1ー4.ルゥが見た月光

 リナを乗せた獣車がわだちを引いて街道の向こうに行ってしまうまで、ルゥは延々と手を振っていた。周りの人があきれるまで、ずっとその調子だった。けれども彼の体力なんて底が知れていたから、あっという間にくたびれて、座り込んでしまった。そのままうずくまるように両手で顔をおおった。

 涙は出なかった。でも、いまの顔を誰にも見られたくなかった。


 ヘルマン司祭がかがんで、ルゥの肩に手を置いた。


「さみしいな」


 ルゥはうなずいた。


「村で騒いでおるころは、『さてこの子はどんな将来を送ることになるのか』と気をんだものじゃったが……むしろ置いて行かれたのはわしらのほうだったかもしれんな」

「はい」


 ルゥはようやく顔を見せた。悲喜こもごもの面持ちで、涙はないのにすっかりくしゃくしゃだった。両の手のひらで顔についていたものを拭い取るように、ぐっと握りこぶしを眼前につくる。とたん急に立ち上がって、誰も見えなくなった街道に向かって叫んだ。


「リナのばかーっ!」


 げんこつを振りかざして、こう言い切ると、不機嫌な表情できびすを返した。

 ヘルマン司祭は一連の動作を見ながら、目を点にしていた。


「なんで怒ってるんじゃ?」


 司祭の疑問は宙に飛んだまま、誰の耳にも入らずに消えてしまった。


 ルゥは、むしゃくしゃした気持ちのままに家屋おもやに戻った。

 昨夜から今朝にかけてさんざん散らかした室内を見渡して、あらためてその広さに驚かされた。けれども冷静に考えると、ひとが三人過ごしてきた空間なのだから当然だった。ルゥは次第に熱っぽくふくれ上がった気持ちがしぼんでいくのを痛感していた。


(もう、ひとりぼっちなんだな)


 ルゥは初めてそのことに気がついた。心のど真ん中を風が通った。悲しい音色が全身から鳴り響いたかのようだった。身が震える。目をつぶった。首を振る。まるでその現実を見なかったふりをするように。

 お祝い気分も、当事者がいなくなればゆっくり日常へと回帰する。沸かしたお湯が時間とともに冷めるのを待つように、じっくりと、忘れられていく。ルゥはまだその気分が冷めやらぬまま、もうひと仕事、部屋の掃除をがんばろうとした。


 一刻近く部屋の掃除をしていると、次第に疲れてきてしまった。


 その日の午後はぐっすり眠った。次に目覚めたのは夜中だった。すっかりのどが渇き切っていて、手探りで暗がりを歩いた。月が汲み置きの水を照らしていたのを、すくって飲んだ。枯れた植物がひさびさに水を得たような歓喜に、身が震えた。それで、ようやく自分が疲れ切っていたことに気がついた。

 がんばりすぎたんだな、とルゥは反省する。きっとリナが行くからって気を張りすぎたに違いない。彼は月に反射して映る自分の顔を見てびっくりした。なんてくたびれた面持ちだっただろう。ヘルマン司祭が説法に引用したおとぎ話で、未来を見せつける魔法の水鏡みずかがみのことを思い出した。


(あのお話の結末は、なんだったっけ)


 教導会の『神聖叙事じょじ』は、〈聖なる乙女〉がいかにして神託を得て、いかに叙事じょじけんのおのおのの領国を束ねていったかをこと細かに描いている。いわば建国神話だった。と同時に歴史でもあった。物語で語られた英雄たちは、今世においてももっとも格の高い貴族としてその名を残している。英雄えいゆう家、と聞けば、どんな辺境に住む臣民たみくさでもその衣の着付けを正す。それほどだった。

 とはいえ『叙事詩』の物語は難しかった。ほんらいが神託に属するものであるため、その真意を汲み取るのに無数の知恵が必要だったのだ。教導会における神学とは、この聖典が語る物語の一言一句の解釈の系譜なのだ。それは次第に数を極め、無数の読み替えが行われ、ついには先人の教えを順にたどっていかないと現代の最新の理解に追いつけないほどの、壮大な歴史を生み出している。


 しかしそれは臣民たみくさにとってはどうでも良い話であった。


 圏内のさまざまな領国、あるいは教区にその身を置く司祭は、このことが悩みの種だったと言って良い。教養なきひとびとにいかに女神の教えを説くべきか。かつて教えに統一されていなかった人間たちは、女神と〈聖なる乙女〉の物語についてあまりにも無理解で自分勝手な受け止め方をしていたのだ。

 教導会の上層部──導師連はこの問題について、何度も会議を重ね、ひとつの結論に達した。〝たとえ話〟として現地の伝承いいつたえを借りることを許容ゆるしたのだ。それは現地民が自分勝手な神や精霊の名において女神の教えを理解したことの、後追いの公認だと言ってよかった。だが、この決定は功を奏した。司祭は現地に着任すると、ひとびととともに住まいをともにし、同じかまどでパンを食べ、偉ぶらずに古着を借りてつくろった。その口から語られた『叙事詩』だからこそ、ひとびとは女神の教えに身を従えたのだ。


 この成功は、次第にあらゆる物語を『叙事詩』の影響下に置くことに結びついた。もとからある伝承や民話に限らず、むしろ『叙事詩』から派生した作り物語も生み出された。やがてそれらは吟遊詩人の手にもわたって叙事じょじけんという世界の見えないいしずえをかたどっている。


 ルゥが思い出しているのは、そのうちのひとつであったのだ。


(そうだった。たしか未来を確信した女の人が、川に身を投じて亡くなるという話だったな。かなしいお話だったはずだ)


 むかしあるところに──物語はつねにこのような語り口によって始められる──農夫の娘がおりました。サトムギの種をき、土をたがやして女神の大地を豊かにする、はたらきものの娘でした。彼女は日々祈りの時間を忘れることなく、身を慎み、親兄弟の世話を欠かさずに務めました。

 ある日、彼女が水汲みに向かうと、自分が汲んだばかりの桶にふしぎな影が映りました。最初はなにげなく目にしただけでしたが、次第に見知った顔を映していたので思わず見入ってしまいました。それは母の老いさらばえたすがたに見えました。しかし彼女の母は元気そのものでした。きっと気のせいだろう。娘はその影が他人の空似だと思って、あまり気にしないようにしておりました。


 ところがそれから幾日か経ち、彼女の娘は病いにたおれました。重い病いでした。かかったとたんにみるみるやつれてゆくほどの恐ろしい流行り病でした。いまわの際に立つ母のすがたは、なんとかつて娘が水鏡で見た不吉な影そっくりだったのです──


 物語は、この不吉な影を何度も映し、娘に不幸せな未来を幾たびも見せる。娘はだんだんと水鏡の見せるまぼろしが暗い予言であることを確信する。恐れをなした彼女はある日見えてしまった惨劇の予言を村じゅうに言いふらして、備えるように呼びかけた。しかし誰も耳を貸さず、かえって娘を疎んじた。

 結局その惨劇は防ぐことができなかった。それは嵐による川の氾濫はんらんで、村じゅうが洪水に呑まれてしまったのだ。その予言を信じてしまった娘は、ただひとり生き残った。しかしかなしみとさびしさのあまり、氾濫が起きた川に身を投げて死んでしまった。彼女が身を投げるために踏んだその足跡からは花が生えていた。その花は種を蒔き、村の跡をみどりで覆ったと言われている。


(あの物語のもたらす教訓はなんだったっけ──たしか〝大衆が天啓を理解するとは限らない。しかしおのれの信心を歪めてはならぬ〟だったかな)


 ルゥは首を振った。まるで自分自身がその物語に出てくる娘になりきったかのような、ぞっとしない心地だった。


(気にしなくて良いはずだ。だって、映ったのは未来でもなんでもない、疲れたいまの自分の顔なんだから)


 夜の村は静かそのものだった。カコチフクロウのうさんくさい鳴き声と、秋の草花に集まる虫の声がある以外には、何もひと気を感じなかった。月が出ているとはいえ、このようなくらやみのなかを、歩き回る物好きはそういないはずだった。村のほうを見ても、案の定、明かりを灯すような家屋おもやはない。

 ふだんならもう一度寝なおすことが正解なのだろう。ところがルゥは、いまはっきりと目がめてしまっていた。寝なおすなんて夢にも思わなかった。


 ふと、月を見た。ちるまであとわずかなほどの丸い月だった。鈍い白に輝いている。教導会が記す〝月の暦〟では、すでに〈穫入かりいれの月〉はすぎているはずだった。その次は〈冬待ふゆまちの月〉である。次第に気温も下がり、満月になれば白銀の輝きが夜を照らすことだろう。


 しばらく月を眺めて、何も考えない時間が過ぎた。

 ところがルゥの瞑想にも似た状態は、かすかに聞こえる歌によってさえぎられた。


(……なんだろう?)


 最初はカコチフクロウの鳴き声かと思った。この鳥はときどき人間の喋り声にも似た独特な節回しで鳴くのだ。しかし集中して耳を澄ますと、空耳ではないとわかった。カコチフクロウは低い男性のような音程なのであるが、この声は女性のものに聞こえたのだ。

 ルゥはふと誘い込まれるように、しかし用心はおこたらずに声の主を探った。


 ここからさほど遠くはない。小径を忍び足で進み──つかのま寺院に行くべきか判断をためらったが、歌声は共同墓地のほうから聞こえてきたので断念した。

 勇気を出して夜の墓地へと向かう。寺院の裏手の道を進んでたどりついたそこは、昼とは打って変わった光景だった。


 まず枯れ草色のタケダカソウが背を高く月光を浴びて波打つ。風が強く吹いては、波しぶきにも似た鈍い反射を繰り返した。ついで長い髪の毛を振り乱してあばれる女の頭のような、クチヒゲヤナギのぞっとする影が絶えずうごめいていた。上に下に、生えた草がそれぞれ風にゆれていた。くらやみが生きて人を威嚇いかくしている。そういう印象すらあったのだ。

 そんななか白く輝くかのように、墓石と献花台が等間隔に広がっていく。彫られた墓碑銘がさながら光る文字だった。


 声の主は、墓石のひとつに腰かけていた。


 月に照らされて明らかになるそのすがたは、赤銅あかがね色の髪をした少女だった。とは言ってもルゥよりは年上に見える。雪にそっと紅を差したような可憐かれんな肌が、髪色に重なって強い印象をもたらす。しかしそれ以上に、顔の左半分に火傷のような痕跡があり、美貌だったはずの横顔に二面性を与えていた。愉悦と憤怒、至福と苦痛が同居したような不可思議な面持ちだった。

 彼女はあどけなさとも、艶っぽさとも取れるしぐさで小首を傾げ、ルゥを見た。赤いがかれをとらえる。蛇のまなざしだった。


「……あら。ごきげんよう」


 ルゥは少女のとげのある視線にすっかり怯えてしまった。恐る恐る小さく礼をする。

 短い沈黙が、寝そべるようにゆっくりとふたりのあいだに横たわった。


「ふふ。眠れなかったの、坊や」

「ぼっ……!」赤面する。

「わかるわ。あなた男の子でしょ?」

「いや、まあそうですけど」

「ふうん」


 ルゥは不快だった。自分から語りかけておいてその態度はなんだと思った。


「そういうあなたは、なんでこんなところにいるんですか。そもそもあなた、だれなんですか?」

「質問はひとつだけにしてよ。やぼったいわね」

「ひとつずつ答えてください」


 少女はあからさまに見下した目つきでこれを無視した。


「どんくさいこと。あなた、ほんとうにエスタルーレの子供なの」


 独りごつ。ルゥは聞き逃さない。


「なんでお母さんの名前を」

「わかるわよ。そんなことぐらい」

 

 勝ちほこったような笑みを浮かべる。ルゥは自分が相手の手のひらで弄ばれていることをついに思い知った。

 ローブの袖の下で、こぶしをつくる。さして力があるわけではないが、こうして揺るぎない何かを捕まえないと気が済まないのだ。


「……魔女、ですね」


 ルゥのそのことばに、今度は少女のほうが驚く番だった。しかしそれもつかのま、目を細めて警戒の色を浮かべた。


「へえ。ばかじゃないってわけ」

「…………」

「そんな怖い顔しないでよ。せっかくの良いお顔が台無しじゃない」


 少女は眉をしかめつつ、器用に片方を上げた。総じて、相手を認めてはいるが相変わらず下に見ているようなまなざしを生み出す。ルゥは見た。月の反射か否か、少女の目に浮かぶ五芒星のしるしを。

 原理はよく知らないが、うわさには聞いていた。聖典によって禁じられた黒の魔術を研究する〈魔女〉の宗派──〈聖なる乙女〉に反して女神の教えを解釈することからそう呼ばれていた──彼ら彼女たちは、神秘に身をやつして正道を踏み誤ったものたちだった。


 少なくともヘルマン司祭の熱弁するところに拠ると、そうなのだった。

 魔女宗派は結社を組んで活動する。五芒星のしるしを仲間うちの符号とし、特に魔力を行使するものは〝巫覡みこ〟と呼ばれた。その権能ちからを有するものは、瞳のなかにそのしるしを浮き上がらせるのだという。


 いま、ルゥが相対している少女はまちがいなく〝巫覡〟の権能者なのだ。


 震えた。うわさには聞いていたこの世ならざる力──それがもしかすると、自分を引き裂いてしまうかもわからない。少女のまなざしはそのまま剣となって、ルゥを突き刺してしまうかのようだった。

 ところが突然、少女の顔色が変わった。まるで赤子の手をひねるつもりが毒蛇に出くわしたかのような反応である。とっさに浮かべた驚きを、相手を再評価するどうもうな笑顔に変わる。少女は独りごちた。


「そう。なかなかの小細工ね」

「?」

「いいわ。そのお顔に免じて、もう少しだけお話ししてあげる」

「……はい」

「なによ。せっかく相手してやってるのに」

「…………」

「はい。だんまり禁止。ラストフのことは知りたくないの?」

「……ッ!」


 ルゥは思わず息を呑んだ。


「知ってるんですか」

「あら、良い子ね」


 少年は次第に眉をひそめた。


「からかってるんですか」

「ふふ。さあてね」


 少女はついに墓石から降り立った。靴が草を踏むかすかな音がした。それからゆっくりとルゥのほうへと歩き出す。

 ついに彼女は少年の目の前に立った。おもしろがるようなまなざしで、むきになって相対するルゥを見下ろした。そのとき少年は見た。少女の耳に赤く輝く珊瑚の耳飾りを。


「あんたんところの司祭さまにお伝えなさい。城市まちをさがしてもむだだって。そして急がないと村に禍いが起こるから、早いところ逃げなさい、てね」

「どういうことなんですか」

「少し考えてみるといいわよ。いい教訓になるから」

「…………」

「言うべきことは言ったわ。結局ラストフは止めることができなかった。あとはあなたたちに禍いが降りかからないよう、するべきことをしただけ」

「待ってください」


 振り向きかけた少女に、少年は食い下がった。


「そのことば、真実である証は?」

「〈真実の星ヴェル・アステル〉」──彼女は神聖古典語だけが持つ美しい響きでそう言った──「それがわたしの名前の意味。その名と月の下において、わたしは虚偽うそを口にしないことを保証しましょう」


 それから突然、少女はルゥに有無を言わせない気迫を発しつつ、抑えた口調で言った。


「魔術のことわりは、相手の名前を知ること。そしておのれの名前を知らせることにその力のいわくがある。わたしは名を明かした。あなたはどうするの」

「……ルート。意味は、知らない。みんなからはルゥと呼ばれています」


 押し負けたように、ルゥは口を開いた。

 少女は緊張を解いて、微笑む。


「ふだんはヴェラステラよ。ヴェラ、と呼んでくれたらとてもうれしいわ。ルゥ」


 そう言うと、ヴェラステラは墓石を降りてすたすたと歩いて行った。

 ルゥは止めなかった。ただ黙っていた。その背中がくらやみのなかへと溶けて見えなくなるまで、ずっと目で追っていたのだ。


 緊張が、汗となって溶けた。どっと疲れてひざから地に着ける。


「お父さん、あなたはいったいなんですか」


 ぼつりとそう言い放ったことばが、だれの耳にも入らず、風のように消え去った。

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