第48話
「千光寺山荘別館」に向かう足取りは重く、一メートルが十キロ、一分が一日に感じる。奈々と過ごす時は一夜が秒にしか思えないのに、なぜ幸不幸で体感時間がこうも変わってしまうのだろうか?或いは、そう感じる心理のプログラムはいったい誰が作ったものなのか?などと考えてみても、ここから先の運命から逃避することが許されないことくらいはわかっている。坂の傾斜がいつも以上にきつく感じるのは決して歳のせいだけではないだろう。
裁きの場へはあと何マイル?
奈々と暮らせるまであと幾年月?
「千光寺山荘別館」に着くと、「とうとう着いてしまった」と「なぜ着いてしまったのだろう」という想いで来た道を引き返したくなったが、敵前逃亡は軍隊でなくとも死を意味するので、弱気は封印した。
チャイムに対応したのはキョウジュだった。
「タミオ。すまんけど、今日はこれからちぃとやいこしいやり取りがあるんよ。また後日にしてくれんかのう」
事ここに及んでも、俺への信頼は揺らがないらしい。
ツラい。ツラいが、引き下がるわけにはいかない。
「そのやいこしいやり取りをしに来たんじゃが」
キョウジュは黙り込んでしまった。しばらくは訳が分からなかったのだろうが、点と点が線になり、線がデッサンをはじめ、絵になる。そこで初めて気付いたのだろう。奈々の男が俺であることに。
「おどれ、今までよくも」
あのキョウジュがこんなにも殺伐とした空気を出せることに驚いたが、そんな場合ではない。彼は裏切りを知り、怒り狂い、殺意を理性でなんとか抑えようとしているのだ。いつもの調子で喋ると取り返しのつかないことになる。
「こりゃどうゆうことや?」
「奈々ちゃんに惚れた。それだけのことよ」
「ようもぬけぬけと、指の一本や二本は覚悟しとるんじゃろうのう?」
「おう。覚悟はできとるよ」
「おどりゃぁ、なんなら?開き直るんか!」
「総司!そんなゴロツキみたいなものの言い方はやめなさい!」
「ママはこの裏切り者を許すん?」
「え?何?ジュリー?これはどういうことなの?」
キョウジュの尋常ならざる物言いに慌てて出てきたお袋さんが窘めると同時にその対象が俺であることと事の真相に驚愕し、腰を抜かさんばかりだった。
「おい。玄関先でおらぶ(喚く)な。タミオ君は話し合いに来たんじゃろう?たちまち、あがってもらいなさい」
リビングから親父さんの太くよく通る声が響いた。
鶴の一声だった。
五者面談が始まった。
神父様かラヴィか閻魔様の如く落ち着き払った親父さんを議長に、いつもの朗らかさがすっかり消え、病的に心配そうな顔をしたお袋さん、怒りを滲ませ、今にも俺を刺しそうなキョウジュ、居場所がなさそうに青白い顔をした可愛そうな奈々。そして、俎板の上の魚の俺。
親父さんは大きな目で俺をじろりと見て、重い咳払いをして話し始めた。
「タミオ君。結論から言おう。ワシは奈々を嫁にやることには反対はせん。あんたは昔から逆境にあっても明るいし、馬鹿正直で友情に篤く、弱いもんに優しいし、人の痛みのようわかる奴じゃ。何億も稼ぐ冷血漢や国民のことをちいとも考えもせん議員連中よりも人間それが一番大事じゃけな」
最悪のケースはあまり想像できず、いい意味で油断していたとは言え、親父さんの俺を慈しむような言葉にはただ感謝しかない。しかし、そこは百戦錬磨の議員先生。落としどこともちゃんと心得ていらっしゃる。俺の表情の動きを確認してからこう続けた。
「しかしじゃ、これから奈々を嫁にし、子供も生まれるもんが風来坊ゆうわけにはいかまぁが。そこでじゃ。条件ゆうわけじゃないが、住むとこと仕事はワシが責任を持って世話しちゃるけぇ、これを機に堅気になれや。奈々はタミオ君を支え、子供を育てていくために今の仕事は辞める。それでえかったら結婚は認めよう」
寛大すぎる処遇だ。
今まで何千何万と言う無理難題の陳情や狐と狸の化かしあいの掛け合いで揉まれ、それらのすべてを解決してきた議員先生には細かい精査や根回しもいらず、寧ろ、仕事とも言えないくらい簡単な決断だったろう。
親父さんの大岡裁きで「これにて一件落着」と言うわけにはもちろんいかなかった。キョウジュは唇を震わせ、「ふざけるな。冗談じゃない!」と低く怒鳴った。
「パパ。こいつは親友みたいな顔をしとるくせに、裏では赤い舌を出して、その舌で奈々のオメコを舐めまわしとったんじゃ。オドレ、ワシが『奈々に男ができたみたいじゃ』ゆうて相談した時になんてゆうとったよ?ゆうてみいや。おう。恥ずかしゅうて言えまぁが」
責められても仕方がない。当然のことだ。それに、俺自身、ずっと罪に感じていたことだ。だけど、いくら怒りが制御できないからと言って、奈々の前でそんな卑猥な言葉を使って欲しくない。
「総司。お前にはわからんのか?ガキの頃からの友達と心底惚れた女の娘を好きになることにタミオ君がどれだけ苦しみ、葛藤したか」
「は?この外道には快楽しかあるわけあるまぁが。それにこんなん完全に意趣返しじゃろ。にしてもそこまでやるか?まさかそこまでワシを憎んどったとはのう」
「キョウジュ、そりゃ誤解じゃ」
「五階は紳士服売り場じゃ!ほう。言い訳するんならしてみぃや。どうやって奈々を言いくるめて毒牙にかけたんよ?この裏切りもんが。そこらへんの犬でももうちぃとマシな言い訳をするわ」
「パパ。もういい加減にして!タミオさんは、タミオさんは、ウチのキリストなんよ。パパに何がわかるん?」
奈々の怒声と同時にキョウジュのビンタが飛んだ。と言っても人を殴り慣れてない、或いは、殴ったこともない男の戸惑い、中途半端でどっちつかずな弱弱しいビンタだ。
俺は、咄嗟に奈々を庇い「大丈夫?」と叩かれた頬をさすった。
「キョウジュ。言葉で傷つけあうんは虚しいで。全ては奈々ちゃんに惚れて、奈々ちゃんに溺れたワシが悪い。ワシにも奈々ちゃんと同じ痛みを与えろ!気のすむまで殴れ」
「タミオのアホ!」
その拳は空を切った。
碌に喧嘩もしたことないくせに、と笑いそうになったが、その拳は涙で濡れていたので笑えるわけもない。
「タミオのアホ」
弱弱しく、虚勢を引っ込め、刃を抜かれてしまったようにキョウジュは女の如くメソメソと泣き始めた。それを笑えるはずもない。
大事なものを奪い去られるというのに力づくで取り戻すことも出来ないのだ。
それを笑えるはずもない。
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