第47話

 穏やかな一週間だった。

 あの何か起こりそうで何も起こらない、高校に入る前の春休みのような快適でありながらも微妙に満たされない日々に俺はすっかり弛緩していた。決してこれから起こりえることを想定できなかったわけではないが、緊張が解け、嵐の前の静けさに身を置くと、このまま一世紀でもその流れに流されて生きていたいなどと甘ったれたことを考えがちになる。

 友を見送り、今秋には新しい命の父になる俺にとって、これが最後の自由時間なる悪い予感などどこかに置き忘れてきたようにただただ暖かな春風に吹かれているような、或いは、俺自身が豊穣で穏やかな尾道の街そのものになってしまったような、その均衡を切り崩すものと言えば一つしかない。しかも、それは寒さと憤怒で震える血みどろの拳でドアをノックしようとしていた。

 天使が間違って降りてきそうな程、空が近く、青く、海に吸い込まれそうな四月の第一土曜日は誰にとっても平等に訪れ、誰にとっても幸福な一日であるべきだ。だが、そんな護憲派の如き平和ボケは許されない瞬間は覚悟していたとはいえ、物音一つ立てずに沈黙を破った。

 暗転する前は決まって快晴だ。

 俺は、いつかみたいに土堂小学校の屋上で大の字になって寝ころび、故郷の自由な風に吹かれながら、海を見ていた。土曜日なので、BGMはなく、喧噪も波の音も聞こえてこない。誰も訪ねては来ない。誰に訊いてもこのまま午睡へと続くとしか思えない、知り尽くした秘密の場所でのうららかな午後だった。

 三十分ほど軽く目を瞑り、気持ちよくウトウトと静かな寝息を立てていたら、明らかに異なる重さの空気と人気を感じたので目を覚ました。

 思いつめた顔をした奈々が不安そうに俺の寝顔を覗いていた。夫婦になるとは言え、寝顔を見られるのはなかなかばつの悪いものだ。裸と違って、寝顔は俺自身、一生見ることができないものだからだ。

「亀井さんに訊いたらここを教えてくれました」

「どしたん?奈々ちゃんも一緒に昼寝する?」

 そんな冗談でも言ってないと、奈々は今にも深いため息をつき、不安を吐露し、泣き出してしまいそうだった。カッコつけてもしょうがない。奈々と生まれてくる子を幸福にすることは俺の義務なのだから。

「タミオさん?」

「うん」

 奈々が今俺に欲しているのは白々しい冗談ではなく、真摯に向かい合ってくれることだと察し、俺は以降、口を慎んだ。

「タミオさん。どうしょう?ウチ、怖い」

「どしたん?何が怖いん?ちゃんと話せる?」

 マリッジブルーか?

 まぁ、それは根無し草の俺が悪い。誠意をもって話を聴こう。

 一分ほど言葉を待った。俺に会うことですら勇気が要っただろうに、要点を話すだけでもそれ以上に覚悟の要ることなのだろう。だから、急かさずに、圧をかけずに言葉を待つのが筋だ。

「今朝、つわりがひどくて、パパとおばあちゃまに問い詰められて…」

「…」

「そのう、白状しました」

「うん」

 そこを「飲みすぎた」などと適当に誤魔化せないのが奈々であり、平気で、それこそ息を吸って吐くように他を欺けるようなちゃらんぽらんな女ならば俺は奈々を好きになどなっていない。ついに来る時が来てしまったという押しつぶされそうな重圧と奈々の誠実さに救われた想いとが相剋して、俺の中で不協和音を奏でている。だけどそれは決して、絶望的な何かではないが、希望の芽があるわけでもない。強いて言うとすれば、「現実」と言うことだろうか?

「パパは『いったい誰の子か?』って顔を真っ赤にして問い詰めて来るし、おばあちゃまは心臓が苦しくなるし」

 それはそうだろう。大切に育ててきた深窓の令嬢が或る日突然、妊娠なんてした日には俺だったら怒るよりも前にショックで卒倒してしまうだろう。だから当然、キョウジュやお袋さんには申し訳なく思うし、経緯や真相を言葉で埋め尽くす前にまずは謝罪ありきだろう。大切なものを奪い去るだけならまだしも、半年もしらばっくれてきたのだ。責めを受けるべきは奈々ではなく俺だ。それも「裏切者」と誹りを受けるべき身だ。

「ワシのことは話したん?」

 奈々は首を横に振り、「明日、おじいちゃまが広島から帰ってくるんで、相手を連れてくるように言われました」と涙ぐんだ声で答えた。

 俺は奈々を抱きしめ、唇を耳元に寄せて「大丈夫じゃ。わかってもらえるけぇ、涙は拭いて」と割と明確で自信のある声で言った。本当は膝が震えていても、本当は不安でもそんなこと奈々にわかってしまったら、奈々はいったい何に寄りかかればいいというのだ?そう考えると張るしかなかった。張らなければ、俺は奈々を失い、流浪の日々に強制送還となる。張らねばなるまい。

「タミオさん」

「ワシらの子供が生まれてくるんじゃろ?で、奈々ちゃんとワシは同じ墓に入るんじゃろ?なんも怖いことなんかないって」

 その言葉はどことなく、明日の今頃の運命に慄く俺自身に言っているような気もしたが、奈々は涙で瞳と頬を濡らしながらも大きく頷いた。

 五者面談かぁ…

 親父さんはあの通り器の大きい人だし、お袋さんも相手が俺だと分かると味方に転じてくれるだろう。

 やはり、キョウジュか。

 まさか、あのシャイで大人しい聡明な男が敵として俺の前に立ちはだかる日が来るとは…

 いや。決して敵ではないのだが、父親として感情的になるのか、いつものように理路整然と理詰めしてくるかはわからないが、俺と奈々の未来の前で通せんぼしてくるであろうことは間違いない。

 どうか俺と奈々に慈悲と赦しを。

 

 だからと言って、その試験に合格できるような気がしなかった。

 その夜は寝苦しく、眠りの尻尾を掴みかけると、決まって痛痒い不安が割って入ってきて俺の掛け値なしの地力を嗤うように嬲り者にする。「お前のようなものが、お前のようなものが」と剝き出しの神経に鞭打つように、俺に親でも殺されたのかというくらいに情け容赦がない。

 それはまるで、キョウジュから受けるであろう冷たい拒絶を想起させ、「もしかしたら、俺は奈々を失うのか」という悪い運命の影が過ぎり、何度も寝返りを打ち、厭な汗をかきながら苛まれた悪い予感を何度も断ち切る。

 そんな救いのない賽の河原を繰り返されるうちに夜は明けた。

 そんなだから横になっていても疲れ果ててしまう。

 こんなコンディションで言うべきを言い、請うべきを請うことができるだろうか?

「これは惚れたものの義務なのだ」と甘えを断罪する。兎にも角にも、気持ちを切らせてはいけない。

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