第50話
一時間ほど祝杯を挙げ、親父さんには心地の良いプレッシャーを頂戴し、お袋さんには何度も「あんたたち、本当に大丈夫なの?」と念を押すように心配され、キョウジュにはまた泣かれ、不安げな奈々の無口な笑顔に見送られ、中途半端な酔いで「龍のねどこ」に帰った。
運が悪ければ全て失って、失意のままに跨ぐはずだった敷居と思えば、厭でも感謝の気持ちがわいてきて、亀井に有り金渡して、「いいから、しばらく温泉にでも行ってこいよ」などと殊勝なことをやりたくなる(やらないけど)。
「タミオさん。おかえりなさい。向島の弦さんからクッキー頂いてるんで、コーヒーー入れますね」
バーカウンターでランチタイムの残りの洗い物をしていた亀井は鼻歌でも歌うように俺の帰りを出迎えた。弦さんも俺がここに居候していることを知ってから、色々と差し入れしてくれるようになった。有難いことだ。
「亀井君。ちぃと早いが、酒にせんか?話があるんよ」
「じゃぁ、こないだジャンが置いてったボルドーがあるんでそれ開けましょう。ね」
亀井は濡れた手をデニムのエプロンで拭くと、奥のワインセラーへと引っ込んでいった。
結婚の報告は筒井のおっさんや加奈子に最初にするのが筋だが、成り行き上、どうしても亀井になってしまう。ラオスの安宿以来の仲だし、一年近く故郷でホームレスをやらずに済んでいるのは亀井のおかげなので、恩人と言ってもいい。それに、地獄耳の筒井のおっさんのことだ。もうどこかしらで聴いていて知っている可能性のほうが高いだろう。どうも、俺は身に危険が及ぶ事柄以外のことではいい加減になってしまう気質がある。こんなことだから「自由奔放」だの「風来坊」だの呼ばれるのだろう。しかし、そういう存在でいれるのもあと僅かだ。俺は奈々の為に真面目になり、正しいただ一本のレールの上を歩くのだ。
「これこれ。タミオさん。結構、いい奴ですよね?」
「ほう。シャトーモンぺラの2019年か。あの年のヨーロッパは夏がブチ暑かったけぇ、安いけど、美味い奴じゃ。フルボディじゃけ、肉料理に合うで」
「流石だなぁ。都会に出てソムリエになればいいのに」
「ワシに『ソムリエになれ』ってゆうたの亀井君で三人目じゃ」
俺は余り真に受けず、素早くオープナーでコルクを抜き、亀井のワイングラスを満たした。俺は手酌し、グラスを合わせた。
「本当だ。これ、重厚だけど、フルーティ。ステーキでも焼きます?」
「おいおい。弦さんに悪いで」と俺は苦笑した。
「で、話って何です?」
「うん。奈々ちゃんと結婚することにしたんよ」
「そうでしたか。それはおめでとうございます」
亀井は恭しく頭を下げたと思ったら、ぽたぽたと大粒の涙を零し始めた。キョウジュに泣かれ、亀井に泣かれ、忙しいというか、常に気遣ってばかりで気持ちと席の温まらない一日だ。
「亀井君。どしたんや?男が無暗に泣くもんじゃないで」
「いや。僕は死ぬほどうれしいんです。だから、黙って泣かしてください」
「ようわかったけぇ、泣くのはやめようや。フーが悪いで」
「タミオさん。僕と初めて会った日のこと覚えてます?」
亀井は涙と洟を流しながら、涙声で俺に訊いた。
「2003年じゃったかな。ヴェンチャンの二ドルの小汚いドミ」
「タミオさんが『メコン川の夕陽観ながらビール飲もうや』って誘ってくれて」
「日本語に飢えとったけぇなぁ、話し相手が欲しかったんよ」
それは嘘だ。
当時、バンコクの店が軌道に乗り始めた頃で、裕ちゃんとはほぼ毎週のように会っていたし、客の七割は日本人で、仕入れ先も日本人のところが多かったくらいだ。日本語に飢えていたわけがない。本当のことを言うと、亀井が暗く思いつめた顔をしていて、何を訊いても心ここに在らずでちっとも旅を楽しんでいない様子だったので、ラオビア飲ませて酔わして、笑わせて、心を解して明日からまた明るく発展的に旅を続けてもらおうと思っただけで、対して深い考えはなかった。
「僕はねぇ、あの時、死に場所を探して東南アジアを彷徨っていました」
「え?」
「上司に横領の濡れ衣を着せられて懲戒免職になりましてね、まぁ、それだけなら対処しようもありますけど、婚約を破棄されるわ、マンションは追い出されるわ、裁判では悪徳弁護士に全財産騙し取られるわで命以外のすべてを失ったんです」
そう言えば、亀井の尾道以前の話はほとんど聴いたことがなかった。あの時は何とか亀井に元気を出してもらいたくて、下らない駄洒落や尾道の話に終始したので、そんな事情、今初めて知る。
「うん。それから?」
「金がないのはまだ耐えれますが、信用まで失くしたんじゃね、誰も相手にしてくれません。起業もできなきゃ部屋も借りられない。誰も助けてなんかくれませんでした。もう生きていけませんよ。人知れずいなくなっちまおうってバンコク行きの片道航空券買って、死に場所を探しに行きました」
亀井の自分語りは計算や不純物や誇張がなく、真っ直ぐに俺のハラワタを刺す。真摯に最後まで聴くしかあるまい。
「タイはいいところでしたが、どうも楽しすぎて死のうなんて気持ちになれないんです。だったら、カンボジアでポルポトの残党に拷問の末、惨殺されようと思いましたが、ポルポトの残党なんて探すほうが大変と知って、失意のままにノーンカイからラオスに入りました。ヴェンチャンから山岳地帯に入って、首を吊ろうと。その時、会ったのがタミオさんなんです」
「ワシは自裁志願者を飲みに誘うたわけじゃ」
「いや。僕はうれしかったんです。訳アリの面倒くさいオーラを出していたはずの僕のことをほとんどの現地人や旅行者は声をかけることすらしませんでした。でも、タミオさんは違った。あの時の僕には尾道の話は眩しすぎた。この日本に天竺ともいえる約束の地があることを知りました。あの時、僕は尾道に片思いをしてしまったんですね。タミオさんの口八丁と言えばそれまでですが」
「口八丁よ。そんなもん」
「いいえ。丁度、向島のサンセットのマジックアワーの話をしてる時にメコン川に夕陽が沈んで行って、それが血か薔薇のように真っ赤で、東京人の僕はこんな美しい夕陽を見たことがなくて、なんかこう罪が許されてゆくような気分になって、死ぬのはやめて今恋焦がれた尾道で人生をやり直そうと思ったんです」
「そりゃ、亀井君の人柄と才覚と資質よ。ワシは関係ない」
「御謙遜はやめてください。僕がここまで尾道の人に愛され、世界中の旅行者から熱い支持いただいている基盤の全てはあの時のタミオさんなんです。だから、だからこそ、タミオさんには絶対に幸せになってもらいたいんです」
亀井は何十年も腹に溜め込んでいた全てを吐き出したら泣き崩れた。
ここまで泣かれるともう慰めは無駄だ。今の亀井に「泣くな」などという無粋は言えない。キョウジュと同様、涙が枯れるのをただ待つだけだ。
俺は亀井を救ったなんて思っていない。
それはあくまで結果であって、絶望の底で目を覚まし、立ち上がり、尾道と言う異郷でここまでの地位を築いたのは亀井が卓越した能力を持ち、惜しみない努力をしてきたからであって、それを俺の手柄にしようとするのは照れくさいという以前に間違っている。それがもう一年以上も破格の条件で住まわせてくれているだけの大恩とも思っていなかっただけに背後を知ってしまった俺は尽くすべき言葉が見つからず、亀井の零す涙を見詰めるしかない。
「タミオさん。絶対に幸せになってください」
亀井は声を振り絞ってもう一回同じことを言った。
その言葉に俺は嬉しさよりも義務を感じた。
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