1ー10.風の向かう場所

 また、夢を見ていた。少女はまだ幼いままで、つぶらな瞳が世界を映している。

 しかしこの夢の始まりは花のかおりで始まっていた。甘やかで馥郁ふくいくたる香りが、鼻に奥行きを示すかのように少女の知覚を押し広げ、ひとつの空間をつくったのだった。


 少女はその、まっただなかに立っている。

 金髪のくせっ毛が風にそよいだ。


 見上げるとあの樹が立っている。天空にヒビでも入れたかのように、枝葉を伸ばして青空を阻んでいる。

 そして、あの女が立っている。黒い髪、青い──そのまなざしがもたらす温かさや、風がたなびかせている黒髪に、リナは一瞬、みずからのふたごの弟のことを連想させた。


〝リナ、リナ〟


 女がとてもかなしげで、ひっ迫した声で語りかけている。


〝もう来てしまう。来てほしくはなかったけど、ついにその時が来てしまう。あの人は行動を起こしてしまいました。もうだれにも止められない──〟


 少女は見上げた。目と目が合う。それで、ようやくリナは女がだれかを理解した。

 話そうとした。しかしその言葉は泡となって吹き出すだけだった。女は首を振る。ここはそういう場所なのだと言わんばかりに。


〝もう、それ以上はいいの。気持ちだけでも、わかってくれただけでもうれしいから。でもわたしは、もうには行けない。戻ることができない。二度とあなたたちを抱きしめることもできない〟


 どうして、とリナは言いたかった。どうして、どうして。


〝いまは説明している時間がないの。あなたは自分で運命を選んだ。その道はとても険しくて辛い道かもしれない。でも、選ばなかった側の道だって楽だとは限らない。あなたにとって最善の道はだれにだって選ぶことができないの。だから……〟


 ──《鍵》は、あなたのなかにある。


 その後に続く言葉を聞いて、リナはうなずいた。大丈夫、わかった。わかったから……


〝だから、その時が来たら迷わず──〟


 風が吹いた。女のすがたは散りゆく花片のしぶきとして、端の影からめくれあがった。徐々に、徐々に……消えていく。

 待ってくれ──リナは必死に叫ぶ。手を伸ばす。しかしまるで水中にいるみたいに、動きは緩慢で、口からは泡しかあふれ出ない。


 言葉に、ならない。


〝ルゥをおねがいね〟


 最後に聞いた言葉は、それっきりだった。


「か──」手を中空に伸ばし、目覚めた。


 手は虚無をつかんでいる。にぎったはずの手のひらを返して、開いてみると、やはりそこには何もない。しかしなにかをつかんだという感触だけが残っていた。なんだろう。まるで金属の重みを持った柄のような──


「ちきしょう、なんだってんだよ」


 もう一回にぎりしめた。

 そのこぶしをベッドの上で、抱きかかえるように胸に仕舞った。さながらいましがたつかみ損なったはずのものが、そこにあったはずだと確認するかのように。


 しばらくそうしていると、ヒヨリミスズメの鳴き声がのどかに聞こえてきた。

 それで彼女は我に返った。振り向くと、いままで自分が触れたこともないようなふかふかのベッドで寝ていたことがわかる。部屋も簡素とはいえ壁掛けと絨毯じゅうたんが敷いてあり、夜もすがら雲の上にいたんじゃないかと、そう思いたくなるほどであった。


 のどはすっかりカラカラだった。リナはそのまま近くの水差しから、一気に水を飲み干した。ふーっとため息を吐くと、部屋の窓から外を見る。筋肉痛がそこかしこで身体を強張らせていたが、いま動けと言われてもとりあえずは動ける。そういう具合に自分の身体はほぐしておいた。


(結局〈勇気の試練〉は今日になったんだったよな)


 色々あった。村でのやんちゃ盛りの日々、ヘルマン司祭に勝手に騎士に推薦されていたことでねていた日々、それでもやると決めて頑張った日々……

 だが、リナには不可解なことがあった。


(アタシたちの父さんって、ほんとうにって言うんだよな? そんな名前だったっけな)


 リナの漠然した記憶のなかでは、父はもっと違う名前であったような気がしている。しかし思い出せない。いつも「父さん」と呼んでばかりいた。ときどき剣の稽古けいこをしたし、父さんの〝知り合い〟にもきたえてもらったような気もする。でもまちがいないのは、「父さん」はリナと同じ髪の色で、似たようなくしゃくしゃの髪だった。それだけ。

 もともとリナは記憶力が良いほうではない。聖典なんて英雄物語以外はすっからかんだし、読み書きよりも身体を動かすほうが性に合っていた。畑の力仕事もやっていた。でも繰り返し作業が得意じゃなかったからすぐに飽きてしまった。だから従士試験なのか、と最初はあきれてすらもいた。


 の娘。その言葉にはふたつの言い知れぬ不愉快さがあった。


(でもみんな探してるっていうし、アタシたちの家はの家っていうことだったから、たぶんそうなんだろうなあ)


 なんだか釈然しゃくぜんとしない。そのままベッドを降りて、身支度を整えると、しぶるように大広間へと向かった。


 従士試験の現時点での突破者は合計八人。その全員が〝客人〟として城館の一室を割り当てられ一晩やすむことを許された。これは特別処置だった。もともと一晩で終わる予定だったものが、さまざまな事情が重なって先送りになった背景が関係している。

 大広間に向かうと、すでに何人かの合格者が座って待機していた。食事をするものもいた。リナは侍従に導かれるまま、席につき、なんとなくで朝食にする。


 関係者はいない。ただ、従士候補の若者たちだけ──


(うわ。こいつらカリカリしてんな)


 他人ごとのように、そう思った。


 朝食として差し出されたのは、サトムギのパンにこんがり焼けた骨付きのシシ肉だった。香料が振ってあるのか、独特な香ばしさをまとっていて、噛んだとたんに脂とともに口のなかで爆ぜた。ふだん農村では年に二、三度ありつけるかどうかのぜいたくが、いま彼女の舌の上で踊り狂っていた。そのまま頬張る白いパンは、脂を吸って腹に溜まる。リナはともすれば食べすぎてしまうのではないかと心配になる程がっついて、ほかの少年たちから白い目で見られていた。

 最後に脂の付いた指をぺろっと舐めると、心ゆくまで満足したと言いたげにいすに深くもたれた。頭を逆さまにする。そこにひとりがツカツカと歩み寄って、逆さまに広間を見るリナの目線と交差した。女だった。リナよりも二つ三つ、歳上だろうか。


「あなた、こういうの初めて?」

「あ、うん」

「すごいわね。わたし、緊張で朝ごはんすっかりのどを通らなかったの」

「え。もったいない」

「もったいない?」

「こんなに肉食べられるの、めったにないんだぜ?」


 女は目を点にして、それから爆笑した。その笑い声があまりに大きすぎて、さらに少年たちからひんしゅくを買った。


「あー、ごめんごめん。まさかそんなノンキな返事が来るなんて、思ってもみなかった」

「なんだよ。腹が減ったらなんにもできねーじゃんかよ」

「まあ、そうだけどね」


 振り返り、あらためてリナは女を真正面に見た。女は背丈がリナよりも圧倒的に高く、焦げた茶色にも似た深い明るみを髪にたたえていた。くせ毛ではないが、軽く髪が波打って、シノビヤマネコのような、くりっとした黒い瞳が際立った。

 彼女はリナに、手を差しのべた。


「ニース。フェストルド家のニースよ。よろしくね。メリッサ村のアデリナ」

「よ、よろしく」握手する。

「あなたってば、すっかりわたしたち同期のあいだでは有名人よ。なんたってアスケイロンの御曹子と技を競ったんですからね」

「いや、別にそれはたまたまだろ」

「ああいう試練はね。直前の試練である程度実力見てからやるのよ。あーん、いいなあ。わたしも御曹子と手合わせしてみたかった」


 ニースはそう言って、大げさに両手をにぎって祈るようなしぐさをした。

 そこに、狙ってすましたかのように、「これだから女ってヤツは」とぼそっと言う声がかすかに聞こえた。リナは耳ざとくこれをとらえたが、ニースは知ってか知らずか、なおもリナに話をせがむ。「やっぱり御曹子に勝つ気だったの?」とか「最初に選ばれて緊張したの?」とか、とにかく質問攻めだ。そのたびにリナは要領を得ないまま、勘で「まあいちおうは」とか「緊張する暇もなかったよ」とか、おざなりに答えてすらいた。


「そういえば、あいつは……?」


 うわさをすれば影がある。大広間に入ってきた最後の八人目が、いつでも出動できる軽装に身を包んでゆっくり歩いてきた。

 変わらない輝くような金髪と、翠の瞳がだれともなくとらえないまま、少年の如き風貌をまとって凛とした存在感を際立たせる。


 とたんに空気が張り詰めた。


 全員が、シュヴィリエールのほうを見ていた。リナはなんとなく、ニースは興味津々に、それからいくつか嫉妬なのか敵意のようなまなざしすら混じっていた。当の本人はそれをまるでそよ風のように受け流している。リナはその強さのなかに、ほんのちょっとだけ背伸びしている危うさすら感じ取った。

 立った。それからシュヴィリエールの進路を阻む。


「よっ」と手をあげて、悪意がないことを示してみる。


 しかしシュヴィリエールは言葉を発さず、口の端にかすかな笑みを浮かべてこれを無視した。さっそうと隣りを通り過ぎ、そのまま自身の朝食に取りかかった。リナほど豪胆ではなかったが、この場には似つかわしくないほどしっかりと食べていた。

 ニースはそれを見て、こそっと「やっぱり実力者ってちがうのね」とつぶやく。


 その後は全員の食事が済むまで、特に何事も大きな事件はなかった。少年たちは少年たちで盛り上がり、リナはときどきニースと喋った。シュヴィリエールはただひとりで瞑想にふけっているかのように微動だにしない。そのうちリナは飽きてきて、少年たちの集まりにも近づいて話だけ聞いていた。彼らはリナに気づくと、「きのうは凄かったな」と言って輪に連れ込んだ。

 少年五人はそれぞれ、シュテルンバルド家のティーク、コルレーン家のサムスン、オースン村のゴウラ、ネルボレン郷のイーサン、そしてタリム市民大工の息子レンウッドと名乗った。彼らはリナには敵意はないようだった。むしろアスケイロンと〈技の試練〉を競い合った、予想外の実力者として認めるまなざしで迎えていた。


(ニースがうわさしてたんだから、当然といえば当然だけど)


 しかし、少年たちも熱心にリナに詰め寄ったのでびっくりした。

 特に聞かれたのは剣術・体術・身体能力である。彼らの自分語りを交えた話を聞いていると、小領主の息子でそこで鍛錬を積んだもの、地主の三男坊で土地が継げないことを理由に家出してきたもの、家庭の事情で一度軍団入りをし二年間の訓練をした上で推薦されてきたものなど、来歴が豊かだった。


「へー、騎士になる道ってそんなたくさんあるんだな」とリナ。

「ばっきゃろう。おまえみたいに現地付きの司祭が推薦するなんてめったにないんだぞ」ティークがあざけるように笑った。

「ま、農村にいるとわかんないですよ。ぼくも軍団入りするまで、この道があるなんて知りもしなかった」


 イーサンが苦笑していた。


「その点、城市まちにいると公示人がいつも〝あんたも騎士にならんか?〟て訊いてくる。いやでも耳に入るね」


 レンウッドが茶々を入れて、すっかり話題は七転八倒した。

 彼らはリナにびゅうびゅう吹き荒れる風のように、たくさんのことを話し合った。しかしリナは次から次に口にしているうちに、さっきなにを話したかを忘れてしまっていた。


「アスケイロン家もさ、むかしは凄かったんだけど、先代が敗死しなけりゃな」


 ただ、これだけははっきり耳に残った。


「敗死?」

「えっ、知らないのか」


 ティークはすぐさま騎士の世界に衝撃をもたらした〈エル・シエラの惨劇〉の話をした。リナは詳しくなかったが、この事件によってアスケイロン家が領地を減らされ、たいへん厳しい財政状況にあることをいまさらのように知ったのだった。


(そうか、それで……)


 シュヴィリエールの〝復讐〟の意味を、ようやく理解できた。

 だがいっぽうで、そこで初めて聞いたノエリク・ガルドという名前にも引っかかりがあった。


(なんか聞いたことがあるような)


 あれはなんだったっけ……確か里山で剣の練習をしていたとき──男がふたりいた──ふたりとも木剣を持って、リナと手合わせしている。そのあとの休憩時間中、ふたりが言い合っているのをこっそり聞いた。「だから言ったろう、反対だって」と言っていた。「それでもやりたいと言ってる。それでいいじゃないか、ノエリク」「その名前で呼ぶんじゃない」──


 


「まあ、大きな声じゃ言えないけど、叛逆はんぎゃく者ノエリクは、いまや叙事詩圏で一番凄腕の戦士ってことになっちゃったからな。アスケイロン家はそれで強さへの信頼を一気に失くして、それで王家の怒りもすごかったんだと」

「へええ」

「反応うっす」

「アタシはそういうの、よくわかんねーかんな」

「はー、あきれた。さすがに辺境のさいはての生まれだわ」

「ばかにしてんのか」


 リナが肘でこづくと、ティークは「わー、お見それしましたあ」と笑った。リナはリナでいたずらっぽく笑って、「ちきしょう、なんだってんだよ」と受け答える。


 そうこうしているうちに、また時間が経っていった。


「ていうか、遅いな」


 コルレーン家のサムスンがしびれを切らしてこぼした。それまであまり会話に参加せずに緊張が抜けきらない面持ちだったが、いよいよ我慢ができなくなったようだった。


「昨年受けたときはもっと早かったはずだ。なんかあるのか?」

「そりゃあ、あるだろ」とティークは意味ありげにシュヴィリエールを見た。

「なあなあ、〈勇気の試練〉って何すんだ?」


 リナは空気を読まずに尋ねる。サムスンは首を振った。


「おれ、去年は〈技の試練〉で落とされたから、知らないんだ」

「ちぇっ」とリナ。

「まあ、あったとしても」とオースン村のゴウラが、重々しく口を開いた。「試練の中身は──特に〈勇気の試練〉は毎回違うって話らしい。高い塔から足に紐だけ巻いて飛び降りるとか、暗い森に夜出かけて帰るとか、なんかそういううわさだけなら聞かされた」

「うわさはうわさじゃん」

「そうだね。だから開けてみてのお楽しみ、てところだ」


 そんな話をしていたときのことだった。


 出し抜けに、大広間に向かって鎧具足をまとった騎士たちが駆け込んできた。

 モレド・カヴァーナにイリエ・シュヴァンクマイエル、この両名が横に並ぶとひげ面と痩せ顔がおかしみを込めた対照性を持つ。しかしいまはそれすら笑える空気ではなかった。かれらふたりの顔は強張り、緊張に固まっている。何かある。みなそう思った。


 八人の従士候補生を前に、騎士は言った。


「〈試練〉は中止だ」


 沈黙。

 なぜ、と言わないだけの理性はあった。


「いずれわかることだが、端的に説明しよう。〝はての壁〟の砦に、シルベール皇国の軍勢が急襲を掛けたという報せが入った」

「え?」


 だれかの口からもれた疑問符が、大広間一帯を覆っていく。


 シルベール皇国は、叙事詩圏外のうち、北東に位置する異教徒の帝国のことである。永久凍土の魔境の地──その地に広大な城塞都市を林立させ、女神の教えとも無縁の神を信奉するひとびとが生きている。

 過去に何度も〝世界のはての壁〟が阻止してきた圏外からの攻撃が、よもやというときに発生したというのだった。


「先ほど砦のものから狼煙で連絡があり、街道警備中の第七軍団が急行している。われわれもただちに向かわねばならない都合、本日予定していた〈勇気の試練〉は後日行なうものとする」


 沈黙──否。

 手が挙がった。


「つまり、もう帰れ、と?」

「その通りだ。話が早くて助かるよ、ティーク・シュテルンバルドくん」

「…………」

「質問がない場合はこれで終わりとする。しばらくの期間は〝はての壁〟の処置に追われるため、再開はこちらから連絡する。よろしいか」


 沈黙──是。


 というわけで、リナは急に昼日中の城市まちただなかに放り出されたのだった。

 ガーランドとノイスがやってきて、何があったのかを訊いてきた。いましがた言われたことを繰り返すと、ふたりとも渋い、複雑な面持ちでたがいに見合っていた。


「どうする? 合否もわからんまま、戻るなんてヘルマン司祭にどう伝えるんだ?」

「事実をありのまま伝えればよろしいでしょう。それよりも、シルベールの軍勢が南下したというのは……?」

「アタシもわかんないよ。騎士のおっさんがそれ以上なにも言ってくんねえしさ」


 ガーランドはすっかり困惑していた。頭のなかにこんな筋書きはなかったはずだとなんども読み返すように、視線が泳いでいる。

 しかし、それすらも注意をしなければ気づかない程度に、すぐさま立ち直った。


「とにかく村に戻りましょう。辺境で合戦があるんだったら、いつまでも城市まちにいたってどうにもならない」



     †



 タリムを出たのは正午より前のことだった。丘を降り、湿地帯の道筋を逆にたどって、ツノムグラの群生地に舞い戻る。急いでいるわけではなかったが、なんとなく焦るような気持ちでケヅノシシの脚を早めた。

 道中、ヒトツノシシのひづめあとが目立ったのは、おそらく昨日メリッサに向かうように言われた女騎士のものだろう。道中幌のきれとともに揺られて、ガーランドとノイスの会話はしばらくそのことに言及していた。


「ラストフの件、ヘルマン司祭に訊くと言ってたよな」とノイス。

「ああ。でも、わたしたちも何がどうなってるのかわからない手前、何もわからないんじゃないかな」

「ただ──ラストフの捜査は、こりゃひょっとすると、フェール辺境伯の手助けがあるかもしれんぞ」

「そうだと良いですね」


 ガーランドはうなずいた。


「しッかし、村の連中にはどう言ったもんかな。まだ結果わかんねえなんて、祝っていいのかどうか、逆に気まずいってもんよ」


 ノイスが独りごちるのを最後に、沈黙が舞い降りる。ゆっくり引かれた幕か、それとも降り積もる雪かほこりのように、次第にそれは重く苦しく、やがて太陽まで真っ赤になるほどの重さとなって、ゆっくりと世界の暗幕を下ろそうと企てている。

 言葉が出なかった。コケラブナの樹々をくぐって登る坂道も、雲海山脈へと続いていく渓谷けいこくの吊り橋も、えも言われぬ赤黒い影に包まれていた。まるで世界が血を流してたおれているかのような不吉な予兆だけが影を落としている。行きは見るもの聞くものすべて目新しかったリナでさえ、幌のなかで萎縮いしゅくするように身をひそめた。


 何か──何かいやな予感がする。

 

(〝その時〟が来ている──)


 リナは何とはなしにそんなことを思った。しかしそれが夢から受け取った言葉であることを微塵みじんも思い出せていない。

 長い時間が経った。実際には下りの坂を登っているわけだから時間がかかったのは当然なのだが、それでも気がくほどの長い時間だった。道がうねり、たそがれのなかに沈んでいく世界へ、ケヅノシシがゆっくり、ゆっくりと進んで行った。


 やがて見えてきた村の入り口を見たとき、ようやく一同ホッとため息を吐いた。


「なんだよ、今日帰るって言ってたのに誰もなんにも言わねーんじゃ、せっかくのお迎えの宴もしねえつもりかよお」


 ノイスが不安を紛らわすために大声で言っている。それがわかってしまうぐらいには、三人とも何をどう言えばよかったのか、わかりかねる空気が続いてしまったのだ。

 ところがノイスのから元気も、いつまでも続かない。


 ようやくたどりついたかと思った村の木戸を、開けて進んだその先には、だれもいなかったのである。

 だれもいない。文字通り、ひとの気配すらしないのだ。


「おいおいおいおい、こりゃどういう……」


 獣車の青年と少女は、まるで未開の大地を初めて見たのかとでもいうように、おそるおそる地面に足を下ろした。右を見て、左を見る。村の大まかな景色に変化はない。

 ただ、ひとがひとりもいない。だれも、何も存在しない。


「おーい、だれかいねえのかよ!」


 ノイスだけが、まだ受け入れがたい事実を懸命に確かめている。


 リナが茫然と立ち尽くしていると、ガーランドは早速地面に刻まれた足跡が奇妙に入り組んでいるのを見つけていた。しゃがんでしばらく指でなぞっていると、次第に険しい表情に顔をこわばらせた。


「これは……シシの足跡ではない」

「なんだと?」ノイスが聞き逃さない。「じゃ、なんだってんだよ?」

「いや、まさか、そんな」

「なんだってんだよ!」


 ノイスの怒鳴り声が、むなしく村じゅうに反響した。それでだれかが反応さえしてくれれば、どんなによかったことだろう。

 しかし沈黙は沈黙のまま、ガーランドに重くのしかかった。かれは首を振った。


「まだ断定はできない。だが、もしこれがだとすると、大変なことになる」

「……どういうことだ?」

「〝はての壁〟が破られるかもしれない。叙事詩圏にシルベールの軍が押し寄せてくることになる」

「なんだって?」


 ノイスは驚くというよりも、すっかり困惑していた。


「いやはや、やっぱり大学都市を出てると頭の回転がちげえってのかな。おれにはなにがなんだかサッパリわかんねえんだわ」

「わからないのか」


 ガーランドがすっくと立ち上がった。その両肩は怒りに震えている。


「これは竜の足跡だ。わたしも化石でしか見たことがなかった……だがこれは、間違いなく竜の眷属にしかない特徴を持つ。そしてわたしが知ってる限り、この世で竜の卵を孵化ふかさせたのは、あの恐るべき異教徒の帝国だけなんですよ」


 古代魔法生物──竜。その存在はかの英雄アスケイロンがその身を賭して戦い、かろうじて勝利を収めたというほどの圧倒的な異形生命体のことでもある。

 その実態はいまだ謎に包まれている。そもそもが古代魔法文明期に〝存在した〟とのみ伝承があり、つばさがあったりなかったり、前肢があったりなかったり、冷血動物だったり温血動物だったりと解釈にゆらぎが存在する。だがまちがいなく言えるのは、それがこの世にいたとされる〝痕跡〟があり、過去の探索や研究によってほぼ確実に、いた、と言えるところまでなのだった。


「竜がこの村にどう降りてきたのかはわからないが、これが村に残されてるのは確実に生身の竜が〝いた〟ってことです。そして、いたってことは、同時にシルベール軍もいたということになる」


 そこで、ようやくノイスも同じ結論に思い当たったらしい。血色を変えて言った。


「おい、てことは……」

「そうだ。奴らはどういう手立てかは知らないが、この村にやってきた。そして村のひとたちを全員連れて行った──可能な限りね」


 連れて行かれなかったひとたちがどうなったのか──そこまではあえて言わなかった。

 しかしリナはここまで聞いて、血の気が引いた。ガーランドの服の裾をつかむ。何度も何度も、必死になって、問いかける。


「なあ、ルゥは? ルゥはどうなったんだ」


 その問いに答えてくれるものは、ここにはいなかった。

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