないほうがいい母のすがたというものもあります」と言われた。ルゥにはよくわからなかったが、その時間は見舞いを避けた。

 二日で合計四回、ルゥは母を見舞った。午前と午後、夜と朝──いまは二日目の午後だった。もう案内なしでたどり着けるくらいには道順も記憶している。青白い光の世界でひとり眠ったように隔離されたエスタルーレのすがたは、いつ見ても直視に耐えないほどの悲痛がともなった。どんなにルゥが手当てを試みても、反応は薄く、言葉すらも発しない。うめき声に似た発声が、かすかにしながらゆっくり船を漕いでいる。


 ときどき、ルゥはこれが何かの悪夢だったらと考えることがある。実は母だと知らされていた人物が母ではなく、魔女には悪意があって(なぜかはわからないが)ルゥをこちら側へと勧誘しようとしている、とか。

 あるいはそもそもこの〈蟻塚〉にいること自体が、あの足場を踏み外したところから続いている夢か、死後の世界といった具合なのではないか、と。


 でも、ほおをつねっても痛いし、胸に手を当てても痛かった。どこもかしこも傷だらけで、もしそれが本物であれば血みどろになっていたに違いなかった。ルゥは決して苛立ちをモノにぶつけたりはしない。ただ、心だけが傷ついている。心だけが、見えない血液を流し続けている。

 そして、その傷ついた心が、このひとは間違いなく母であると直感していた。


(このひとがお母さんでなかったら、ここまで心がかき乱されなくてすむのだろうか)


 そんな逃避的な想像すらしてしまう。

 根拠はない。理由も特にない。もしかしたら騙されているのかもわからない。それでもルゥの直感はこのひとを〝母〟だと告げている。そして、その〝母〟は、もう死の運命から逃れることができないだろう。


 事実がゆっくりと、氷のように溶けて心の底へと染み込んでいった。

 ルゥは母の身体を手当てして、それから自分の手のひらを見た。母が不在の家庭で、絶えず料理を、掃除を、洗濯をし続けた自分自身のたなごころ──それは、まだ見ぬ母を探し求めて母のまねごとをした手でもあった。


 しかし、この手は決して母を救えない。そのことがかなしくて、かなしくて仕方なかった。この手で作った料理を食べさせたい口はもはや言葉を発することすらままならず、この手で洗濯した衣を着る身体は苦痛に歪みシワだらけ。ついにはこの手で掃き清めた場所でとこしえの眠りに就くよりほかにない。

 ルゥはたくさんのことを考えて、想いがこぼれるように涙を流した。泣いても何にもならない。理性はそう告げるが、どうしようもなかった。ただ意味もなく泣いた。


 ひざを抱えて母と同じ目線に並ぶ。


 エスタルーレの反応はほとんどない。ただ眠りこけたようにうつらうつらとして、決して頭を上げようとしない。あげる体力すらないのかもしれない。ただこれでは魔術に生かされているだけの身体だった。

 ルゥはそっとうかがうようにエスタルーレを下から見た。目が半ば閉じかかっている。顔はかつてのおもかげを感じさせないほど苦悶の歪みがシワを刻んでいる。口も閉じ切らず、ときおり唾液を垂らしてしまう。彼女の足元には痰壷たんつぼがあってそこにしたたる。ルゥにはそれがいつか終わりを告げる水時計の受け皿に見えた。その終わりは決して底知れないが、間違いなくエスタルーレから最後の一滴を絞り落とそうと稼働し続けている──


 ふと、ルゥはエスタルーレのを見た。青い目。深い青のまなざし。まるで湖の深い底か、濃紺に染まった空の色──眼の焦点はすっかり合っていないが、それでもどこかを見ようと懸命に踏みとどまっている。

 その鈍い輝きを観察しながら、まだ母は生きようとしているのだ、とかれは悟った。死にたくない、まだ生きていたい。そう目が訴えているような気がした。しかしそれはもはや目的を失った欲動だった。彼女がもしマグダレーナの言った通りの目的でいまのいままで生きているのだとしたら、とうにその目的は果たされている。そのことがまるで理解できない、ただそうある生のあり方に、ルゥはかなしみよりもむなしさを感じた。


 ある、暗い決断がルゥのなかに起こった。かれの内側にあったそれは、かれ自身認めたくないものだった。しかしかれは感情的になることを自分に許さなかった。だからこそ、余計に苦しくなっていた。

 罪悪感が湧き上がり、つと目を逸らした。心のなかで「さよなら」とつぶやき、ルゥは母のいる石室を後にした。


「あら。ひどい顔ね」


 帰りの道中、ルゥはヴェラステラとすれ違った。赤金色の髪の少女は、天球儀の間で何かをずっと指計算している様子だった。

 しかしルゥにはちっとも興味がない。かれはうつむいたまま脇を通ろうとする。そこを見つかって声をかけられたのだった。


「お待ちなさいよ。ひとがせっかく声をかけたというのに」

「…………」

「いつまでも塞いでたって始まらないわよ。それとも、もう何かを始めようとしているのか知らないけども」


 ルゥはとヴェラステラを見た。


「あなたにボクの気持ちがわかるものか」

「そうね。あなたの気持ちはあなたのものよ。べつにそれはどうだっていいじゃない」

「なら──」

「でもそれは、ひとの話を聞かない理由にはならなくてよ」

「…………」


 ヴェラステラはおもしろそうにルゥの顔をうかがっている。

 そのさなか交わった視線に興味深いものを受け取ったのか、急に彼女は壁際に寄って、棚から札の束を引っ張り出してきた。近くの長机を指差す。


「来なさい」

「なんですか」

「いいから。あなたのを観せてよ」

「ボクはべつにそんな気分じゃ」

「はやくなさい、〈根源の申し子ルートルット〉」


 急に、たましいから延びた糸を引っ張られたような緊張がルゥをおそった。ぴくっ、と本能がうずいている。意識に風穴を開けられたような驚きが、かれの内側にはあった。


「いま、何を?」

「名前の本質に呼びかけたのよ。知りたいのなら、わたしのところに来ること。いい?」


 しぶしぶ、ルゥは従った。

 ヴェラステラはシレーネに席を外すように命じた。


「さて、どうしたものかしらね」


 ヴェラステラが広げた札は六十四枚。札を配置しながら、彼女はそれぞれの札が持つ役割を説明した。


「四つの元素霊がいて、それぞれに十六枚の札が割り当てられている。実際の配役は八つで、天と冥の属性が与えられたものが等分にあるだけ。同じ配役でも天と冥では意味が逆転することがある。これを、順繰りにめくっていって、捨て札を積み重ねていく。最後に残った札が、これからのあなたの宿命を暗示するの」

「………」

「とりあえず、やってみなさい。わたしは補助霊として手助けするわ」


 めくった。風の加護を受けた〝奴隷〟の、冥属性にあたる札だった。


「これがあなたの最初の運命。めくって」


 手札が二枚。ルゥは片方を捨てた。ヴェラステラもめくる。捨てた。

 めくると捨てるを繰り返す。火の元素霊の〝戦士〟の札、その天の属性が捨てられたかと思えば、他方で捨てられた冥の属性と巡り合う。同じ配役が天と冥で手元にそろうこともあった。そうなると自然と明るい道か暗い道のどちらかを選ばねばならない。


 札の取捨選択は、それが暗示する運命の取捨選択だった。


「さっきの名前っぽいもの──あれは、なんなの?」ルゥが途中で訊く。

「名前の本質よ。名がそれを呼ぶときに秘められた言霊を、引き出すの」

「わかりにくいな」

「でしょうね。魔術の基本的な考え方は、まず〝呼びかける〟ことにある。何を呼ぶかは術者次第。でも、少なくとも呼びかけるには名前が必要なのよ。それ自体を指差し、みなの《記憶》からそれを呼び起こすための名前がね」

「………」

「名前はね、ひとつの忘れられた《記憶》なの。その音の細切れにはかつて意味が込められていた。どんな存在でも名前を呼ばれると自分のことだと思ってうっかり反応してしまうわ。世界のありとあらゆるものにはまず名前があって、それが呼ばれることによって初めて世界は反応するの。魔術というのはそうした呼びかけと反応によって生み出される単純かつ壮大な仕掛けなのよ」

「でも、ボクの名前はルートだ」

「それは少し違う。あなたは自分がどんな祈りを自分の名に込めてもらったのか、それすらも知らない。名前は意味もなく付けられて、意味もなく呼ばれている。それはただのモノやひとを呼ぶ音にすぎない」

「…………」

「わたしたち魔女は──魔女だけじゃないけど、そうした名前のなかに忘れられた言霊を探りあてることから魔術の練習をするの。名前を知らなければ《記憶》を呼び起こすことができない。そして《記憶》を呼び出せなければ、魔法は決して起こり得ない」


 ルゥは話を聞きながら、札を捨てる手を止めた。こんなのただのお遊びに過ぎないと思っていたが、妙に捨て難い札がある。風の〝魔女〟が二枚そろっているこの状況で、ルゥは天と冥のどちらを手放せばよいのか。


「長考ね」

「うるさい」


 ヴェラステラはしばらく黙っていた。かつて自分が辿った道を振り返るようなまなざしで、ルゥを見つめている。

 やがて、少年は恨みがましく口を開いた。


「母の──魔女エスタルーレのこと、あなたは知っていたんですよね」

「そうね」

「なぜ、最初に教えてくれなかったんですか」

「死んだも同然だと思っていたから」

「……ッ!」

「あれを〝生きている〟と言い切れる肝っ玉のほうがおかしいと思うわ。そうでしょ?」


 ルゥはうなずくにもうなずけない。行き場のない怒りだけがこみあげて、抑えきれずにヴェラステラにぶつけてやりたかった。


「あなたは、あの夜どう思ってボクに接していたんですか。〝あわれな、かわいそうなこども〟として下に見てたんですか」

「わたしはね、ざんねんお気の毒に、としか言えないようなことはわざわざ口にしない主義なのよ。魔術を使うものはみんなそう。自分が発する無責任な言霊がどんなふうにひとに希望を持たせたり、絶望させたりするのかを知りすぎるほど知り尽くしてる。ある意味これも親切心なのよ?」

「…………」ルゥの顔がかげる。

「でもうらやましいわ。わたしに〝母〟と呼べるひとはいない。いたとしてもそれは、決してわたしに温かい気持ちをもたらしてはくれなかった。〈真実の星ヴェル・アステル〉として紐づけられた本質も、振り返ってみれば呪いでしかないのよ」


 ルゥにはまだ、ヴェラステラの恨みがましいこのひと言の意味がわからなかった。


「ルゥ。あなたは、その点恵まれてると思うわよ。あなたはその名前に、まだエスタルーレの込めた祈りが生きている」

「それが、〈根源の申し子ルートルット〉……?」

「ええ。万物の知識にたどり着こうとする好奇心と、あきらめない探究心。それがあなたの名前の持つ意味」

「……」

「あなたはすでに魔術の道を選んでしまった。だから捨てる札を迷っているのは、ただそれを受け止めきれていないだけ。単に器の問題なのよ。でも、あなたはそれをするに足るだけの知識と知恵がある。ためらう理由はないはずよ」

「でも、ボクはまだこの選択に確信が持てない。本当にそれでいいのか、と考えてしまう」


 ヴェラステラはようやく本音を話してくれたルゥに、やさしく微笑んだ。


「わたしのエスタルーレの思い出を語りましょう。ほんの小さい頃、わたしはあなたを産む前のエスタルーレに面倒を見てもらったことがあるわ。なんなら、わたしの魔術の師はエスタルーレだった、ていってもいい」

「それ、ほんとう?」

「ええ。〈真実の星ヴェル・アステル〉の言うことが聞けないわけ?」


 ルゥはなんとなくうさんくさいものを見るような目でヴェラステラを見た。


「失敬ね。じゃあこの話やめるわ」

「……スミマセンデシタ」

「ふーん」

「すみませんでした!」

「はい、よろしい」


 と言っても、大したことは話せないわよ、とヴェラステラは言った。それでいいよ、とルゥはうなずく。

 ヴェラステラの記憶のなかにいる母の若かりし頃は、空に翼を広げる鳥のように活発で、水に潜んだ魚のように底が知れない。いたずら好きでよく構ってもらったこと、冒険心にあふれていて幼いころのヴェラステラとよく山野を歩いたこと、そしてそのくせやたらと物を見る目が鋭く、一瞥するだけで数々の本質を直観したこと──


「魔女エスタルーレは数ある魔術のなかでも、変身術の達人だった。それはね、ただ名前を知るだけでも無ければ、自分の持っている素質だけでもできる芸当じゃないの。自分の名前の本質から次々と連想して、なりたいもの、なりたいすがたかたちへと移りわたっていく──わたしはそれができなかった。わたしはそうするには、あまりに〝自分〟というものにこだわりすぎていた。

 生きているときの彼女はほんとうに自由だったわ。あらゆる鳥、けもの、魚のすがたすら取って自在に楽しんでいた。あこがれよ、はっきり言って。あんなふうに魔術が使えるなら、古代の魔法文明だってきっと素敵なものだったでしょう。そう思えるくらいに」

「でも、いまはもう、自由じゃない」


 ルゥの暗い応答に、ヴェラステラはうなずいた。


「ひとは生きている間は自由なのよ。何者にでもなれる。本当はそうじゃないかもしれないけど、それを確信するために魔法がある。でも、死ぬことからは決して逃げられない。もし苦しみから逃れたいのであれば、死を受け入れるしかないのよ」

「まるで、一度死んできたみたいな言い方だね」

「そうね。わたしはある意味一回死んだようなものだから」


 ヴェラステラはそう言って、やけどののこる一方の顔に触れた。


「ヴェラステラはなぜ、魔女になったの?」


 ルゥがうっかり口にした質問に、ヴェラステラは首を振った。


「それしかなかったからよ。それ以上も、それ以下もない。でも、これがわたしの生きる道で、生きるためにはわたしは魔女として戦わなければいけない」

「…………」

「たぶん、エスタルーレなら違う答えを持っていたでしょうね」

「そうかもしれません」

「それが、あなたが持っている〝取るべき選択〟なのよ」


 少年は黙ったまま、札を見た。捨てる札はもう決まっていた。その札に手をかけ、放り出す。そして次の番で引いた札で最後だった。かれはもう一度にらむように札を見つめ、ついに札を捨てた。

 最後に捨てた札の配役は、〝司祭〟だった。


「自分の運命は、決まった?」


 魔女の問いかけに、少年は静かに確信を持った面持ちでうなずいたのだった。

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