第49話

 暫く、キョウジュは泣き続けた。

 奈々の捨て身とも言える抵抗のおかげで舌戦にすらならなかったが、気まずさと異物感で居心地が悪く、俺はその苦しい時間をあまり感じさせないように奈々に寄り添い続けた。叩かれた痛みは永久に続かないのだとしても、涼しい顔をして俯瞰するような冷淡さは俺にはない。本心から奈々を労わった。

 涙を流し尽くせば、不思議と悲しみや怨嗟は軽くなるものだ。

 あの時の俺がそうだった。

 加奈子と繋いだ指を解き、全てを諦め、定め、俺は涙が流れるままに山陽本線の上りに乗り、黄色い電車が岡山駅に着くまで人目もはばからず涙を流した。親に捨てられても、そのことで後ろ指をさされ、誹りを受けても、未来が不安になっても俺は絶対に泣かなかった。幼い義晴の手前、弱気になるわけにはいかなかった。筒井先生が俺たちのことを拾ってくれたのも運命に屈しない俺の姿勢を評価してのものだと今になって思う。

 だけど、加奈子を失った悲しみと言うのは、強面の上司か上官に「いいから耐えろ」と言われて、「はい」とハキハキと返事をし、従順に耐えられるような軽薄なものではなく、加奈子に心の一部を切り取って持っていかれて、その痛みが余計に悲しみを助長し、煽るものだから、それはとめどなかった。

 それも、岡山から姫路行きの電車に乗り換え、岡山駅のキヨスクで買ったワンカップ大関を呷っているうちに流れる涙は枯れ、春風に吹かれるとさっきまでの涙の理由は忘れることは絶対にないのだが、何だかせいせいしたというか、「それでも、キョウジュと傷つけあわずに済んだじゃないか」と乾いた自己満足が悲しみを癒し始めるのだった。一陽来復とでも言うべきか。悲しみを極めると次は逆方向にある幸福へとベクトルを変えるように見えざる力が働いたのかもしれない。救われはしなかったが、あれで二度と底に戻ることはなかった。

 だからというわけではないが、俺はキョウジュの涙が枯れ果てるのを待った。

 待ってどうなるわけでもないが、涙を流し尽くしたあの効能を期待した。

「おい。総司。わりゃ、ええ加減、男らしゅうせいや。お前みたいなもんが加奈子さんと結婚できたんは誰のおかげよ?男らしゅう身を引いてくれたタミオ君のおかげじゃろうが。今度はお前が身を引く番じゃなぁんか?」

 頃合いを見計らった親父さんは、恨みごとばかりを口にするキョウジュに業を煮やしたように眉間に紋を作って続けた。

「借りはいつか返さんといけん。お前は親友に借りを返さんまま一生、逃げ切るつもりでおるんか?おう?」

「…」

「それと、お前の一時の感情でタミオ君を貶めるんは勝手じゃが、タミオ君がお前を憎むなんて見当違いもええとこじゃ。タミオ君がホンマにお前に怨恨を持つような男じゃったら、お前を騙すか蹴落とすかし、加奈子さんを連れて逃げとるよ。それをせんかったんはなんでか?また、そのタミオ君が今回はお前になんぼ罵られても意地でも引かん覚悟じゃ。その意味をよう考えてみぃ」

 親父さんはキョウジュに鋭い刃物のような視線と俺に話が進まず困ったような視線を交互に送った。この議員先生の人の本質と本心を読む洞察力には感嘆し、白旗をあげるしかないのだが、これが歴史に名を遺した、例えば田中角栄なんかだともっとスケールが大きかったのかと思うと、途方に暮れてしまう。

 涙の枯れ果てたキョウジュは俯いたままで蚊の鳴くような声で言った。

「あの時の借りを返すために奈々を嫁にやるん?」

「よいよ、わからん奴じゃのう。ワシはこがな薄情で恩知らずな息子を育てた覚えはなぁど!おう?人として、男としてどうかと言う話じゃろうが。お前は加奈子さんとおれたんはたった一年やそこらじゃったと不服を言うかもしれんが、タミオ君には短命な幸福すら与えられんかったんじゃ。況してや、家族とも無縁でこの歳まで生きてきたんど」

「親父さん、ワシは別に」

「ええけぇ、タミオ君は苦労や手柄や我が自慢を絶対口にせん奴じゃけぇ、ワシが代わりにゆうちゃる」

 俺の発言を激しく遮ると、親父さんは打って変わって穏やかでゆっくりとした口調に変えて話し始めた。

「のう。総司。『借り』ゆう言い方が気に入らんのんじゃったら、『恩』と考えや。尤も、タミオ君が貸し借りみとうなしょうもない計算をする男じゃないことくらいお前が一番よう知っとろうが。のう。お前の言動は奈々も見とる。見苦しい真似はやめてここは恩に報い、寛大さを見せるんがスジど。その恩が拡がって、拡がって、最後は皆が幸福になるんよ。それもお前の赦しひとつじゃ」

「パパ」

「親父さん」

「あなた」

「おじいちゃま」

 心が一つになった。

 結婚と俺が身内として認められた瞬間と言ってもよかった。

 流石、議員先生は力ずくではなく、言葉を尽くし、やりこめるのではなく、心を込めて説得するのだ。それも絶妙な押し引きで話をまとめてしまう。多少、俺を買いかぶりすぎているのが照れくさかったが、そこまで言ってくれないと意固地になったキョウジュには伝わらなかっただろう。

 キョウジュは奈々を抱いたままの俺に青白い諦観の色を浮かべた目をして言った。

「タミオ。色々ゆうて悪かった。頭でも感情でもまだ完全に理解も納得もできんが、赦しがないと終わりがないけぇのう」

「おう。今まで黙っとってすまんかった。キョウジュの気持ち考えたら言えんかったんよ。ホンマにこらえてくれや」

「こらえるも何も早いか遅いか、相手が誰かって違いだけよ」

 キョウジュは憤怒の残滓を少し残しながらも運命を受け入れたように頷いた。

「チャゲの奴、こういうことじゃったんか」

「あれはなんもかんもお見通しなんじゃけやれんわ」

「しかし、この年齢で孫ができて、しかも、タミオが義理の息子か」

「不思議よのう。お義父さん」

「お義父さんはやめい」

「はい。お義父さん」

「おい!」

 俺とキョウジュはどっちからと言うこともなく、歩み寄り、固い握手を交わし、照れくさそうに笑い合った。

 多少の傷つけあいのあった短い戦争は終わった。

 流した血も涙も最低限のもので済んだ。

 ここから長い平和な時代が続くことは誰しも期待することであり、左手にフリではない和解と右手に奈々を抱きしめる俺にはそうとしか思えなかった。

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