第43話

 

 結局、あのあとすぐに香港の著名な映画俳優からお忍びで一週間ほどの宿泊予約が入ったので、添田さんの尾道行きは立ち消えたが、台風の進路が変わった時の安堵と身代わりで被害を受ける地域の方々を気の毒に思う、あの独特の感情に近いものを感じた。

 本番の前日、肉を食べてパワーをつけて明日を迎えようということで、福山駅でオカケンと知世ちゃんと合流して、高校生の頃から通っていた駅前のスガナミ楽器の通りにある「一番食園」の焼肉で決起集会となった。

 尾道はラーメン屋と魚料理は充実しているが、肉料理となるといい店がてんで皆無だ。魚よりも肉好きの少数派の尾道人はこうやって昔からお隣の福山、松永、三原、県境を越えて笠岡あたりに行きつけの店を一軒や二軒必ず持っているものだ。駅裏の「福城苑」は平日でも予約をしなければ入れないし、伏見町にあった「青島」は二十年ほど前になくなってしまったし、「福ちゃん」は駅から徒歩二十分と遠いので、焼肉と言えば自然とここになる。

 店は昭和四十年代で時が止まっていて、カウンター三席、小上がり二席と小規模で、一番奥の広い小上がりの席でも六人だと手狭なくらいだが、煙モクモクの昭和なロースターで焼かれる歯の要らないカルビや厚切りで脂の乗ったタンや脂の甘さがくせになるホルモンにしつこさはないのに肉のうまみを引き立たせるタレは昔のままで、サーバーのメンテナンスの行き届いた生ビールとの相性は最高だ。

 俺は「そう言えば、海外で焼肉なんてほとんど食べたことがなかった」という事実を思い出し、懐かしの味に涙するのだ。尾道に戻って、最初に魚を食べた時もそうだった。

「おう。タミオ、どしたんや?泣きよるんか?」

 目敏いエビスが半笑いで訊く。

「煙が目にしみたんよ」

「ほう。煙が目にしみて真実が見えんのんか?」

「友達は隠せんワシの涙を嘲笑しとるげなのう」

「彼女は去ってしもうたけぇ、しょうがなぁわのう」

「そして、恋の炎は燃え尽き、煙が目にしみるんじゃ」

 スタンダードナンバーの歌詞を取り込んだ俺とエビスの一寸した言葉遊びに知世ちゃん以外が笑った。誰もこの時ばかりは「彼女ゆうて誰のことなら?」などと無粋は言わなかった。

「それはそうと、オカケンよ。なんぼ精をつけたゆうても、今晩だけは精を使うようなことはすなよ。本番は明日じゃけな」

「エビス。お前がだよ。調子に乗って、松浜町のプレジャーランドなんかに行くなよ。淋しい病気を貰っても俺は知らねぇからな」

 エビスは覚えがあるらしく、黙ってしまった。

「おう。今日は二次会はなしで真っ直ぐ尾道に帰るで。鯨飲するんも泥酔するんも明日、チャゲと一緒にじゃ」

 キョウジュはキムチを巻いた塩タンをマッコリで流し込んで真顔で言った。

 流石にここから遊び歩こうと考えている不届き者はいないようだった。


 十時過ぎに尾道に戻って、駅で解散し、三々五々に家路についたが、俺は眼が冴えているし、なぜか気持ちがソワソワしているので、「龍のねどこ」には帰りたくなくて、強めのお酒をワンショットか、奈々のぬくもりが欲しくなったので、「明日の本番が怖い。一人で眠りたくない」とマザコンのような文面のショートメールを奈々に送った。

 相変わらず、忙しくしている奈々に何と自己中心的で不真面目でろくでなしな態度なのだろう。しかも、奈々は何の疑いも持たず、駆けつけてくるのをわかったうえで、甘ったれているのだ。少しは奈々の体や生まれてくる我が子を気遣えばいいのに、肝腎な時に節制ができない。要は、俺には嘘をついてまで紳士でいれる時といれない時があるのだ。我ながら情けない。

 結局、奈々と落ち合えたのは、日付が変わり、追悼ライヴの当日になっていた。

 いつもの尾道城址には人もおらず、深い紫の最後の色彩をも黒く塗りつぶそうとしている闇に沈む暗い海と月明かりだけが俺たちの秘密を盗み見ようとしている。彼らが神様に告げ口したところで、何のお咎めもあるわけがない。

 一週間ぶりに見る奈々は、まだお腹は目立たないが、何人が割って入ろうともお腹の中のこの子だけは死守しようという覚悟で、曖昧で脆弱な部分が消え、すっかり母親の表情になっていたのに驚いた。

「ごめんなぁ、奈々ちゃん。ワシ。不安で眠れんのよ」

「あら?ウチは子供が二人出来たんですかね?」

 今までの奈々ならば、困惑しつつも、受け入れてくれたものだが、母性の厳しさの部分に目覚めたのならば一寸、困るし、調子が狂う。

「ほいじゃったら、ワシ、奈々ちゃんの子供になる」

「しっかりしてください、もう!」

 奈々は痛くないように俺の頬を張った。

 それはそうだろう。

 女はいつだって強く、しなやかで、且、美しいDNAを求めているというのに、俺ときたら、まるで期待された方向性と逆のことをやっている。本気で甘える気などなかったとは言え、なかなかこれ恥ずかしいことだ。もう俺と奈々は只の恋人同士ではないのだ。生まれてくる子供に人として、或いは、日本人として恥ずかしくないようにバトンを渡さないといけないのだ。それなのに…

 俺は珍しく、落ちこんだ。

 落ち込んではいたが、さっきの焼肉のおかげでまるで落ち込んでいない箇所が約一か所ある。

 福山で焼肉を食べたら、松浜町か当時、国道二号線にあった「みつばち」が定番コースだったとはいえ、当時の倍の年齢になり、そんな「やんちゃの記憶」は遠い日の花火だとばかり思っていたが、こないだの健康診断の優秀な結果は伊達や酔狂ではないようだ。

 奈々はそれに気付き、「タミオさん。ぶったりしてごめんなさい。甘えたいんじゃなくてしたかったんですよね?」とジーンズ越しに起立している落ち込んでない箇所を愛撫した。

「ホンマにワシ、そういうつもりじゃないんよ」

「タミオさん。かわいい」

 柔らかで花の匂いのする奈々の唇。

 尾道駅のセブンイレブンでブレスケアを買っておいて正解だった。そうでなければ、流石の奈々も口づけを躊躇っただろう。 

「でも、子供が吃驚したら困るでしょ」

 奈々は歌うようにそう言うと、ジーンズのジッパーを下ろし、健康優良児のそれを咥えこんだ。二十三歳まで処女だった女の口淫なので、たかが知れているが、その温かさときたら、俺の不安を取り除き、眠りに誘うに十分だった。

 手を繋げば、もう明日の不安などなかった。

 俺は快楽を経由せずに眠りに落ちた。 




















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