1ー13.戦いに備えて

 時はさかのぼって──再誕暦八〇〇年の穫入かりいれ月第二週の末のことであった。

 リナがメリッサ村に帰りついたそのときと、全く同じ頃のことである。


 シュヴィリエールはタリム城館にいた。


 あのとき解散を命じられたはずの従士候補たちは、ただひとり例外を除いておのおのふるさとに戻っていった。しかし彼らが三々五々と去り行くなか、ひとりだけ空気を読んだかのように大広間に居座り続けていた。

 それを見とがめるがごとく、モレド・カヴァーナとイリエ・シュヴァンクマイエルはたたずみ、機を見計らって声をかけた。


「さて、もうわかってくれたと思うが。われわれはあなたに助力を乞いたい」


 モレドがくやしそうに言った。

 シュヴィリエールは無表情で、ふたりの前に立った。無言である。


「……はっきり言うが、きみは特例でもう合格したものと見なしている。競技に参加してもらったのは、ただほかの参加者に対して示しをつける以外に理由はない。公平性という示しを、だ。本音を言うと、われわれは──少なくともフェール辺境伯はあなたの騎士団入りを歓迎している」


 まるで自分はそう思ってないと言いたげであった。


「しかし試練は残っております」

「そんなことはもう良い。きみだから言うが、〈勇気の試練〉など、血統の加護を受けているきみならそよ風に耐えるように容易いものでしかない。最初から不戦勝も同然なのだよ」

「…………」

「それでも不服というのかね?」

「いえ、わたしはただ、特例はよくないのではと──」

「何が〝特別扱いは〟だ。特別な存在が周りと同じように扱われていること自体がすでに〝特別扱い〟なのだ。そこのところ、勘違いするんじゃないぞ」


 モレドは農村部の出身で、人事には人一倍苦労している。そのなかで実績も名声もあふれているくせに「実力を試しにきた」という青二才が、腹立たしくて仕方なかった。

 いきなり激怒に転じたモレドを、イリエが「まあまあ」と割って入る。


「シュヴィリエール殿。われわれは〈試練〉を〝即戦力として教えるべき相手か否か〟の判断基準として用いてます。あなたのような人間はこの基準からすれば最初から何も計る必要のない存在なのですよ。それをみなと同じと潔癖に構えられてはこちらもたまりません。どうかわかってもらえませんかね」


 貴公子は、まだこちらのほうが話ができると態度が示していた。


「いえ。たとえそうであっても、〈エル・シエラの惨劇〉で名誉を失ったいま、わたしとしては示さねばならぬものがあるのです」

「それは──」

「父が失ったものは、あなたがたが想像しているよりもはるかに大きいのですよ」


 シュヴィリエールはさびしく微笑んだ。その顔に大人ふたりは気された。

 モレドは咳ばらいをする。まるで恥ずかしいものを見られたような心地だった。


「失礼した。われわれも大人げなくみっともない態度を示してしまった。だが、事情は察してもらいたい。血統の加護を持ち、聖遺物を継承した英雄家の戦士は、たとえ若年とはいえ戦力としても有望なのだ」

「ええ。存じております」


 わかった上でこの態度は崩さない、と言いたげでもある。


「なら、これはどうだろう。これこそが貴殿の〈勇気の試練〉である、と。ここで退くことは貴殿のほこりが赦しはすまい。そのうえで戦果を勝ち取ること──この実績を前には、いかなる誹謗そしりも斥けうる」

「…………」

「これでなお辞退するようなら、いずれフェール辺境伯みずから説得のために足を運ぶことになるだろうな」

「わかりました。そこまで言うなら──」


 それから六刻、さらに時間が経っていた。


「本日日暮れごろに辺境伯が入城する。そのときにすぐ出れるように支度しておくんだ」


 そう言われてからも六刻経っていた。


 すでに装いは鎧具足をまとっていて、孤高のひとりといったたたずまいである。

 長い時間だった。獣舎で自分のけものを世話し、佩剣はいけんと武具の調整をする。身体はすでに慣らしていたが、これから生き死にのある場所に赴くわけだから、自然と異なる緊張が身を固くする。それをほぐして、剣を幾度となく振って調整する。だいぶ万全だと言って良かった。


 ただ、シュヴィリエールの心はいまだに重かった。


(みなが期待しているようなものは、わたしには何もない──)


 かつて〈エル・シエラの惨劇〉で父クナリエールの訃報があったとき、シュヴィリエールはまだ二つか三つの年ごろ。もちろん悲しくはあったものの、実感すらなかった。

 彼女にとって父の不在を強く感じたのは、それよりずっと後──物心がつき、中央の社交界にあいさつするようになってからだ。何よりも周囲の好奇の目線があり、母が厳しく体面を気にしていた。シュヴィリエールを教えた家庭教師も厳しく、「決して失態は許されません」と教えさとされた。


 その理由は、彼女が世間というものを体験したときに十二分にわからされた。


「この子供がアスケイロンの子息か」


 無数の目が、口が、耳が、シュヴィリエールを試していた。品定めしていた。その興味の向け方はさながら醜聞を見聞きするときのそれによく似ていた。あの〈惨劇〉のあとで出てきた子供──事件もつゆ知らず、家督を継ぐべくがんばっている子供。そんな見出しがシュヴィリエールという人間についてまわり、ゆくゆくは彼女自身の耳にも伝わった。

 痛かったのは、英雄家が継承している唯一無二の聖遺物が失われたことだった。


 聖剣アンスラード。


 〈声に応えるもの〉という本質を宿したその武具は、握った使い手の内なる声に応じて邪悪を切り裂くとする退魔の剣──その名は『神聖叙事詩』とともにあり、〈聖なる乙女〉より直接女神の加護を与えられた神聖なる剣でもある。その刀身は魔法で鍛えられ、不滅の呪文が刻印されていると言われた。ただの伝説ではない。いにしえの竜の腹を、鋼より硬い鱗を丸ごと貫いている。それほどの名剣でもあったのだ。

 英雄アスケイロンは、この剣を〝借り受けた〟ことになっている。すなわちこの名だたる聖遺物の所有権はいまなお王家にある、ということだった。それがかの〈惨劇〉のさなかにクナリエールの命とともに散った。当の騎士がそれを携えて任務に出た以上、その遺体ごと行方知れずとなったのだ。それがために王家の怒りが甚だしく、アスケイロン家の領土が思い切り減らされたのだった。単に領主たちへのけん制とも言いきれない。まごうことなき大失態なのだからと領国の主人あるじもみな逆らうことができなかった。


 この経緯をようやく知ったシュヴィリエールは驚くとともに失意に沈んだ。それと同時になぜそのような武具をいて出陣せねばならなかったのか、理解に苦しんだ。

 何か、ある。その確信は、シュヴィリエールをひたすら言葉を少なくし、無数の苦労を耐える糧になった。聖遺物を持たない英雄家は、確かにそれでも他家よりも秀でた加護を受けてはいたものの、しょせんは実力で劣れば代えの効く存在でしかない。そうなればシュヴィリエールはひたすら努力するしか道を持たなかった。


 努力、努力。努力──そのゆく末に待っていたのが、〝しょせんお前は英雄家だ〟という周囲のさげすむ目つきである。やりきれないうえに、その実態を持たない名望だけが彼女をゆっくり押しつぶそうとする。


(聖剣がないことはしかるべき筋には周知の事実だ。とはいえ前線のつわものにはそのことは知られていない。おそらくフェール辺境伯ならご存知のはずだが)


 それでも、ということなら、やはりあの辺境伯は食わせ者ということになる。


(わたしをダシにしようという算段なら、それも仕方あるまいな)


 時間だった。シュヴィリエールはまだ少し早いことを承知で、大広間を出て、獣舎へと向かう。そこに繋いでいた黒いヒトツノシシの漆黒の毛並みを撫でながら、〈黒風〉とその名を呼びつける。


「いちはやい初陣となった。たのむぞ」


 けものに触れるとき、彼女はすなおになれた。それはきっと、まだこれからもしばらくは変わることがないのかもしれない。

 鎧具足を着てもなお、軽い身のこなしで彼女は〈黒風〉の背にまたがった。ゆっくりと獣舎を出る。そこに待ち構えていたように、金髪の騎士がひざまずいていた。


「エレヴァン」かれの名を呼ぶ。


 男はうやうやしく顔を上げた。


「わたしは嬉しく存じます、シュヴィリエール様。ついに初陣ですからね」

「おまえには苦労を掛けた。かつてアスケイロン付きの騎士だった、おまえには」

「とんでもございません。それはあなた様の受けた仕打ちに比べれば、そよ風のようなものです」

「そよ風、か」


 はたして加護を受けたものには、〈勇気の試練〉はそよ風にも等しいのだろうか。

 シュヴィリエールの内心の問いは、それこそ大気の渦のなかに溶けて散った。


 角笛が鳴り響く。西の門から城市の街路を通って、ゆっくりと近づいてくる。


「ゆこう。辺境伯みずからのお越しだという。あいさつしてこようじゃないか」


 シュヴィリエールは微笑した。内心の苦しい想いを、なかったことにしながら。



     †



 東方三領国を一手に統べる辺境伯オイリゲン・フェーガスは、よわい四十六と壮年の貫禄を身に帯びながらも、若者に勝るとも劣らない頑健なたたずまいを見せていた。広い肩幅に堂々たる甲冑外套すがた。それに亜麻色の長髪にたくわえた口ひげは、モレドのひげ面が単に男らしさを示す無精ひげとするなら、フェール辺境伯のそれは魅力をあえて押し隠すがごとき端麗な整えぶりだった。

 しかしこの見せつけるような容姿も、付き従う軍団の兵士つわものにとってはいささか不満の種だった。「あれさえなければ」とわらいぎみに言われる始末なのだ。それを耳にした辺境伯は「それを言うな」と苦笑いし、「中央ではこのくらいキザでなければ言葉すら交わしてもらえんのだよ」と言い訳をする。


 ただ、逆を言えばそれほど臣民たみくさとのあいだに気を置かない、親近感を持つ魅力があふれていたのだった。


 シュヴィリエールが〈黒風〉の背に乗ってたどり着いた陣営には、すでにモレドやイリエをはじめ五百の手勢が集結しつつある。穫り入れの時季があるためすぐさま軍団を引き連れて、というわけにはいかないが、すでに〝はての壁〟に常駐している守備兵三百と合流すれば、砦を守るには万全だった。

 辺境伯が独自に考案した光と煙を駆使した連絡網によると、シルベールの遠征軍は四五〇〇の大軍だった。おそらくそのうちの幾ばくかは後方からの補給と連絡を担っているはずだった。つまり実戦に出てくるものはより少ない見立てである。一般的に城砦を崩すのに、その守備兵の三倍から十倍強の戦力を見積もるものだから、彼らの本気は目にも見えて明らかだった。


 ならば、こちらからも撃って出なければ、この状況は容易には動かない。


 だが戦力不足は明白だった。おそらく穫り入れの時季でなくとも、ふだんから訓練していた軍団を一斉に寄せ集めてせいぜい二千が限界といったところなのだ。緊急事態のいま、集まってその半分が上限──形勢不利には変わりない。平地に出ての戦さは、あまり優位とは言い難かった。

 そんなことはシュヴィリエールにも分かりきったことだった。だからこそそのような場に英雄家の駒を並べてどうするつもりなのか、きっちり説明してもらわねばならない。


「やあ、やあ。よくぞ来てくだすった、シュヴィリエール殿!」


 タリム郊外の天幕で、連絡員から話を聞いていたフェール辺境伯は、シュヴィリエールの到来とともに座を立った。その発声は不用心なようでいて計算されていた。自分の名をはっきりと言うことで、兵士たちにも英雄家の存在を明示する。してやられた、と思った。これで退くに退けぬ。

 案の定、天幕の内外でシュヴィリエールへの視線が交差しうわさが流れる。そんなもの虫の羽音と言わんばかりに気さくに無視してオイリゲン・フェーガスは近寄って握手を求めた。


「よくぞ、わたしの要請を受けてくださりましたなあ。領国盟主会議ランドスラードに身を置くものとして、望外な喜びです」

「どうも。こちらこそ叙事詩圏の一大事に貢献できて光栄ですよ」

「ご謙遜を。しかし、ご立派になられた。御父君が見られたら喜んだことでしょう」


 シュヴィリエールは微笑していた。

 フェール辺境伯はそのまま平気な面持ちで彼女を自分の隣りに座らせた。辺境伯は今回、自軍の指揮として戦略を考える立場である。その隣りで席を座らせると言うことは、自分と同じ目線でものごとを見て語れ、と言っているようなものだった。


 シュヴィリエールは本気か、という顔を見せた。だがフェール辺境伯はびくともしない。まるでそこにいるのが当たり前だと確信しているような振る舞い──


「さて。つづけよ」


 連絡員はちらとシュヴィリエールを見たが、辺境伯の言は絶対だった。おまけに決して無思慮ではない。報告を続けた。


 わかっているのは、〝はての壁〟の守備兵はちゃんとやっているということだ。

 もともと圏外の調査や敵の斥候には目を光らせていた手前、決して三百の鍛錬には手抜かりはない。ただ、それでも仕様のない多勢に無勢である。雲海山脈のうちもっとも通りやすいとうげという立地が、四五〇〇の兵を窮屈きゅうくつなものにしていた。山と山に挟まれた道では、どんなに緻密ちみつに並べても正面に五百と置くことがかなわない。そこに城壁があり、弓兵がおり、支度していた投石があった。


 外世界からの敵を跳ね退ける〝壁〟の異名はただならず、到来した兵士が掛けた梯子も、なかなか届こうとしない。弓矢に掛けてはなおさらで、序盤はかなり皇国軍が苦しい戦いぶりを見せていた。ただ、いくら正面が五百と制約を受けるにせよ、総勢は四五〇〇の人員である。波状攻撃のように撃って出ては交代し、繰り返し生き生きとした軍勢が砦を押し寄せていた。

 度重なる攻撃に、休む間もない守備兵たちは次第に疲れを溜めてきた。だがそれは敵も同じだった。二日間、激しい岩と矢が飛び交い、梯子が立って地を落ちた。攻城兵器も動いていたが、あまり歯が立たなかった。不眠不休の戦いが続いていた。ただ、それが今日このごろは弱くなってきている。


「罠だな」


 フェール辺境伯はひと言で切って捨てた。


「動くな、と隊長には伝えろ。とは言ってもダングレンのことだからうぬぼれはしないはずだが、念の為そう伝達するようにな」

「はっ」


 連絡員が天幕を去ると、辺境伯はおもしろそうな面持ちでシュヴィリエールを見た。


「どう思うね?」

「わたしも同じく、罠だと思います。数で争い、負け越したように見せて城から兵力を誘き出す──平地で戦えば数の多いほうが有利です。この戦い、どちらが双方にとって有利な場所を執るかで勝ちが決まるものかと」

「非常に王道な物の見方をする。たいへんよろしい。だが、盤面は必ずしもネステル峠だけとは限らんぞ」


 俗に〝世界のはての壁〟と呼ばれる砦の正式名称は、ネステル砦という。それは雲海山脈の峠の名前でもあった。


「というと?」

「あまりにも教本的な、お粗末な戦い方だろう。戦場は絶えず文字が揺れ動く気味の悪い書物と同じなのだ。きのう読んだ言葉がきのう読んだ意味と同じとは限らない。そして定石があるからこそ、必ず搦手からめてからの一撃を考えなければならない」

「…………」

「さて。〝はての壁〟に搦手があるならどこにあるだろうかね」


 シュヴィリエールは沈思黙考した。その間辺境伯は鼻歌まじりに地図を広げた。


「雑破な地図だがな、いちおう地勢はよく捉えている。口外無用の秘密ものだよ。こんなもの盗まれた日には皇国軍に負けちまうだろうな。さて、答えはどうだ?」

「わかりかねます。峠を攻めるなら、周りの山を登るしかないのではないでしょうか」

「ははっ、愉快だな。だが悪くないぞ」


 言いながら、木に色を塗っただけの駒をひたすら並べていく。〝はての壁〟に三百余の軍団が、四五〇〇の敵兵が押し合いへし合いし、そこから叙事詩圏へずっと進んでいくと街道を通じて自分たちがいる。

 北には紆余うよ曲折した道の先にメリッサ村があり、それ以外には特にこれといった集落はない。いまタリムにいる兵力も、一気に街道を進めば一日半でたどり着くだろう。そのための道である。ふつうは二日三日掛かる道を急いでけものを走らせて、そうなのだった。


「まさかすでに圏内に敵が潜んでいるとでも言いたいのでしょうか?」

「そうだ。そういうところまで考えて、初めて戦術や戦略を考える甲斐がある」

「でも、どうやって?」

「それはおいおい調べねばならん。われわれの使命は、〝最も最悪な状況〟を見つけることだ。たいていの指揮官はこれができない。必ずどこかで『流石にそれはないだろう』と臆断を働かす。そいつがいかん」


 フェール辺境伯はちらっとシュヴィリエールを見た。


「わたしはこの程度まできちんとものを考えられる人間にしか指揮を教えない。きみならそれができると判断した。その期待には応えてもらわねばな」

「……はい」

「だいじなのだよ。考えを共有するのは口先ほど簡単なことではないのだ。たまたまわたしの教えた配下の騎士は優秀に育ってくれたが、あくまでわたしの手足として働くことで優秀なだけなのだ。それがほこりになるものもいる。幾分学ぶものもあるだろう。しかしそれは決して本人の能力ではない」


 シュヴィリエールはハッとしてフェール辺境伯を見た。だが、当の本人はイタズラっぽく笑うだけだ。


「人の上に立つものとしては、なかなか破れかぶれなことを言うだろう? だから秘密にしておいてくれないか」


 シュヴィリエールはすっかり降参していた。この人柄、このあけすけな態度の前には、すっかり自分というものを預けなければ割に合わない。


「それで、伯はいかがお考えですか」

「そいつがな。なかなか難しいのだ」


 整えた口ひげをなにとはなくいじりながら、辺境伯は物思いにふけった。


「今言ったとおり、最悪な状況はすでに圏内に敵が入ってきているということだ。もしそうではないとしたら、圏外で攻めてきている奴らがあんなに呑気にやってくるわけがない。数が油断ならないだけで、その割には必死さというものがまるでないのだよ。もし本気で落とすなら、山を登るなり、奇襲を掛けるなり、やったっていい。そうじゃないってことは、それが単なるだってことだろう」

「たしかに」

「こういうことを話すとな、モレドあたりには〝しかし四五〇〇のおとりなんて考えられません〟という。ざんねんながら、あいつはそこまでなんだ。だが、幸運なことにきみは違う」

「…………」

「失礼。騎士をばかにしてるわけじゃないんだ。さて、本命だ。こいつらをおとりにしてみると、わたしたちは何がなんでもと兵力をかき集めて〝はての壁〟へと駆け込む図がかんたんに思い描ける。それが奴らの思う壺だとしたら?」

「すべては仮定にすぎませんが、もしシルベールの軍勢が圏内にひそんでいるなら、われわれはタリムを出て砦に着くほんの手前のあたりで奇襲を受けることになるでしょう」

「そこだ! そうなんだよ!」


 オイリゲン・フェーガスは地図の上に新たな駒を置いた。雲海山脈の南の峰、ネステル峠の手前で森と渓谷が広がる地形に。


「隠れるとしたら、ここが最適な場所だろうな。数は──この地形なら多くて六百ぐらいか。背後からおそわれたら、われわれじゃ太刀打ちできない。それぐらいの規模感だ」

「でも、仮にそうだとしても、方法がわかりません」

「たしかにな。だが、それを裏付けるひとつ気になる情報があってな」

「はい」

「クリスタル・ハミルトンが、メリッサ村に行ったきり帰ってこんのだ」

「……ッ!」


 シュヴィリエールは立ち上がった。


「そうだよ。エレヴァンが教えてくれた。例の騒動をめぐって、モレドがふたつの方面に騎士を遣わせた。その判断は悪くなかった。だが状況が変わったいまとなってはいろいろ惜しい。ただ、無意味ではなかった。彼女が帰ってこないということは、間違いなく何かがあったということだ。そしてシルベールの軍勢が折よく攻めてきたいま、符牒が合いすぎているとは思わんかね?」

「つまり、奴らはなんらかの方法でメリッサ村に侵入し、そのまま影に隠れて道なき道を南下している、と」

「そう考えて悪い理由がいまのところない。クリスタルは優秀な部下だ。それが知らせひとつ寄越せないというのは、最悪の事態を考えねばならんだろうな」


 シュヴィリエールは戦さというものの非情さと、フェール辺境伯の思慮深さのふたつに同時に驚き、慄いた。


「しかしざんねんだな。メリッサ村と言えば、きみと組み手をしたという娘もそこにいたのではなかったのかね」

「……はて。アデリナのことですか」

「そうだよ。彼女はどうしたんだろうか」

「おそらく村に帰った、かと」


 言い終わる前にシュヴィリエールはその先にある運命を見てとった。

 フェール辺境伯は苦笑いした。


「まさか村がおそわれてるさなかに帰ったわけじゃあるまい。とすれば、タリムに戻ってくるか、なんなりしているだろう。だがそうだとしても──フム。あの娘、農村の生まれなのになぜゆえか剣術と体術に秀でていたというが、まさかな」

「……どういう意味ですか?」

「いや、なんてことのない話なんだが、彼女の父だというとやら、ちょうどうまい時期にいなくなったものだと思わないか?」


 シュヴィリエールはその疑問に対してまともな答えを出すことができなかった。まさかな、とフェール辺境伯はもう一度言った。

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