1ー5.従士試験の朝
さて、旅は順調だった。ケヅノシシのひづめは、踏みならされた街道をゆったりと
リナはタリムに行ったことがないわけではない。しかし
やっとのことで平地にたどりついたと思うと、ツノムグラが群生する湿地帯を傍らに街道へと
「世界ってほんと広いんだな」
目をかがやかせて言うその無邪気さに、ガーランドは思わず顔をほころばす。
「やれやれ。近場の
「ガーランドさんは、ほかの領国を知ってるんですか?」
「ああ。大学都市の許可証をもらって、遍歴学生としてあちこちめぐっていた」
「あーッ、いいなー!」
よだれのたれそうなほどのリナの反応に、ついガーランドは自慢心をくすぐられた。
「確かに領国を歩き回っていたときが一番楽しかったな。あの頃は師匠とその辺で草むしりをするだけで新しい発見があった」
ガーランドはそのまま問わず語りで、さまざまな旅の経験を話した。東部辺境の風車村と土地の精霊を
特に青年の記憶に焼きついていたのは、草木の知識とひとびとの生活だった。前者は医術師としての必要性から、そして後者は旅というものの性質の都合から、それぞれ接したものだった。彼はうっかり語りすぎることを自制心でこらえながらも、自分の話を興味しんしんで受け止める少女の反応を前に、口を止めることができなかった。
「ちょうど良いから、見てごらん。ここにある草はツツメキグサと呼ばれている」
休憩でいったん獣車が止まったところで、ガーランドは率先して草原から一本採ってきた。器用に爪で切り込みを入れ、丸めた草笛をピュイっと鳴らす。リナは案の定、目を丸くした。それから好奇心に目を血走らせたような鋭い眼差しで、「どうやってやるの?」と詰め寄った。
ガーランドが教えると、リナは要領よく真似した。切り込みを入れた草笛を口に当てる。やや間抜けた調子だったが、音は出ていた。ヒョイ、という音が湿地帯に跳ねる。
「うまいね。わたしが初めてやったときはまったく鳴らなくて、師匠にさんざんばかにされたものだったが」
「その、お師匠さんってのは?」
「教導会の神学者でね。わたしの教導に努めてくれたほか、ひとを
「へー」
「もっとも、賭け事が好きで、お金にがめつかった。
木陰で
それまで
ガーランドは
「いまは隠居の身だから、教導会の仕事はされてないはずだ。きっとあのひとのことだから、ときどき山の珍味や薬草を携えては
柄にもなく悪口だったが、ふしぎと楽しげでもあった。まるで少年の面影が蘇ったかのように、ガーランドは悪戯っぽく微笑む。
日は早く傾いた。遅い出発だったので門限が心配されたが、
市壁の門でヘルマン司祭直筆の許可状を見せてこれをくぐると、石の世界が広がった。すでに市壁じたいが丘の上に建ったひとつのありえないしろものだったが、それまで眺めていた暗いみどりの世界とはうってかわっていた。特に赤塗りのレンガと白灰色に近い石材とが生み出す景観は、日暮れどきの暗い光のなかにあってもリナにはまぶしかった。
興奮しているリナを乗せたまま、獣車は城市の
いわくノイスの行きつけらしい。
さながら我が家のごとく、ノイスは気さくに部屋に上がっていく。少女と青年は付き従うしかなかった。
上がった先は、いささか散らかった様相を見せていた。ほとんどノイス専用の個室といっても過言ではないこの空間は、わざわざ
「まあ、互いに良しとされているなら、それで良いのではないでしょうか」
ガーランドも特にそれ以上込み入ったことを言わずにいた。
ただ、部屋はこの有り様だったので、さらにひと部屋借りて、リナ専用にした。男ふたりはノイス名義で借りた広めの部屋をせっせと片付け、なんとか寝る場所を確保するに至ったのだった。
あしたははやいからね、そういって彼らは眠りに就く。
ところがリナは布団をかぶったとたん、急に自分を見送ってくれたさまざまなひとの顔が思い出された。けんか仲間に大人たち、ヘルマン司祭に、それからルゥ──彼らのあこがれとも心配ともつかないまなざしを思い起こすにつれて、腹の底がぞわぞわした。手足の感覚が薄くなり、せっかくの
じっとしていられず、何度も寝返りを打ってみたが、かえって目が覚めた。口のなかがざらざらする。ついに寝ることを諦めた彼女は、窓から夜の街をのぞき見るのだった。
タリムは
とはいえ一般的な
しかしそれはむかしの話だ。
領国の街道の本筋が走り、それが軍事的な
権力のあるじが住む場所は、まつりごとの都合からおのずと商人が集まりやすい。領主お抱えの軍団が絶えず出入りするこのタリムであればなおさらのことだった。こと圏外からの侵入者を見張るこの東部辺境で編成された軍団は、平和の時代にあっても屈強で機敏な
そんな彼らが役目を負うか、あるいは役目を終える節目において娯楽と癒しを求める場がこの城市だったのだ。
だからタリムでは、夜も
ふと、彼女は
ところがそれが廊下を進み、遠ざかり、階段を降りていくのを察知すると、リナは窓の下へと身を乗り出す。そこには〈ルリツバメの止まり木〉の勝手口がある。もしやと思ってのぞいていると、予想通りそれは開いた。人影が周囲を見て、すばやく街に繰り出していく──
「あれっ」その人影はガーランドだった。
リナは思わず独りごちたが、小声だった。何か気まずいような感じがしてすかさず身を隠したが、別に悪いことはしてないはずだった。むしろガーランド自身がなんの用があって夜の街に繰り出しているのか。リナはあらためてふしぎに思ってまた身を乗り出す。しかしガーランドのすがたはもう消えていた。
最初、もしかすると見間違いなのではないかと思った。火明かりであらわになった顔はよく見間違うものだ。
しかしガーランドにはあの特徴的な
リナはこっそり、自分の疑問を確かめることにした。
まずあの人影が見間違いでないことを確認しようと、隣の部屋に向かう。鍵は掛かってなかった。物
ドアを開けても灯りのない部屋で、ふたつのベッドが横並びになっている。暗がりに慣れた目を凝らす。あれから大掃除をしたわけか、足の踏み場は意外に残っていた。片やすでに寝入ったノイスのいびきが
そこにはだれもいなかった。
やはり。リナは確信する。あれはガーランドさんだったんだ。間違いない。
そのときいまさらのように部屋の空気が妙に酒臭いことに気がついた。この期に及んでノイスは酒を飲んだのだろうか。振り向くと、書物を扱う机の上に、盃がふたつと銀の水差しがあった。鼻を近づけなくてもわかっていた。ブドウ酒だ。
なるべく状況をそのままにして、自室に戻る。やっぱりガーランドさんはあのとき出て行ったに違いない。でも、なぜ? どうしてなんだろう。リナの疑問はふたたび同じ地点をぐるぐる回り出した。
だが考えれば考えるほど、答えがない。次第にめんどうくさくなって、リナは眠気を覚えてきた。
(まあ、あした聞けばいいか。よほど気まずいことじゃないかもしれないし、そもそもガーランドさんもギルド宿舎に用があったかもしれないし)
そうひとり合点すると、なんだか緊張して寝れなくなった自分がばかばかしくなった。もしこのまま寝不足でざんねんな結果となれば、笑うことすらできない。
寝る。そう決めた。彼女は納得すると、とたんに目をつぶって、三つかぞえる間もなく眠りに落ちたのだった。
†
夢は見なかった。思ったよりもほがらかな目覚めで、リナ自身驚いた。
あけぼの色に染まる朝の街を、ベッドの縁からぼうっと眺める。まるで夢みたいだ。だが夢ではない。
リナはついにからだを起こした。窓からあらためて見た街の景色は、夜中よりもむしろ闇が濃く深くにじんでいた。まるで市民が夜明けを望んでいないかのようだった。
ふしぎと冷静だった。死に絶えたかのように見える石の家のあいだを、すり抜けるように駆けていく路上の少年たちのすがたすらもこの目ではっきり見えていた。どこかの使いっ走りか、
隣りの部屋から物音がして、リナは振り向いた。堂々と足音を鳴らしながら、近づいて来る。ノックだ。二回、三回──それから。
「リナ、起きてるかい?」
ガーランドだ。昨日のことなどまるでなかったかのように、そこにいる。リナは一瞬意地悪い気持ちが湧いた。そうだ、昨日のことを訊ねてみようか。ところがその考えは、ドアが開いたとたんに
「どうしたんですか?」リナは思わず訊く。
ガーランドは首を振った。しかし背後からノイスが肩に手を置く。静かなまなざしが、どうせ隠せないならいまのうちに言っておくんだとうながしていた。
「じつは」とガーランドは何度もためらいながら、口にした。「もう一度ラストフのゆくえをこの
「…………」
「少し補足するが」とノイス。「辺境伯の軍団に出入りする御用商人と何人か顔見知りでな。そいつら、この時期だから近隣の
困ったもんだな、とノイスはため息を吐く。
「覚えちゃいないかもしんねえが、ラストフってのは片腕片目の、ちょいと目立つ見かけをしててな。こう、左の腕のひじから先がないんだな」──言いながら、右手の指二本で該当箇所を叩いてみせる──「おれが村長になる前からメリッサの
ノイスはガーランドよりも前に出た。
「まあとにかく、そんな人間が
肩をすくめる。
「やっこさん、とんだかくれんぼの天才だったワケだ。じゃなかったら、いよいよ里山近辺に探りを絞ったほうがいい」
「そういうことなんだよ、リナ」
リナはいまさらのようにハッと顔を上げた。
「わたしたちはラストフを諦めてはいないつもりだ。だから、リナは気にせず、従士試験をがんばってね」
「……はい」
彼女は後ろめたくなって、うなずいた。ガーランドはまるでリナの疑いを最初からわかっていたかのように、そっと歩み寄り、それから手を差し出した。
「城館へいこう。早いところ受付を済ませて、
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