第41話
翌日、ダイニングのソファで目覚めた時は、ブンチンは走り込みを終え、基練を始めていたし、エビスとオカケンは多分、添田さんが作ったであろう、鰆の西京焼きとビーフシチューをソースにしたオムレツをおかずにのんびり朝食を食べていたし、キョウジュは腕を組んで楽譜とにらめっこしていた。
昨夜はあれから添田さんを囲んで六人で飲みながら雑談をして、「チェッカーズが解散した時は高二だった」ということで添田さんが同い年だと知ると、俺はいつもの調子で図々しく下の名前で「静香ちゃん」などと呼ぶと、「それじゃタミ君のベットはソファね」と部屋割りを決められてしまったのだった。まぁ、俺のような人生を生きていると、いつもベッドで寝れるとは限らないので、特に不服はないし、どこででも五秒で寝れるのが俺の強みだ。
「おう。タミオ。流石、野生児じゃのう。ブンチンがドンチャカやっとるんに鼾かいて熟睡とはのう」
「鼾はかいてなかろうが」
からかうエビスを軽くあしらい、テーブルの上のフルーツ皿の林檎を齧って、窓の外の横浜の海を見た。今朝の横浜の海を渡る風はこの時期にしては珍しく、南が強い。見飽きた尾道の海と違って、この海は太平洋を越え、アメリカに繋がっている。
高校を卒業後、一年間、ロサンゼルスのリトルトウキョウの郵便局の通りで雑貨屋を営んでいたじいちゃんの末の弟、龍三郎叔父さんの仕事を手伝っていたことはのちの流浪経験に大いに役に立った。身内に対する仕打ちとは思えないほど低賃金でさんざん小突かれ、こき使われたが、ドジャースタジアムで見た野茂のバッタバッタと三振の山を築く神がかったピッチングと龍三郎叔父さんの孫娘のエリーの作ってくれたタコスとジュリーロールブレッドの味は死んでも忘れない、甘く苦い青春の思い出だ。
「あら。タミ君。おはよ。ブランチに何か食べる?」
俺にだけは心許した添田さんが訊いてくるので、「白身カリカリ黄身ジュワーのベーコンエッグとシナモン抜きのフレンチトースト。サラダは林檎の入ったフルーツサラダ。あと、砂糖なしのカフェオレをお願い」とこと細やかにオーダーすると、「ふーん。洋風なんだね」と意外そうな顔をして下がって行った。
「添田さんってタミオには気安いんじゃのう」
「同級生じゃもん」
「ワシらには『何か召し上がりますか?』なんてゆうくせによ」
「意外とタミオに気があったりしてな」
「オカケン。何ゆうとるんなら?静香ちゃんは人妻で」
「いや。添田さんはバツイチじゃけ、今はフリーよ」
「キョウジュまでアホなことゆうなや」
「タミオみたいな自由奔放なタイプには添田さんみたいな堅実なタイプが合うんよ。恥ずかしいんじゃったらワシから話をしちゃろうか?」
珍しく、キョウジュが世話を焼いてくるので「義父なんて冗談じゃない。こぶ付きは御免こうむるで」と一蹴して「はっ」とした。俺はこないだ奈々にプロポーズしたばっかりだし、奈々のお腹には俺の子がいるという紛れもない事実。来る時はもうそんなに待ってくれない。張り詰めた緊張感で俺は食べさしの林檎を落とした。その落とした林檎が何を意味しているかを考える余裕もなかった。
「タミオ。どしたんや?」
「からの一目惚れか?」
「こりゃ、奈々ちゃんにチクらんといけん」
「エビス。なんでや?」
会話はまるで膜の外か水の中から聴こえてくるようで、現実感がまるでなく、俺は奈々のことを考えていた。
朝食後、午前中は新曲、俺の曲で台湾の月下老人様のことを歌った『あこがれのミスタームーンライト』とキョウジュ作曲の『エデンの東』のアレンジを最終的に決め、追悼コンサートのどのへんで演るかを熱っぽく語っているうちに正午になったので、件のここから徒歩十分ほどの「カフェレストランドルフィン」でソーダ水でも飲みながら「海の見える午後」を過ごそうかと提案したが、横浜生まれ横浜育ち、生粋の浜っ子の添田さん曰く、「あの辺はこの十年でマンションが林立しちゃって、景観が変わってしまったし、お店自体も寂れちゃったんで、ユーミンの曲の世界観を期待して行くと、きっとがっかりしますよ」ということだったので、朝に引き続き、添田さんを頼る。
「こんなものお好きかしら?」と出てきたのは、ピラフとナポリタンと目玉焼きの乗ったハンバーグとクリームソーダだった。「へぇ。懐かしの喫茶店メニューじゃな」とブンチンが嬉しそうに目をパチクリさせると「実家が喫茶店だったもんで、こういうの得意なんです。ガーリックブレッドもありますんで欲しかったら仰ってくださいね」とそっけないながらも少し誇らしげだった。
ナポリタンは横浜発祥だそうだが、添田さんのそれはパスタがモチモチでどちらか言えば令和の味だが、多分、ご実家の喫茶店も時代の流れとともにアレンジを加えていったのだろう。ハンバーグは赤身が強く、肉肉しいが、チェダーチーズソースと合わさるとバランスが良くなる。
「女に胃袋つかまれると逃げられんようになるゆうんは真理じゃのう」
「そういや、『胃袋つかまれた』オカケンよ、岡本賢哉君よ。知世ちゃんはどうしょうるんよ?」
「今日、夕飯作りに来るって言ってたけどなぁ。あとでLINE入れてみるわ。てゆうか、お前ら、メシ食いに横浜くんだりに来たのかよ?」
「これはオカケンが正しいで。午後は休憩なしで練習じゃ」
キョウジュの号令に「余計なことを言ってしまった」と言わんばかりにエビスの顔が曇った。
午後からは本番を想定して、セットリストを曲順通りに三回続けて通しでやった。
文章で書くと容易いが、要は、ライヴを三回やったのと同じことであり、四十代のおじさんたちには消耗が激しく、重労働だ。キョウジュも含めてキョウジュの千本ノックに息も絶え絶えだ。今更、初歩的なミスはなく、「オカケン。この曲はもう一寸、ベース上げ目で」と細かい注文を付ける程度で、俺自身も新曲を含めてとちることもなかった。よっぽどのことがなければ、俺たち史上最高のライヴをチャゲに奉納できそうだ。
ほうほうの態で順番にシャワーを浴び、お疲れのビールを流し込んでいると、添田さんと親し気に談笑しながら知世ちゃんがやって来た。横浜で見る知世ちゃんは男の影を踏まない昭和の女ではなく、どことなく凛々しく見えた。
「あれ?随分、仲良しじゃねぇ」
俺が驚きをそのまま口にすると、添田さんは「タミ君。世界は本当に狭いね」と可笑しそうに俺の肩を小突いた。
「ピンポン鳴らしたら、春香ちゃんのママが出てくるんですもん」
「私もエビスさんあたりがデリヘル嬢でも呼んだのかと思ったら、知世ちゃんがいるんですもん。もう吃驚しちゃって」
「え?知世ちゃんて東京じゃなかったの?」
オカケンが知世ちゃんの出生地と意外と饒舌であることの両方を初めて知ったように興奮気味に質した。
「中学まで横浜駅の近くの平沼で育って、春香ちゃんちはおじいちゃんが喫茶店をやってらして、あそこのナポリタン美味しかったなぁ」
「このおじさんたち、そのナポリタンに感動してたわよ」
「そりゃそうでしょ。全国ナポリタン選挙があったら優勝ですよ」
「夜も作っちゃおうかなぁ」
「本当ですか?超うれしいです。私手伝います」
添田さんと知世ちゃんは仲の良い母娘のように階下のキッチンに消えていった。
活発な知世ちゃんを見て、オカケンは些かショックを受けているようなので、俺は「オカケン。飲むか?」とモエシャンを抜いた。こういう時は深く考えずに少し酔っぱらったほうがいい。チャキチャキの知世ちゃんも素敵だとすぐに気づくだろう。
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