1ー6.負けない、負けたくない

 もともと領国の掟では〝騎士〟は身分上の呼び名に過ぎなかった。小さくとも領地を持ち、獣を従える富と技術を代々受け継ぎながら、従者を引き連れ戦さに出る──そのような貴族階級としての騎士がそれである。彼らはかつて戦乱の絶えなかったいにしえの時代から、一家いっか相伝そうでんの武術体術を受け継いできた。ひとびとを世界の脅威から守り、代わりに作物を受け取る。そうした主従関係で、国々が守られてきたのだった。

 ところがいまは平和の時代だった。王家がその名をしらしめ、教導会が〈女神の平和〉を宣言してから四百年が経っていた。領国同士の争いは、少なくとも同じ女神の教えを奉じる叙事じょじけんでは固く禁じられている。そうなると、騎士は単なる身分ではなくなった。ひとつの称号であり、栄光はえある肩書きへと様変わりしたのだった。


 女神の信仰を世に広め、自らをりっし秩序を守る、勇敢な戦士もののふ──リナが生きているこの時代では、騎士とはこのように意味を変えていた。それは新しい世界の脅威の出現にともなって、平民の出においても騎士となることが許された、稀有けうな時代でもあった。

 騎士の学舎まなびやとは、その機会を生み出す、まさにその場所なのだった。


 〈ルリツバメの止まり木〉亭を出てから一刻もしないうちに、城館は参列者でごった返していた。城門まえに続く長蛇の列が、リナたちが並んだそばからぞろぞろと東の広場に向かって続く。


「うわっ、すげえ」


 感嘆の声を漏らすリナを尻目に、ガーランドはどこかなつかしいものを見るまなざしで行列を眺めていた。


「近隣の郷里さと城市まちから、ざっと二百人ぐらいじゃないかな。同伴者や付き添いがそれに二、三人。多ければ十人近くいてきている」

「そんなに志願者って出るものなのか?」

「志願するなら、まあだれでもとは言わないが、かんたんなことなんだよ。問題はこの数から、せいぜい五、六人しか突破しないってことだろうね」


 ごくり。のどを鳴らす音がする。


「そんなに?」

「ああ。ついでに言うと、その後も従士の任務に耐えきれず、やめていく人間も少なからずいるんだ」

「ひえー……」


 言いながら、リナはガーランドを見上げる。このひとはなんでこんなに試験について詳しいのだろうか。そんな疑問もよぎる。

 だが質問する余裕はなかった。ガーランドは流れで会話を続ける。


「領国の掟にいわく、〝国境をまたぐものは戦士と竪琴弾きに限るべし〟だからね。それだけに足るものを、求める人が多いんだよ」

「ガーランドさん、ときどきルゥとおんなじこと言いますね」

「……?」

「そう、いちいち〝領国の掟にいわく……〟ってやらないよ。ふつう」


 ガーランドが思わず目を点にする傍らで、ノイスがげらげら笑った。


「おいおい。こりゃの出来の違いってんだ。大学都市いくようなかしこい人間にしか、できねえってもんよ」

「うるせー、そういうノイスもばかってことじゃんかよ」

「へッ、言ってろい。おれぁ、かしこくはないが、人生経験ってもんがあるからな」


 そうこうしているうちに、リナの番が回ってきた。領国の役人が座って羽根ペンを持つ手前で、ああだこうだと手続きを済ませ、中庭へと案内される。

 中庭は広大だった。城市の一画とはいえこれほど広かったかと思えるような、縦に横に奥行きに、目が滑るほどの空間がある。市壁と同じ素材で立つ石壁と、砂を敷いた殺風景な地面。そこにロープやはしごや甲冑が、さまざまに置かれており、まるで戦支度でもしているかのような、そんな光景であった。


 この景色をいろどるのは、秋一番の晴れ模様である。雲ひとつない、高くて青い空が、そっと腰掛けて語りかけてくるかのように日差しを大地に降り注いでいた。風さえ吹けば涼しいだろう。しかしあいにく暑かった。

 すでにリナは動きやすい衣に替えていた。麻の上衣をズボンに仕舞い、ベルトを締めて布の靴を履いている。さっそく身体をならすため、手首足首回してから、跳躍運動を繰り返す。横っ飛びに側転。倒立から身を弓なりに逸らして、着地したとたんに身を起こす。はてには前宙返りと、自分の身のこなしを点検した。


 ひと通り準備運動を終えると、ふいに自分を見つめるまなざしがあることに気づいた。


 見ると、リナよりもよほどきれいで、透き通りそうなほどの金髪の美少年がいた。壁に身をもたれて、腕を組んでいる。リナを見つめているのは彼のみどりだった。どことなく敵視しているような視線に感じた。思わずとにらみ返す。すると少年は涼しい顔でこれを受け流した。とたんに彼の同伴者と思しき人間がやってきて、少し話をしたかと思えば、すたすたと歩き去ってしまった。


 むかついた。


「ちきしょう、なんだってんだよ」


 独りごちる。朝は始まったばかりだった。


 

     †



 角笛が鳴り響いて、中庭に集まった二百名弱がいっせいに身を反応させた。


 志願者は集まっていた。体格の大小・民族問わずにひとびとが整列する。だいたいが男性だったが、ところどころ女性も混じっている。リナもまたそのひとりだったが、負けてなるものかという意気込みは人一倍強い。

 この従士試験は、あくまで東部辺境領国における志願者を選抜するための試験だった。リナは知っている、試験は領国ごとに執り行われることを。そして風のうわさを聞く限りだと選抜の仕方についても、領国ごとに異なるらしかった。礼儀作法を重んじる国、土地の権力者との結びつきを重んじる国、あるいは目端の利く頭の良さを重んじる国があった。しかし東部辺境領国は、他国には想像を絶するほどの実力主義だと評判だった。

 

 革の具足を身にまとったひげ面の男が、二百名の前に立った。茶色い長髪で、どことなく気取ったふうだったが、その面持ちは油断なく、志願者たちを品定めしていた。

 よく周囲を観察すると、志願者たちは五人の男女に囲まれていた。涼しい目つきのせた男に、まじめを絵に描いたような金髪の男、亜麻色の髪で切れ長の目の女──さまざまな特徴があったが、みな独自の鎧具足にさまざまな紋章を刻んでいた。


 騎士だ、とリナは思った。ほんものの騎士──おそらくフェール辺境伯を主君とし、その身を捧げる宣誓をしたのだろう。


 前方のひげ面の男がようやく口を開いた。


「フェール辺境伯付きの騎士、モレド・カヴァーナだ。本日諸君の腕試しを見届ける役を拝命仕っている」


 沈黙。


「騎士の学舎は、この叙事詩圏における各領国に置かれている。諸君も聞いたことがあるだろう。君たちの選抜の仕方は、領国によってやり方が異なるのだ。あいさつひとつ、テーブルマナーひとつ失敗しただけで失格になる国もあるとわたしは聞く。あいにくこの国では、そのようなしょうもない理由で落とす試験官はいない」


 冗談のつもりだったのかもしれない。しかしだれも笑うものがいなかった。


「これから君たちをふるいにかける。ふるいはかんたんな、そしてわかりやすいものだ。力と技、そして勇気だ」


 それ以上の何が要るというのだろう。絶えず圏外の敵を警戒し、ときに戦うことも辞さない平和の時代の戦士たちに──


「そして、その三つを試すために、われわれは今年も知恵を絞った。諸君にはぜひこれをとことん堪能してもらいたい。骨の髄まで味わってくれ。くれぐれも、途中で気が変わらないようにねがっているぞ」


 モレドは残忍にも見える微笑みを浮かべて、後方に手で合図を送った。

 全員の注目が後方へと集まった。

 今度は涼しい目つきの痩せた男が、見かけに反してやや高い声で叫んだ。


「同じくフェール辺境伯付きの騎士、イリエ・シュヴァンクマイエルと言います。〈力の試し〉の監督官を務めるものです。いまからみなさんには五人一組であそこからあそこまで走ってもらいます。ただし──」


 次第にふくらみつつある緊迫感を、ただひとつの逆接でせき止める。いよいよ開始かと身を乗り出した参加者の、気持ちがふしぎとそこに留められた。まるで見えない釘で足裏を刺されたような衝撃が、そこにはあった。


 空気が一瞬止まった。

 その瞬間に、差し込むようにイリエは語った。


「──制限時間があります。それより早くない人間はたとえ一位でも落選とします。よろしいですね?」


 騎士の物言いには有無を言わせない圧力があった。


 二百名弱が五人一組になると、おおよそ四十組となる。

 リナはその前半七組目に割り当てられていた。競う相手はみな男だった。年長もいれば同年代くらいもいる。彼らはみなリナの少年と思しき外見と、よく見ると女だということで鼻でせせら嗤うようなそぶりを見せた。


「ああそうだ。言い損ねてました」


 五人一組がひと揃いしたかと思ったとたん、イリエはだしぬけに口を開く。

 かれはもぞもぞと上衣を脱ぎ、胴に巻いたあるものを指差した。留め金を外す音がして、それから、軽々しく脱いだ。両手でつまむように持ち上げてみせたのだった。


「競走者にはこれを着てもらいます」


 鉄の胴着、と言えば良いのだろうか。とたんに志願者たちの顔色が変わった。

 イリエは平気な顔をして、まるで汗臭い麻の下着の処理に困ったかのように指でつまんでそれを持ち運ぶ。そのまま一番の競走者に装着したとたん、かれは(男だった)だんだんと強張った面持ちになった。


「ざっと二〇グロン(十キログラム相当)あるんじゃないかな。まあこの手のやつだと軽い方だから、全力疾走してもらうよ」


 それで、第一組が走り始めた。れっきとした走りを見せたのは、五人のうち一人だけだった。

 志願者はほとんどの場合、市民か農夫だった。力仕事を主とする人間にとってはこの競技は可能だが、市民に生まれついて騎士道物語にふけっているような人間にとっては無理難題だった。


 二組目、三組目と進んでいくうちに、ものの見事にそんな人間が振り落とされていく。


 見ててわかる。ああ、この人間は騎士になるということを、戦う人間になるということをちっとも了解せずに来たんだな、と。

 それはある種ぶざまでもあった。だが、ある意味では親切でもあった。騎士がまとう鎧具足の重量は、決して二〇グロンなんて重さではないのだから。


 リナは自分の番が近づいてくるにつれて、少し息が上がり始めていた。


 できるだろうか。そんなことを考えてはいけないと、頭ではわかっていても、ちらっとよぎってしまう。

 ふと、視線を感じた。振り向くと先ほどの少年がリナの背後に立っていた。かれは十一番目の組らしい。また目が合った。少年はおもしろいものを見るまなざしでリナをとらえた。やっぱり腹が立った。


(くそっ、負けるもんか)


 闘志がみなぎっていた。そこに自分の番がやってきた。


 鉄の胴着は、着てみるとさすがに重かった。肩から腹にかけて、締め付けられるように身が絞られる。内臓がいちだんと重くなって地面へ寄り添うよう懇願こんがんしている。だがリナは踏ん張った。鼻から吸った呼吸が、熱い吐息となって口から漏れる。

 身構える。競走の終点となる箇所に、大きな砂時計があった。人の手で押して上下を反転させるとおぼしい。それがいまゆっくりと傾けられて、徐々に反転しようとしていた。


「はじめ!」イリエの声が叱咤しったする。


 とたんにリナは風になった。重たくなった身体をギリギリまで前のめりにしつつも、ももからすねに掛けて強張った筋肉を、押し込むように突っ走った。

 足のふわふわした感触が気になった。ふくらはぎが、さながら伸び切ったバネ仕掛けにでもなったかのようだった。蹴り出す足に力が足りない。


 リナの並走者もなかなか早かったが、次第に息が上がって減速していた。

 だが、リナはもはや他人のことなど気にしている余裕がなかった。


 視界が狭くなる。まるでそれが次第に閉じていく門の扉を連想させた。さながら世界を閉じ込める扉だった。時間とともに閉まるそれは、リナにとってはちがう人生への入り口なのだ。決して逃してはならない。

 心臓が高鳴る。熱い汗が噴き出す。あごが上がりそうになるのを、一生懸命に抑える。


 リナは鉛の塊にでもなったひざとももを、もう一回、あともう一回と祈りながら振り上げた。もはや腕はただ振るだけ、足は走る速度に合わせて上下しているだけだった。それでも走った。走って、走って、走り抜いた。


 ようやく駆け抜けたと気づいたとき、砂時計はひと握りの残量だった。それもあっという間にすり抜けて、消えた。


「よかった」


 リナは最初の関門を突破したのだった。



     †



 その後もさまざまな試験があり、リナは苦痛と悲鳴をこらえながらこれを突破した。


 第一の試験を終えたとき、すでに半数が落第していた。残りがおおよそ百名弱。それが第二の試験では七十名になった。

 何をしたかと言うと、はしごを上り下りしただけだった。ところがこれが非常に簡潔にして難関だった。というのも、城壁に立て掛けたはしごを腕だけで上り下りするのだ。ある種の懸垂運動である。腕力に自信があるか、身の軽い人間にしかなしえない技だった。


 リナはむしろこちらのほうが得意だった。それでもさきほどの疲労が思わず効いていたために、苦労はした。

 上りはまだいい。だが下りは予想より苦しくて息が上がった。上下動の動きだけではなく、左右にもからだが振られて動きが安定しないのだ。試験官の話だとこれを最低十往復すればよろしいとのことだったので、途中で足を振り子のようにつかって、腹筋をバネになんとかやり遂げたのだった。


 第三の試験は大きな岩を山ほどを積んだ荷車を押し込む、という競技だった。

 車輪が付いているから簡単だというのは、傍観者の意見だった。その荷車は大の男が顔を真っ赤にしてもようやく前に進むかどうかと言ったところだった。それを押し込んだ直後に第四・第五の試練があり、荷車で疲弊した足で人工の絶壁を駆け上がり、へりをつかんでこれを乗り越える。立て続けにロープをつかんで城壁のてっぺんまでよじ登るという流れとなっていた。


 もちろんひとつずつ、休憩を挟んでやればできなくはない。

 だが案の定、制限時間という壁があった。第一の試練と同様の砂時計が車輪に引かれてやってきたのだった。


 ふたたび五人一組で、今度は先着一名だけが勝ち抜けるという話だった。合計十四組で、今度は背丈体格が揃えられた。無作為に横並びすると若年の有力候補も落とすかもしれないとの配慮だったのか──それとも。

 リナは、それで例の少年と前後する組になった。意外だったのはかれも同じ試練をしたにもかかわらず、息が上がってない。むしろ近所の農場でも散歩してきたかのような平気な顔をしている。リナは思わず息を呑んだ。てっきり城市まち育ちのお坊ちゃんだと思っていたからだった。


 周囲にはほとんど女は残ってなかった。いたとしても、極端に大柄か、鍛えていることがわかるような人物に限る。大多数は男で、しかもリナと同い年の少年から青年に至るまで、幅は広い。

 最後の一連の試練について、見本を示したのは亜麻色の髪の女騎士だった。彼女は眠そうな声でクリスタル・ハミルトンと名乗り、先ほどの荷車をゆっくりと押し込んだ。そのまま絶壁を駆け上がり、ロープを登った。


 あまりにあっけなく淡々とやってのけたので、参加者一同かんたんかと勘違いした。

 しかしそれは早速開始した第一組が、絶壁ひとつ登れないことで早々に打ち破られた。


 もちろん第一組は全員失格だった。場の男たちはざわついた。


「うそだろ」「あんなのできたんじゃ女じゃねえよ」「ズルしてたんじゃないのか」「ありえねえ」「ロープ上から引っ張ってヤツがいるだろ」


 騒然としつつも、はっきりとクリスタルの見本に対する否定的な感想だった。だがリナはクリスタルと同じ荷車を押していた少年が、息を切らして絶壁を何度も転ぶのを目の当たりにしていた。目的地の城壁の上で待機する騎士は手を出していないことも、観察して知っていた。同じ条件のはずなのだ。そしてそれはむりかもしれないが、無茶ではないはずだった。

 しかしこの混乱のなか、クリスタルは無言で荷車に近づき、大岩をひとつ、ぐっと持ち上げた。恐るべき怪力だった。息ひとつで抱え上げると、身体をひねって放り出した。


 土ぼこりと激しい音が立ち上がる。


「悪いけど。やわな男は騎士に要らない」


 喧騒は土ぼこりとともに、風に流されていった。


 結局最初の四組は全滅で、五組目からようやく突破者が現れた。

 もはやこの時点で、騎士志願者たちの心には互いに競争するやましい気持ちは無くなっていた。たのむからだれか行ってくれ──そんな心地が三度目の全滅のころから始まっていた。四組目が走ったとき、ついに絶壁を乗り越えた人間が現れて場が沸いた。当の人物はロープのぼりで時間切れとなったが、初めて参加者のなかに希望が芽生えたのだった。


 五組目のただひとりが時間内にロープを登りきったとき、すでに場内は一丸となって拍手喝采であふれかえった。

 まだ〈力の試練〉のさいちゅうだとはいえ、突破者が出ると自分もそれに続こうという意気が上がる。六組目はふたりロープを登りきった。勢いが出てきたのだ。


 そしてついにリナの番がやってきた。


(やるっきゃない。やるっきゃ)


 腹をくくってはいても、できるかどうか──


 走り出した。荷車に手を掛けて、両足を踏ん張る。自分自身で押しつぶされそうなほどの腕力と脚力をひねり出し、しぶしぶ動き出したケヅノシシのようなゆっくりした速度で前進した。あくびが出そうな速度だったが、リナは必死だった。まるで重石でじっくりと全身の水分を搾り出されるかのように、全身から汗が噴き出す。呼吸を忘れるな。だれかが叫んだ。リナはいつのまに自分が息を呑んだまま止めていたことに気づいた。

 時間。時間だけが問題だった。前からは荷車の重量が、後ろからは時間の見えない重圧がやってきて板挟みだった。長い時間がそこにはあった。だが、背中に火がついたような切迫した気持ちだけが心臓を叩いた。


 ようやく押し込みきったところで、人工の絶壁にねらいを付ける。

 あらためて見ると、それは湾曲した傾斜を駆け上がるようにできていた。さながら凶々しく人類を阻む悪意の曲線だった。リナは隣の走者がなん度もなん度も繰り返し登ろうとして、思いきり落下するのを目の端でとらえた。着地時点で嫌な音がした。もしかすると骨が折れたかもしれない。リナはその予感に腹の底が冷える心地を感じつつ、勢いをつけて傾斜を登ろうと試みた。


 一歩、二歩三歩四五六──間隔を狭めて迫り上がる壁を蹴り込む。

 だが力が入らない。最後の一歩で蹴り上げたはずの足が、水でふやけたみたいな手応えのなさをからだに伝えた。リナはそのまま後退し、上を見た。ありえないほど高かった。


 心臓が高く跳ね上がった。

 だがその瞬間──


「あきらめるな!」


 背後で声がした。だれかは知らなかったが、だれかはわかった。

 あいつだ。まちがいなく、例の金髪の少年だろう。リナと年頃が近く、そのくせやたらとリナに突っかかってくるような目で見る。


「ちきしょう、なんだってんだよ」


 カッと血が沸いた。もう一度だけ、ゆるされるならといったん身を翻し、軽く助走を付ける。

 ほんのわずかだけ振られて、勢いのついたからだが、最後の瞬間に全霊を賭した。


 一二三四、五──伸び切った脚。

 届けよとばかりに反り上がった背中。


 その肩甲骨から肩口に掛けて隆起した力が、腕をつたって上を、ただひたすら上を目指して、伸びていく手を、指を、へりのぎりぎりまで押し上げようとした。


 指が、つかんだ。

 片腕だけである。


 全身が痺れる。

 悲鳴を上げる前腕──

 苦しい。

 痛い。

 辛い。

 だがここで手を離すわけにはいかない。


 この壁を乗り越えた先にしか、違う生き方への道はないのだ。

 言うなればこれは人生の壁だった。〈力の試練〉はおまえに自分の生き方を変える覚悟があるか、その実力があるかを問うてくる。リナは決して農村でだったためしがなかった。大人の言うことは聞きたくないし、毎日しごとをするのもめんどうくさい。それでも自分のうちにくすぶる何かがあった。何かをしたくてたまらないという衝動だけがあった。


 他人ひとは嗤うだろう。それはいつか時間とともに消えて無くなるものだと。

 あなどるだろう。そんな想念にぐらついていられるほど生やさしい生活ではないと。


 ばかにだってするだろう。何かとはなんだ、と。やることはハッキリさせなさい。なりたいものは自分で決めなさい。自分の意志ぐらい、自分で乗りこなしなさい。

 大人はその点、いつだって分からず屋なのだった。


 ハッキリせず、爆発しそこなった黒い塊こそが、アデリナという人間を根から動かそうとしているのにもかかわらず、だ。


「くそったれ」


 怒鳴るように両手でへりをつかみなおし、一気に引き上げる。片足を上げて壁の上に身を押し込むと、立て続けにロープを手に取って、城壁のほうへと登り始めた。

 残り時間がいくつかは分からなかった。しかし、絶壁を乗り越えたのがリナただひとりという、いまがチャンスだった。


 脚が疲れ切っていた。

 壁を蹴る脚力はない。

 腕の力もなかった。手繰っても、手繰っても、自分のからだにあの鉄の胴着が巻きついているかのような重みを感じた。背中がきしむ。肩が震える。それでも引っ張る。からだを、引き上げる。


「十、九、八、七──」


 城壁の上からイリエの声が響いた。焦りがある。上を見たい欲求に駆られたが直感があごを引かせた。ただひたすらロープを取る。


 四──ロープの最後を目の端で捉えた。

 三──終わりの部分を手に取った。

 二──足を掛けた。踏ん張った。

 一。


 転がり込んだ。騎士と目が合った。おもしろいものを見る目つきだった。騎士はほほえんで、息を切らして疲弊するリナの背中をさすり、助け起こした。周りを見る。彼女以外にまだたどり着いた人間はいなかった。

 それで彼女は、ついに〈力の試練〉を乗り越えたことを実感したのだった。



     †



 結局〈力の試練〉を乗り越えたのは合計十名だった。

 最初の四組が全滅したことを除けば、順調に突破者は現れていた。例の少年は余裕を持って突破していて、リナは目をいた。だが終盤に至ってはほぼ全員が僅差で並び、相手次第ではこれは確実に勝っていたに違いないと思われたくらいだった。


 しかし、最初に決めた約束通り、自分の組みで一番早かったものだけが選ばれた。


「まあ、実戦で流れ矢に当たったとでも思って、来年頑張るこったな」


 モレドはそう言って落第者をなぐさめた。


 すでに日は沈みかけていた。一度に二百人をふるいにかけて、十人まで減らしたのだから当然だった。かれは〈力の試練〉の終了を宣言し、生き残った十人はようやくほっと息を吐いた。リナも肩を撫でおろした。ちらとわき見をすると、例の少年はまだ表情を殺している。一見すると余裕そうに見えていただけにリナは腹が立った。なんだよ、もっと喜べよ──そう思った。

 ところがそれは間違いだった。モレドは立て続けに〈技の試練〉に移ることを宣言したのだった。


「よし。木剣を持て!」


 モレドがそう言ったとき、リナはさすがに冷や汗が背中から出てきた。


(冗談だろ。まだやんのか)


 その気分が伝染したのか、場がざわつく。

 モレドはその空気を切り裂くように一喝した。


「あいにくだがな。われわれが戦ってる圏外の連中は、おれたちが疲れてるかどうかなんて知ったことじゃねえんだ」


 沈黙──重苦しい、だが反論の余地のないこの静寂の前に、リナはいよいよ鼻白んだ。


「いまから支度をするから、その間に息を整えておくんだ。わかったな!」


 やがて日も暮れ、くらやみが城市まちを包むなか、かがり火がかれた。

 落第者はその間に城館から追い出されていた。そのためこの場には、〈力の試練〉を生き残ったその関係者のみが、固唾かたずを呑んで見守っている有り様だ。


 リナはノイスとガーランドが見守っていることを確認して、安心した。あまりに過酷な戦いだったせいですっかり意識の外にあったのだった。

 午後になってもずっと見ていたのか、分からなかったが、まだここにいて、ことの成り行きを最後まで見てくれるだろう。そう思うともう少しだけ無茶ができる気がした。


 ついに〈技の試練〉が始まった。


 生まじめを絵に描いたような顔つきの金髪の青年騎士がやってきた。

 エレヴァン・ノーランダート。それがかれの名前だった。かれは無表情とも見れる変化にとぼしい顔をそのままに、大声を張った。


「〈技の試練〉は、これからわれわれが適当と判断したふたりの人間の、模擬試合によって行われる。難しいことは言わない。ただ与えられた武器をもとに、自由に技術と知恵を用いて、戦うこと。ただし、われわれが仲間としてふさわしくない行動を──例えば、騎士道精神にもとるような行いが露見した場合はこれを拒むことがある。そのあたりは、判断するように」


 それからエレヴァンは立て続けに、「まず最初にこのふたりに戦ってもらう」と蝋引きの書字板を片手に読み上げた。


「四十二番! メリッサ村のアデリナ!」

「百七番! アスケイロン家のシュヴィリエール!」


 場がどよめいた。リナも目を見開いた。アスケイロン家といえば、『神聖叙事詩』でも幾度となく名をうたわれた〈竜殺し〉の英雄の名前であり、ひいては圏内でもっとも知名度を有する英雄家のことだった。

 そして彼女は、その相手こそが金髪の少年の名前であると知ったのである。

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