1ー9.山脈の紅い光
青の日の読み聞かせは何事もなく終わった。ヘルマン司祭が寺院に集まったひとびとに向けて、取りだした説話はなんてことのない物語りで、「ただ前向きにすなおであれ」と呼びかけるだけつまらない話だった。
ルゥは昨日と変わらずぼうっとしていた。〈時の鐘〉が鳴り響き、寺院からぞろぞろと出ていくなかから呼び止める声に、はたと振り向く。
声の主は洗濯女のダニエラだった。彼女は「ちょうどよかった」と言った。
「おねがい、きいてもらえる?」
「え?」
「今日はユリアおばあちゃんの面倒をみてほしいの。急ぎでやんなきゃいけないしごとができて、お世話できないのよ。話し相手になってくれるだけでいいからさあ」
そういえば、ダニエラはユリア婆の姪にあたる人物だった。ふだんは洗濯女として寺院や村長の衣類を洗っているが、その傍らで伯母に当たるユリアの世話をしていた。
「
ルゥの言葉に、ダニエラは首を振った。
「逆さ。お忍びで騎士さまが来てるんだと」
「どういうことなんですか?」
「あんまり言うと司祭さまに怒られちまう。いいからユリア婆のところへ行って、相手してくれよお」
それでしぶしぶ、ルゥは寺院から離れた。広場から離れて水車小屋のわきを通ると、はなれの小径をたどってユリア婆の
ヘルマン司祭から依頼があったのは事実だったが、ダニエラはそれ以上に村の一大事件を真っ先に知れる喜びに身を浸していた。寺院の戸棚から来客用の衣類を引っ張り出し、ハーブを使った湯を
彼女は彼女一流のやり方で支度をした。
しかし当の騎士はそれどころではなかったようだった。
クリスタル・ハミルトン。
騎士はそう名乗った。
ほつれ気味の亜麻色の長い髪に、切れ長のまなざしが鋭く見下ろす。小柄なダニエラから見ると男とも見まごう背の高さだ。革でつくった鎧具足に、身動きしやすい軽装ではあったが、けものを急いで走らせたなごりか、汗と土ぼこりとですっかり汚れていた。
けものの世話をして、獣舎から戻ってきたところに、ダニエラは「お湯の支度がございますよ」と申し出る。ところが騎士は「
「そうは言いましても、
「なら薬湯で行水します」
結局押し負けて、せっかくの準備が形無しになってしまった。クリスタルはあっという間に湯浴みを済ませ、鎧具足を付け直すと、ダニエラの制止も聞かずにヘルマン司祭の自室に向かった。
ノックする。「どうぞ」と声がある。入ったところに座るヘルマン司祭は、昨日とは打って変わったまじめな面持ちだった。
クリスタルはかんたんに自己紹介をして、ことのいきさつを話した。メリッサ村のアデリナのこと、彼女が記憶喪失であること、そして彼女の気力と技術が評価され、第二の試練までは通過していること──
「よかった。リナはきちんと合格している、というわけじゃな」
ヘルマン司祭の第一声はそれだった。
クリスタルはあくまで無表情を貫いた。
「しかしこのような事態で、なぜわれわれに届け出がなかったのですか?」
「何もしてなかったわけではないが、なにせ魔術でもなければそうそうあり得ることではない。わしもどう伝えるべきか、考えあぐねていたのだ。それに、ここまで騎士団の方々が重要視するようなこととは思わなんだ」
「司祭さま、それは認識が甘すぎます」
女騎士は首を振った。低くしゃがれた声で、なおも続ける。
「まさか〈エル・シエラの
〈エル・シエラの惨劇〉──
それは、そう呼ばれていた。
かつてエル・シエラという
叙事詩圏の北方、しろがね山地に面するシエル湖上に築かれた石造りの街である。文字通りの〝湖上〟──つまり、大きなアーチ状の石橋の、その上に
石造りのきめ細やかで大胆な構造と、湖面に映る大聖堂の神秘的な白とが生み出す霊妙な景観がゆえに、詩人たちから〈神殿都市〉の二つ名でも親しまれていた。
『地誌』にはこう記されている。
〝おお、エル・シエラ。北の守りにして険しく清浄なる地よ!
なんじが
なんじが守りは竜の
かくなる地は人を試し、受け入れざるものをつまびき、
つまり、巡礼の場でもあったのだ。
かくなる地がその昔、まさに異端信仰の中心地として告発されるとは、当時はだれも思ってもみなかっただろう。
だが事実、その告発によって、〈神殿都市〉がそっくりそのまま魔女宗派の
ところが事件は思わぬ展開を見せる。
向かった王家の騎士のうち十二名が、たったひとりによってことごとく殺されたのだ。
男の名は、ノエリク・ガルド。
北方辺境領国の田舎貴族出身で、従士試験を経由しないと騎士になれないような、そんな身分の生まれだった。しかし実力は当代一の英雄と知られたアスケイロン家のクナリエールに比肩するほどで、各国騎士団にもその名はそれとなく知られていたのだった。
〈エル・シエラの惨劇〉では、話題のクナリエールをはじめ、ノエリクを含んだ計二十名が出動した。当代一、二を争う戦士たちを前に、事件は難なく幕を下ろすとだれもが思った。だが、ノエリクは裏切り、あろうことか魔女結社の逃走を助けたのだった。
おまけに魔術が乱発した。魔女結社による反抗だから当然の帰結だったが、何ものかが執行した禁術によって、〈神殿都市〉は廃墟と化してしまった。いまでは人どころか虫一匹近寄るもののない黒ずんだ荒野となり、生ける屍が
この事件の真相はいまなお不明で、悪いうわさに事欠かない。
しかし一つだけ誰もが見紛うことなき事実があった。
魔女結社の存在──
それまで魔女は長きにわたって許されざる異端であることは知られていたが、あくまでそれは教導会の側で異端審問の対象一覧に入っていたにすぎない。
しかしこの事件によって、魔女宗派は星室庁が最も優先的に処刑せねばならない脅威として再認知されてしまった。〈聖なる乙女〉が浄めた大地を汚す天敵として、魔女宗派もとい結社は見つけ次第火刑に処すと、過激な決断がこの時から下されるようになった。
魔女狩りの、始まりだった。
これには騎士も積極的に加担した。というのも、この一件でノエリクは騎士道精神を汚すものとして全騎士の汚名につながったからだった。魔女にたぶらかされた騎士──〈乙女〉に仕え、その忠誠によって
特に当代最強の英雄と名高きクナリエールが戦死したことが、拍車を掛けた。歴史上〈女神の平和〉は騎士たちの働きによって守られてきた。たとえ道に外れたものがいたとしても、必ず騎士の掟によって、英雄家の名誉に掛けてこれを阻止してきた。
その暗黙の前提が、クナリエールの死によって、あるいはノエリクの叛逆行為によって打ち砕かれてしまったのだ。
クリスタルの言葉は、決して誇張表現ではなかった。
「なるほど。そうだな」
しかしヘルマン司祭はいたって冷静に、赤ら顔に仮面をかぶせている。
「して、御用件は何でしょうかな」
「
「ふむ。すると、騎士団はラストフをあの恐るべき男と同一視されておるのかね」
「でなければ、一連のできごと──特にアデリナの腕前は説明できないでしょう。違いませんか?」
「それはちがうな」
ヘルマン司祭はいすから立ち上がって、ゆっくりと自室の書棚を探った。棚、と言いつつも実態は
そのなかから一葉の獣皮紙を取り出すと、無造作にクリスタルへと見せる。彼女は手に取って読むうちに、見る見る眉をひそめた。
「鍛冶師ラストフの帳簿じゃよ」
「……〝従士試験に二度落第し、その後十六歳で合格。以後訓練にはげみ、十九で北方辺境領国にて正騎士として仕官する。しかし四年後事故によって退職。本人希望で東部辺境領国メリッサ村に移住。再誕暦七七二年のこと〟──これって」
「そう。いまがちょうど八〇〇年であることを考えると、ラストフは二十八年前にはここに住んでいたことになるな。そして〈エル・シエラの惨劇〉は十四年前の話なんじゃよ。時期が違う。仮に同一人物だとしたらこのずれをどう説明する? ちなみにわしは北方辺境の寺院にも問い合わせてみたが、
「しかし──」
「いいか、ラストフは実在するんじゃよ。嘘偽りなく。ノエリク・ガルドという人物は、こんな
クリスタルは黙ったままだった。
「わかりかねます。ではなぜ
「それはわしにもわからん」
懸命に押し殺していたが、クリスタルは経験で察した。
ヘルマン司祭はウソをついている。わずかに語尾が震え、口の端を意識的に固く結んでいるのが観察を通じてわかった。
何かあるな──クリスタルはそうにらんだ。
しかしこれ以上詰問しても、ヘルマン司祭は口を割るようには思えない。日和見主義のぼんくら司祭だとどこかあなどっていたが、歳を食った神学者というだけあって、なかなかの食わせ者だと感じた。
ただ、もうひとつ気になったことがあった。
「ラストフは結婚していたのですか?」
びくっ、とヘルマン司祭はいよいよ訊かれてはならない話でもしてしまったのような、反応を示した。
「あ、ああ。そうだな」
「その人物はだれなんですか」
「知らない」またウソだ。
「共同墓地に行けば名前がわかりますね」
「ああ、いや、ちがう。エスタルーレについては、わしがここに着任するより前に亡くなってるから、ほんとうに知らんのだ」
「いつ亡くなったんですか」
「十二、三年前じゃろう。少なくともわしはこの村に来て七年目で、それより前はよくわからんのだよ」
「死因は?」
「記録上では流行り病とある」
「
クリスタルの念頭にあったのは、その時あった流行り病について医師ギルドがくだした診断だった。
「だと思うぞ」
「記録上は、ですね」
「そうだ」
「では、そうだとして。ラストフはエスタルーレについて何か話していたか、ご存知ないのですか」
「すまんがほんとうにわからんのだ。ラストフはエスタルーレについて、なにも語らなかった。そもそも口数すら少なく、自分のことすら話そうともしなかった!」
激していたが、嘘偽りで覆い隠そうとするような素振りには見えなかった。ただ自分の知らないことをさも知っているかのように当て付けられていることへの、これは怒りの感情だった。
クリスタルはもう限界だろうと踏んだ。だが確信はあった。ヘルマン司祭は
引き上げどきだ、と思った。
「わかりました。しかしラストフの失踪については、
ヘルマン司祭を
あの洗濯女だろう。あることないこと村じゅうに言いふらされるかもしれないが、クリスタルとしてはむしろ都合が良かった。彼女は肩の力を抜いて、やや急ぎ足で部屋を後にしたのだった。
†
ルゥが向かったユリア婆の
おまけにこの家だけは、メリッサ村固有の赤色の屋根ではなく、
「おばあちゃん、こんにちは」
「なんだルゥかい」
ユリア婆は七年ほど前に腰を痛めてから、歩けたり、歩けなくなったりを繰り返していた。特にここ一年は、立っている時間よりも寝たり座ったりの時間のほうが長い。気力はまだあったが、記憶力に難があり、人の名前を間違えたり、お昼ごはんを食べたことを忘れたりと気にかかることが多かった。
「ルゥ、今日はあの若造は来ないのかい」
「若造?」
「ガートランドだったが、ガーメリックだったか、そんな名前だったはず」
「ああガーランドさんですか」
「たぶんそうだあね」
「ガーランドさんたちなら、リナの従士試験に付き添いで出ましたよ」
ユリア婆は最初は和やかな面持ちで話を聞いていたが、だんだん中空を見つめたまま、真剣な面持ちになっていった。
「リナ? ……ラストフはどうしたんだい?」
「いません。いなくなったんです」
「どういうことだい」
「いなくなったんです。その、ボクらを置いていって……」
「いなくなったあ?」
ユリア婆は唐突に大声を出した。ルゥはびくっと縮こまる。
「あの、たしかに非常識なことかもしれませんけど、その……」
老婆はルゥの言い分をまるで聞かなかったこのように、「ちょいと手を貸しな」と干からびた腕を差し出した。
ルゥはこれに手に取り、ユリア婆がベッドに腰掛けるのを手伝った。
やっとのことで座り姿勢になると、さんざん「歳をとるのはやなもんだ」と愚痴ってから、ようやくルゥに向き直った。
「ラストフはね、あたしとのだいじな約束を破ったんだ。あたしが怒ってんのはそのせいだよ」
「約束?」
「そう。破るとどんなに健康な人間でもたちまちにしてくたばっちまうような怖ーい約束さあね」
「えっと、おばあちゃん、その、正直に訊きたいんだけど──」
「うん」
「
ユリア婆はその質問に目を丸くした。
「気付いてたのかい。あいつの正体に?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど」
「ふむん」
「ラストフがいなくなってから、ボクたちあの人といた思い出もまるでなくなっちゃって……」
老婆はしばらく目を点にしていたが、それから大声で笑った。
「ルゥ、それはここ十年近く聞いた冗談のなかでも最もおもしろいもんだよ。あんだって? 記憶がなくなった?」
「はい」ルゥはやっぱりだめかとしょんぼりしていた。
しかしユリア婆の次の言葉に、ルゥはさらに混乱させられた。
「無くなるような記憶なんて最初からなかったんだよ。おまえさんたちは
「え」
どういうことなんですか──顔だけで、そう物語っていた。
ユリア婆はしたり顔で微笑んだ。
「言葉通りの意味だあね」
それから、ハッ、と鼻を鳴らしてベッドから周囲をぐるっと見回す。思った通りに足腰が利かない自分の身体を呪いながら、老婆はコケラブナ材の長持ちを指差す。
あのなかを開けてご覧、とルゥを使って出させたものは、一枚の
「これは……?」
尋ねるルゥだったが、ユリア婆はさらに目を細くして、言った。
「ルゥ、その指は?」
見ると、ルゥの指先が布切れで巻かれていた。止血の痕、とも呼べそうな手当の名残。それを見られてとっさに手を隠そうとしたルゥを、老婆は見逃さない。
「まさか、
「……はい」
俯きがちに、うなずいた。
沈黙がしばらく流れていた。ルゥにとっては顔から火が出そうなほど重苦しい静けさに満ちていた。まるで空気のすべてが針のように自分を刺してくるみたいだった。
そしてついに、ふーっ、とため息を吐いた。ユリア婆はいじわるげな面持ちで、「だとしたら、もう戻れないよ。いいね?」といった。
「戻れ、ない?」
「その文字で書かれたものごとは、いまはもうルゥのなかに刻み込まれているはずだあね。あれはそういう魔術なんだ」
「魔術──」
まただ。また魔術。魔女。そしてラストフ。
「おばあちゃんは、なにものなんですか?」
ルゥの問いに対して、ユリア婆はにこにことして答えようとした。
そのときだった。
出し抜けに〈時の鐘〉が鳴り響いた。一回、二回、三回──「おや、まだ午後の課にははやいような気がしたが」──四回、五回、六回──「もう七課なのかね」──七回、八回、九回──沈黙──十回、十一回、十二回──
十三回。きっかり鳴った。
「不在の時刻! 非常時の鐘だ!」
ルゥはユリア婆と顔を見合わせ、家屋を飛び出した。
同じことを考えていた村人たちは多く、突如なにごとかと畑や広場から振り向いて、寺院のほうを見た。寺院では再度十三
そしてルゥはついに見たのだった、雲海山脈から赤い旗の列がくだっていくのを──
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