第44話

 快楽を経由せずに落ちた眠りまでは快楽と言うわけにはいかなかった。

 てっきり、手を繋いだままの奈々と南国の青い波打ち際で愛を語らう夢でも見るのかと思ったら、不機嫌な鉛色の冬の海から何日も漂流し、体中ダメージを受け、ずぶ濡れになったチャゲが全裸で打ち上げられて、俺は必死にチャゲの頬を打ち、心臓マッサージをし、「おい。チャゲ。しっかりせいや」と励ますと、チャゲは緩慢に目を開け、「タミオ。わしゃ、死んどりゃせんよのう?死んでなんかないよのう?」と目を見開き、俺にキスでもしそうな勢いで訊いてくる。

「残念じゃが、もう葬儀も終えて、骨になっとる。筒井のおっさんがお経あげてくれたん聴いてなかったんか?」

「やっぱり、そうなんか?」

「大酒飲んで水死体ごっこなんかやるけじゃ、アホ」

「『アホ』ゆうなや。これでも後悔しとるんで」

 チャゲは海水を飲み浮腫んだ顔でいつになく淋し気に言った。

「まぁ、これも運命で寿命なんじゃろうけど、すずちゃんのこと考えたら、なかなか死にきれんでのう」

「まだ二十歳じゃもんなぁ」

「タミオがもろうてくれんか?」

「籍はどうするんな?第一、すずちゃんの気持ち考えや」

「そりゃそうよのう。それに、タミオには奈々ちゃんがおるしのう」

「知っとったんか?」

 俺は、銀行員か政治家が長年の背任行為を白日に晒されたのかと思うくらい取り乱し、焦ったが、相手は密告することも証拠を提出することもできない、すでにこの世に存在しない人間であることに気付くのに数秒かかった。

「見えんもんが見えて、聴こえんもんが聴こえるんが霊で。こんなら(お前たち)のことはみなお見通しじゃ」

「ホンマに因果は巡り巡るもんじゃのう。今じゃ奈々ちゃんがおらん世界なんか考えられんわ。惹かれおうとる理由を説明せい言われても、よう言わんわ」

「まだキョウジュは知らんのじゃろう?どうするんや?」

「明日、明日ゆうても今日じゃけど、チャゲの追悼コンサートが終わるまでは波風は立てれんよ。じゃけど、もう時間の問題よ」

「折角、バンド復活したんに、一夜限りになりそうじゃのう」

「うん。バンド継続はちいと無理そうじゃけど、高校生に戻ったみたいで楽しかったわ。礼を言うで」

 俺は深々と頭を下げ、チャゲに握手を求めた。

 チャゲの手は死人のように冷たかったが、その喩えは可笑しいし、チャゲも俺の考えていることはわかるようで、「アホじゃのう。死人の手は冷たいに決まっとるわ」と苦笑した。

「死にきれんそうじゃが、これからどうするん?」

「たちまち(とりあえず)、今日は舞台の袖からコンサート観させてもらうわ。肉体はのうなっても、友情はのうならんけぇのう」

「ええ言葉じゃのう」

 チャゲは得意げに親指を立てて続けた。

「キョウジュとうまいこと話がついて、秋には奈々ちゃんそっくりの可愛い女の子が生まれてくるとええのう。僭越ながら祈っとるで」

「え?それもお見通しなん?」

 チャゲはそれには答えず、二ヤリと笑った。


 十五分から二十分ほどの短い夢から目覚めると、もう夜は明けていて、俺は龍のねどこの個室の布団で横になっていた。

 奈々が送ってくれたのだろうか?

 それとも、昨夜、奈々と逢瀬を重ね、車の中で口淫で果てたことも夢だったのだろうか?

 駅で皆と別れてからの記憶がどうも曖昧だ。

 亀井に訊くと「昨夜は十時過ぎには戻られて、すぐ部屋でお休みになられてましたよ。ええ。多少、酔っていらっしゃいましたけどね」と言うし、スマホを見ても奈々に連絡した形跡はない。

 不思議と言うよりも、なんだか非現実な夢と夢が次々に交差する、たけしさんの映画『TAKESHI`S』の世界観を思い出した。

 俺はスピリチュアルなことは余り信じないほうだし、チャクラも開いてはいないが、昔から死んだ人が夢に出てきて、その人しか知りえないようなリアルな話をすることがよくある。チャゲの話を信じるなら、その魂はまだこの世を彷徨っていることになる。そういった浮遊した状態がいいか悪いかと言えば、「いい」とは言い難いだろう。だから、今夜の追悼コンサートでは「俺たちはいつまでもお前のことを忘れないし、すずちゃんはすずちゃんで自立して生きていくから、煩悩や執着は一切捨てて、すがすがしい気持ちで彼岸に旅立てよ」という想いを込めて演奏しなければいけない。本来これはお経をあげる僧侶の役割だと思うのだが、筒井のおっさんでも及ばないことだってあるのだろう。

 そう考えると、ライヴ当日独特のあの強い酒で呷っていないと、メンタルが持たず、足が震えるなんてことはなく、俺たちのやろうとしていることは布教や奉納や祈りを捧げることに近いのだと思う。

 一方、今日はもしかしたら、キョウジュと笑って話せる最後の日になるのかもしれない。

 奈々と結婚する。

 お腹の中には俺の子がいる。

 普通ならば、祝福され、人生の節目に吹きはじめた違う風を受けて、やる気と幸福に震え、胸の高鳴りに絶叫しそうになるところだ。

 普通ならば。

 舌戦となるのか、粛々と詰められるのか、はたまたぶん殴られるのかわからないが、平和裏のうちに話が進むとは思えない。

「偽証した」或いは、「裏切った」と言われても反論する資格はない。「たまがんぞう」に呼ばれたときに正直に「奈々ちゃんと付き合っている。奈々ちゃんが好きだ」と話していれば、という「たられば」は虚しいし、あの時ならば、キョウジュの体力とメンタルが持たなかっただろう。

 それゆえに今日と言う日は貴重だ。

 卒業旅行の最終日に空港に向かう前に飲む最後のビールのように清涼な気持ちで一切を迎えたい。

 俺たち六人、最後の日。



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