第39話

 二日後に精密検査をしたが、どこにも異常が見られなかったどころか、内臓や骨や血管の年齢が二十代後半などと褒められ、担当のドクターからは「私が羨ましく思うほどの健康体。今後も気を抜かずに、引き続き健康に留意するように」とキョウジュから言わせると、「その年齢で肝臓やコレステロールの数値や血圧のことで医者に怒られないのは珍しい」のだそうな。

 健康に留意も何も、酒は適量、煙草は二十歳でやめた。イライラする前に「兎角、世の中はうまくいかないもの」と諦める。だけど、寒さと空腹は我慢しない。人は寒くてひもじいと死にたくなるからだ。世界中どこに住んでも「よく食べ、よく笑い、よく喋り、よく歩き、よく眠る」を心がけていただけで、何も特別なことはやっていない。上手くやっていけなさそうな人や波長の合わない人とは無理してビジネスをしないし、身の危険を感じたら、恥も外聞もなく逃げる。何より、健康と長寿が幸福であると崇拝しない。「それが私の健康法です」なんて言ったら、それこそドクターに怒られる。

 退院当日、キョウジュは尾道市大のシンポジウムで講演するとかで立ち会えないので、代わりに奈々が車で迎えに来た。

 一寸、まだ歩く時に違和感があるので、いざという時の支えになるのが痩せっぽっちのキョウジュではなく、豊満な奈々であることは心強いものだ。

 キョウジュは保険で云々なんて言っていたが、いざ受付で精算となると、払い戻しは来月以降になるので、一旦は納めてくれと言うので、仕方なくVISA付帯の臺灣銀行のキャッシュカードで支払おうとしたが、何度やってもエラーが出るので、首を傾げる俺に奈々が誰にも見えず、気付かれないようにこっそりとエルメスの財布を隠れて俺に手渡してくれた。

 俺に恥をかかせない心遣い。

 別に所持金がないわけじゃないが、自己犠牲を躊躇わないというその高潔さが尊いし、必要以上に恩に感じ、平伏すると、逆に奈々の自尊心を傷つけてしまう。

 きっと、奈々は俺が窮地に立たされても毅然と振舞うことのできる強さと月明かりのように道を照らす母性もちゃんと持った女なのだ。こういう女を裏切ってはいけない。その想いはずっしりと重くあるべきだろう。進駐軍の悪意で絶滅危惧種になってしまった大和撫子の最後の生き残りの一人であることは疑いようもない。

 俺が奈々との結婚を決心した瞬間だった。

 それが幸福へと繋がっているのか、転落へと繋がっているのかなど考えられないほどに迷いなく、まっさらな気持ちで運命と向き合おうと思った。

「奈々ちゃん」

「タミオさん」

 駐車場に移動している途中、声が重なった。

 それがたとえ考えていることが同じではなくても、末尾だけでも想いが交差したようで悪い気はしない。

「どしたん?」

「あのう。タミオさんからどうぞ」

「一寸、なぁ、大事な話なんよ。奈々ちゃんは?」

「ウチも大事な話が…」

「女性優先」

「…」

「車の中で話そうか」

 確かに、「大事な話」が他人に聴かれるのはまずいし、芝居じみた自己顕示欲全開でそれを打ち明けるなんて、小慣れた九時のドラマじゃないんだ。

 話が終わる時にはもう初々しさにも馴れ合いにも戻れないということは奈々の凛としながらも震えている背中を見ていると何となく理解と覚悟ができた。奈々から見た俺もきっとそうに違いない。

 助手席に座ると、奈々の匂い立つ甘い体臭に密室に軟禁されたみたいに脳と五感が幸福感と安心感で満たされ、普段の俺だったら欲情し、一も二もなく耳元に唇を寄せ、「奈々ちゃん。可愛いよ」などと囁くところだが、病み上がりと言うのと、今後の人生を左右する類の話であるので、「穢れ」や「衝動」は話が終わるまでは横にうっちゃっておかなくてはならない。

 奈々はサイドにもステアリングにも触れず、キーにすら触れず、決意と迷いの間で揺れる目でずっと俺の目を見詰めている。「何も心配せんでええんよ」と抱きしめたくなるが、括約筋に力を入れて、痩せ我慢して言葉を待っているのも悪くないものだ。幸福な時は十年が一分に感じる。それなりに長い時間だったのだろう。俺は言葉を待った。

「タミオさん」

「うん」

 沈黙が破られ、不安がる奈々の手に包み込むように優しく掌を重ね、頷く。

「タ、タミオさん。タミオさんの子供が…」

「え?」

「三か月だって」

 その告白は俺と奈々の世界を変えてしまうには十分な破壊力を持っていたが、ずっと家庭と無縁で生きてきた俺には当初、不思議な響きのする古代の言葉を聴いているような感覚だったが、段々と現実の色が塗られ、その意味が分かっていくにつれ、ずっと不安で霧と靄と闇夜を己の才覚と感覚だけで歩いていくしかなかった未来に奈々と新しい命の姿があることが俺には過ぎた果報のように思え、キョウジュを騙し通したことの罪とこれから越えなければいけない壁のことなど色褪せてしまいそうだった。

 こういう場合、大概の男は焦るか、取り乱すか、「本当に俺の子供なのか?」と決して口には出せない疑念を抱いたりするものだが、俺にはその未知の世界に苦しみを超越した安らぎがあることを感じていた。奈々でなくてはこんなことは確信できまい。運命の女の強みだろう。

 それにしても、台湾の月下老人様は随分とせっかちだ。子まで授けてくれるなんて、粋な神様もいたものだ。早速、譚さんに報告せねば。

「この一週間、タミオさんの子供ができたという嬉しさよりもこのままタミオさんがおらんようになったらどうしょうと言う不安で、ウチ、ホンマに怖かったんです。パパに知られるより怖かったんです」

 奈々はお見舞いに「来なかった」のではなく、「それどころではなかった」のだ。一瞬でもキョウジュの横槍を疑ったのが情けなくなるし、その間、不安に寄り添えなかったことが男として恥ずかしい。

 誰にも言えず、相談もできず、ツラかったね、奈々ちゃん。

 俺は奈々の真珠のような涙に誓うように、且、祈るように一世一代の台詞を優しく、明瞭に奈々に語りかけた。

「じゃったら答えは一つしかないで。奈々ちゃん。結婚しよう」

「ホンマにウチなんかでええんですか?」

「ええに決まっとるじゃろ。奈々ちゃんは?」

「はい」

「ありがとう。ワシの大事な話ゆうんはそれじゃったんよ」

 奈々は、それで泣き止んで、笑ってくれると思っていたが、ずっと泣き続けた。人は幸福でも涙を流すのだということを奈々の無垢な涙が教えてくれた。

 そして、俺は加奈子との約束を果たせ、因縁を断ち切った喜びも束の間で、次に待っているのものがいくら弁が立ち、ハードネゴシエイターの俺ですら簡単ではなく、場合によっては長年の友情が終焉を迎えてしまう事態にもなりかねないことを忘れさせてしまうほど、喜びは大きく、奈々の涙は美しかった。

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