第45話

 会場は夕方六時でクローズするので、開場は十三時、開演は十四時からと言うスケジュールなので、俺はあまり感傷に浸る暇もなく、会場入りした。

 会場は天井が高く、作りが銀行と言うよりも教会と言うか、美術館っぽく、ブンチンが青年部の若い子達を仕切り倒していて、展示物を移動させたり、ステージと客席を設営したりしていた。キャパは六十人と聴いていたが、オールスタンディングなら百人は余裕だろう。それを見込んでのチケット販売だった。

 普段は運営事務所として使っている十二畳ほどの楽屋に通されると、もう全員揃っていて、ライヴ前とは思えないくらいリラックスしている。エビスに至っては普段は主任が座っている大きめのデスクで「かねと」の仕出し弁当をがつついていた。多分、キョウジュが全員分取ってくれたのだろう。流石に酒の用意はないが、ブンチンが急ごしらえで作ったであろう神棚にはチャゲの写真と仕出し弁当と獺祭が供えられている。ライヴ前に全員で柏手でも打ち、心でチャゲと会話し、祈るつもりなのだろう。香港や中華圏のライヴでもアーチストが彼らの神である天帝様に豚の丸焼きを供え、線香を挿し、ライヴの成功を祈る習慣があると聴いたことがあるので、それに近いことを考えているのだろう。

「おう。タミオ。昨日はよう眠れたか?」

 スコアを手直ししていたキョウジュがあまり眠れていないような顔で訊いた。

「不思議よのう。チャゲが夢に出てきてよう、『死にきれん』とかゆうて色々カバチ(文句)たれとったで」

「え?タミオもかよ?」

「え?それワシもじゃ」

 ベースの弦を張り替えているオカケンと食後のおーいお茶濃い味を飲み干したエビスが続いた。

「キョウジュはどうなん?」

「うーん。不思議な夢じゃった。ワシに『タミオと奈々ちゃんの結婚を許しちゃれぇや』ゆうとったで。これがホンマのカバチじゃが」と片頬だけで笑った。

「それ、カバチって言い切れるんか?」

「カバチゆうたらカバチよ」

 エビスが意味ありげにほくそえむのをあまり真剣に受け取っていないキョウジュが右から左に聞き流す。俺にとっては少しスリリングなやり取りだったが、チャゲが皆の夢に満遍なく出てきたという事実は「不思議」と片付けてしまうには乱暴で怠慢に感じてしまうほどに必然と現実を感じる。ブンチンに同じ質問をするのは寧ろ、野暮と言うべきだろう。この神事とも言うべきライヴに仲間外れなど存在しない。

 そうこうしていると、「セッティングはだいたい終わったで。そろそろリハに入ろうや」と脚立を脇に抱え、張り切ったブンチンが現場の親方のようないで立ちで楽屋に入ってきた。ドラムを叩いていた時間よりも板金屋として小突かれ、怒鳴られながら過ごした時間のほうが長いのだ。現場で活き活きして見えるのは当たり前のことだろう。

「おう。今日はえらい先輩風を吹かしとってじゃのう」

「エビス。やめとけ。格安で借りれたんはブンチンのおかげで。一寸ぐらい威張らしてやらんとかわいそうじゃ」

「ほうじゃ。いらんことゆうとったら、上等兵殿のビンタが飛ぶで」

「わしゃ、四十過ぎてまだ上等兵か?」

 他愛もない冗談に皆が笑う。

 チャゲも横で笑っているだろう。

「キョウジュ。すまん。PAまでは用意できんかったわ」

「何ゆうとるん?音より気持ちじゃ。よし、通しで行こうか」

 気持ちを一つにし、俺たちは舞台に向かった。


 リハから本番までの二時間くらいのことがどうも記憶にない。

 記憶が抜け落ちているというよりも、高揚する気分と空気にテンションがこれ以上糸を張ったら切れてしまうくらいにまで最高潮に達していたので、現実と非現実の間に神隠しに遭っていたのかもしれない。勿論、体はちゃんと現実にいるのだけど、本当に存在していたのかと言う確固たる証拠が提出できない。つまり、その間の記憶が本当にないからだ。

 気が付いたら、ライヴはもう始まっていて、ビートルズの『Eight days a week』のエッドナインスのギターと三連符のベースのイントロが聴こえていた。

 こないだの横浜の合宿で、オープニングを何をするかで議論になった時、皆は当然、『Here comes the naughty boys』で行くものだと思っていたが、キョウジュの「2013年のポールの『Out there』のワールドツアーはこの曲で始まってえらい盛り上がったんで」の一言であっさり決まってしまった。ベースラインがポールらしくないほど単調なので、弾きながらでも大丈夫だろうということで、ポールのパートはオカケンが歌うことになった。

 チャゲの関係者は兎も角、弦さんのような古くから俺たちを知る人には意外な選曲だったようで、盛り上がりながらも意外そうな顔をしているのがステージの上からでもわかる。

 そこからキャッチ―な『Jade sea』に流れ、三曲目で『Here comes the naughty boys』が来ると、狭い会場で踊り出す人まで出てくる。つまり、先にスープとサラダとアペタイトを出してからのメインということで、この「ため」が効いているのだ。長らくステージから離れていたキョウジュがこんな構成の仕方をいったいどこで体得したのか?我々、鈍才にはわかるはずもない。

「皆、今日は全国からワシらぁの友達のために集まってくれてホンマにありがとう!あいつも今頃、ステージの隅で皆に会えて喜んどると思けぇ、最後まで笑おて盛り上がってやってください。よろしく!次の曲は尾道のジミヘンのギターが唸ります」

 エビスを紹介すると、美しくも悲しいリフの『Deep inside』を弾き始めた。

 これはエビスがリフだけ作って持ってきたのをキョウジュが主メロを付け、俺が歌詞を書いたものだが、全体を通してジミヘンの『Little Wing』っぽい。ここにきて六十年代後半を思わせるヘビーなリズムアンドブルースをぶち込んでくる。ギターソロになるとエビスの半笑いが消える。黙っていればいい男なのだ…

 五曲目は打って変わって、『Starlight』。

 言うまでもなく、光GENJIのデビュー曲だが、楽曲提供者はチャゲアスであり、本人たちもセルフカヴァーしているので、チャゲもチャゲを慕う人たちも許してくれるだろう。この曲はベースが難しく、最初の頃は「あんだけ曲があんだからよぉ、他のにしろよ」と文句を言っていたオカケンも今ではすっかりグルーヴしながら弾いている。赤坂君のパートが意外と高音だが、ハマると気持ちのいい曲だ。

 六曲目ではじめてスロウナンバー『海へ行く日』を歌い始めると、水を打ったように静寂が訪れ、俺も会場を見渡せる余裕が出てくる。大部分は「ファンの鑑」とチャゲを慕うチャゲアスファンの人たちだが、すずちゃんや弦さんや茶谷先輩や亀井君の顔も見える。奈々は…

 いた!

 前列の端でライカを構えている。

 取材なんだろうか?

 今すぐ曲目を変更して、クリスマスに奈々の寝顔を見て作った『マリア』を歌いたくなるが、この曲も私小説風な歌詞なので、自分のことを歌っていると誤解してほしいと思いながら俺は「海に行く日の朝のような穢れのない気分で僕は君を迎えに行きます」と想いを込めて歌った。

 次の曲はキョウジュがこないだ横浜で作った『Out of dolphin』だが、これはインスト曲で、要は、YОSHIKIや小室哲哉がライヴでやっているピアノソロのコーナーであって、キョウジュの独断場なので、俺たちは楽屋に戻って、冷たい飲み物を飲みながら、その調べに酔いしれている。一瞬で会場に横浜の風が吹く。元々、川崎の人間のオカケンは「へぇ。そうくるか。やるじゃん。流石キョウジュだな」と知世ちゃんからマッサージを受けながら感心しきりだ。

 ここまでの流れは完璧と言っていい。









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