最終回

 翌朝。

 サラサラとした聴き心地の良い雨の音が夢の覚め際から聴こえてきて、あと何日朝寝ができるかもわからないのに、俺は雨に呼ばれているような気分になり、まだ明けてもいないのに、起床し、素早く身支度をして、あてもなく出かけた。

 ネオンが消え、雨の音しか聴こえてこない消えかけた尾道の町が少しずつ色づき始め、鼓動を刻み始めると、優しい春の細雨の匂いに心が満たされ、俺は濡れながらどこまでも歩いて行きたくなる。こういう後先考えない放浪者気質が一夜にしてなくなるわけもないし、それをだらしないものとして責め立てるほど奈々は無粋な女ではあるまい。

 うず潮橋の上から尾道駅のほうを眺める。

 千光寺から見下ろす尾道も勿論いいが、雨の日は雨に煙る始発前の線路と人も車も疎らな国道二号線を見ていると、遠い旅の記憶が淡く浮かんでは消えてゆくようで、なかなか切なくてよい。何よりもここにいると、その風景のせいか人生の岐路に立っているような不思議な気分にもなってくる。子供の頃から何度も見た風景なのに本当に不思議だ。

 実際、昨日、俺は人生の岐路に立ち、潔く決断をしたはずだ。

 後悔はない。

 たとえ行き着く先がブラックユーモアと言うには苛酷すぎる夢も希望もない厳寒の終着駅であったとしても、俺の隣には奈々がいるのだ。寒さに凍えるのも堕ちてゆくのも幸福であるはずだし、そう思えないようなら、背中を向けて逃亡するべきだったのだ。

 もう後には引けないし、引くつもりもない。

 うず潮橋に立ち、その決意を新たにする。

 橋を渡り、旅の先輩林芙美子女史の像に軽く挨拶をして、尾道駅へと歩く。

 特に意味はない。散歩なんてそんなものだし、今までもそうやって生きてきた。ただこれからはそういう身勝手が許されなくなるというだけの話だ。別に自由でいたいという執着はそれ程ないし、それよりも奈々が大切な存在になってしまったのだ。

 俺は変わってしまったのか?

 そんなことにも執着はない。

 ただ春雨が心地よい。

 既視感と言うべきか、この雨に思い出しそうで思い出せないある種の懐かしさを感じている。

 きっと眠気が消え、ちゃんと目が覚めた時に思い出すのだと思うが、思い出せないことのほうが幸せなことだってある。俺はどうも白黒はっきりしないと気持ちが落ち着かない性分だが、曖昧も時には悪くないと思える。そんな雨だ。

 尾道駅の観光案内所の横の階段から二階の展望スペースに上がると、赤い傘をさした奈々が薄暗い海を見ていた。

 その横顔は憂いや迷いがなく、だからと言って浮ついているわけでもなく、どこか強い意志と決意を持った凛々しい顔つきをしていて、もう「奈々ちゃん、かわいいよ」などとテレテレできるような少女の残香と雰囲気はひとかけらも持ち合わせていなかった。

「奈々ちゃん、こがに早うにどしたん?」

「タミオさんが来るのを待ってました」

「え?」

 悪い気のしない不意打ちだった。

 不意打ちは更に続く。

「タミオさん。今日が何月何日か知っとってですか?」

「四月八日じゃけど、どうかしたん?」

「四月八日ですよ。ウチがみなまで言わんとわかりませんか?」

「!」

 この優しい細雨の記憶を忘れるなんてどうかしている。

 平成九年四月八日!

 尾道駅。

 結ばれない運命を受け入れた俺と奇跡を信じて俺を追ってきた加奈子を濡らしていたのが確かこんな雨だった。

 雨のベールに包まれて惚れ直しそうなほどの加奈子の色香に花酔い気味の俺は無理をし、心を冷酷にし、犠牲を覚悟すればその奇跡を起こせたのかもしれないし、その雨は奇跡を起こすよう教唆していたのかもしれない。

 だけど、俺にはできなかった。

 人生の岐路に立たされることにあまり慣れてなかったというのも、若過ぎたというのも、未来が見えなかったというのも全て言い訳になるだろう。結局、加奈子を連れて逃げることができなかった俺が弱かっただけの話だ。

 だからと言って、あれが最後になるなんて思っていなかったし、ここまで四半世紀近く悔やんで生き続けなければいけないなんて思っていなかった。

 尾道に戻れば加奈子に会えるものとばかり思っていた。

 お産と子育てを終え、身も心も少し逞しくなった中年の加奈子に。

 それもあの時の雨はこうなることを知っていたのかもしれない。

 だからこそ、加奈子に心変わりをさせ、尾道駅へと導いたとでもいうのか。

 そして、奈々がなぜ詳細を知っているのか?という愚問で白けさせてしまうのは愚鈍極まりない。

 本来の運命を書き換えられた奈々の潜在意識には朧気ながらに加奈子の記憶があるからなのか、或いは、夢枕に立った加奈子に「明日の早朝、タミオは駅に行くからちゃんと気持ちを伝えなさい」とでも言われたかのどちらかと言われても俺は疑うつもりは毛頭ない。物事に偶然などない。

「タミオさん」

 奈々は傘をさしたまま、片方の腕で俺の腰に手をまわし、顔を胸にうずめた。

 奈々の甘い体臭と雨の匂いが混ざり合うと一種のフェロモンを発生するようで、欲情してしまうが、恋人関係の終焉、夫婦生活の発端を思わせる今日の奈々の凛々しさには有無や是非を言わせない凄みがある。

「ママの手を離したこと、絶対に後悔してますよね?」

「…」

「約束してください。この手を、ウチのこの手を絶対に離さんといてください」

 雨の音しか聴こえてこない。

 あの時は無力さに打ちのめされ、その暖かさと美しさを辛く、悲しく感じた雨だったが、今日のそれは運命の対極にあるほどゆっくりと降り注ぎ、どことなく詩的で哲学的でどこまでも永遠を感じる。一つの傘の中で分かち合い、誓い合う永遠を。

「うん。約束する。ワシと奈々ちゃんは永遠じゃ」

 俺は奈々を優しく抱き寄せ、赤い傘の中で永遠を誓う。

 もう誰も現れなくてもいい。

 俺は今、最後の女を胸に抱いているのだ。

 何かの間違いで、或いは神の悪戯で今ここにあの時の加奈子が現れても、俺は奈々と生きていくことを選ぶ。

 奈々と二人で。

 いや。俺と奈々と生まれてくる子供と三人で。

 そして、俺の胸の中で今日の雨のようにこんなにも暖かで穏やかな涙を流す奈々に心で歌うのだ。

 奈々の為に生まれ変わったあの曲を!


 赤い相合傘の中で誓い合う二人に

 どうか永遠の愛と幸福を

 尾道スロウレイン


                                       了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

尾道スロウレイン 野田詠月 @boggie999

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ