第38話

 

 台湾での約五十時間の滞在はどこかに原作と脚本が存在しているのではないかと思うほどできすぎていた。

 あのあと、情人塔から淡水の夜景を見せると、酔いしれたように亦、俺を試すように奈々は「ここが幸福の極点。タミオさんはウチと一緒に死んでくれるんですよね」なんて問うものだから、俺はあんまり深く考えずに「当たり前じゃろ」と曖昧な永遠の約束をした。多分、それが履行されることはないだろう。ただ、正論で正すのが酷く野暮なことに思えただけこのとだ。奈々は満足そうにうなづくと、渇望を潤わせるような甘く燃えるような口ずけをせがんだ。俺は何となく、これがこの世での最後の口ずけでもいいように想いを込め、奈々を抱き寄せた。淡水の優しい夜が俺と奈々を抱擁していた。

 翌日は午前中に台北当代芸術館で台湾の現代アートと万全茶行で台湾茶を取材し、「欣葉」の名物マネージャー黄さんに元気な顔を見せ、蜆の醤油漬けと切り干し大根の卵焼きを包んでもらったくらいで、あとは陽が沈むまでホテルの十階のクイーンズルームで出奔し、事件までの十一日間の阿部定と石田吉蔵がそうしたように肉に飢えた獣ように激しく求め合い、恥じらいもモラルもない畜生の性愛のように何度も愛し合った。

 そんなことがあって疲労困憊したからかどうかはわからないが、帰国後、俺は珍しく、体調を崩した。

 熱があるとか、どこかが痛むとかではないのだが、いくら寝ても倦怠感と眠気が取れず、起きられず、数分もしないうちにまた眠ってしまう。夕方くらいに目覚めて、「今度こそは」と意志を固くしてもまたしても眠ってしまう。三日ほどそんなことを繰り返したので、練習を無断欠席してしまう。流石に心配したキョウジュとエビスとブンチンが「龍のねどこ」に訪ねてきたみたいだが、俺は眠り続けていた。まるで死期の近い犬のようなていたらくだ。

「おい。このままなんてことになったら、よいよシャレにならんど。亀さん。百十九番じゃ」とキョウジュが救急車を呼んでくれ、俺は搬送された。その記憶は全くなく、その翌日に目が覚めた時は日は暮れかけていて、俺は点滴を打たれていた。随分と静かなので、山寄りの市立市民病院だろう。

 目の接点が合うと、小さく歓喜したキョウジュが「おい。タミオ。大丈夫か?ワシが誰かわかるか?」と白く細長い女のような手で俺の手を握った。

「いかりや長介」

「こりゃいけん。脳をやられとる」

「冗談じゃ。キョウジュ」

「ほいじゃぁ、中二の時の担任ゆうてみぃや」

「担任が筒井のおっさんで副担が体育の鬼テツ」

「中山美穂のデビュー曲は?」

「『C』」

「加奈ちゃんの眉毛の上の黒子は左か?右か?」

「右」

「おお。ホンマに大丈夫なようじゃ」

「のう。ワシ、何日も眠り続けとったんで。ホンマに大丈夫なんか?」

 多少、倦怠感が取れ、頑張れば起き上がれそうだが、何日も内臓や筋肉を使っていないのだから、無理はできないし、第一、ここまで心身ともに頑丈で明朗活発に生きてきた俺だ。難病の可能性だって否定できない。

「タミオ。ごめんのう。バンドのこととか奈々のこととか色々と押し付けてしもうて。タミオが二十三年も海外で切った張ったや伸るか反るかで生きとったことなんか全然、理解してなかったわ。ホンマ、こらえてくれぇや」

 キョウジュは今にも泣きそうな顔で謝っているが、何かそれは違うような気がしたので、俺は首を横に振ってその考えを否定した

「何ゆうとるん?あとひと月もないんに練習サボってしもうて。謝るんはこっちよ。ところで、ワシの体はどうなっとるん?」

「過労と心労が蓄積して一時的にナルコレプシーみたいな状態になっとるんじゃそうな。時差ボケの一寸、やいこしい奴かのう?血液検査も異常ないし、PCR検査も陰性。二三日様子見じゃな」

「ほうか」

 過労と言えば、過労だろう。

 台湾では色んなことがありすぎたとはいえ、四十過ぎて、一日に五回も六回も情を交わすなんて、加藤鷹あたりの本職でも重労働だろう。それが呼び水になって、長年、異国で暮らしてきた疲れや滓や歪みが一気に溢れ出したというのが俺の見立てだ。死にはしないだろうが、心配してくれ、付き添ってくれたばかりではなく、病院の個室まで手配してくれたキョウジュの優しさと友情には感謝せねばなるまい。

「キョウジュ。ありがとう。感謝するで。仕事は大丈夫なんか?」

「こういう時の為の有給じゃ。『一週間、自分を見つめ直してきます』ってゆうたら、『君に辞められたら困る』ゆうて教頭慌てとったで」

「そりゃ、天才音楽家に辞められたら、懲戒免職もんじゃろう」

「ははは。じゃけぇ、ワシのことやバンドのことは心配せんでもええ。入院費も保険で落ちるように手配しちゃるけぇ、ゆっくり治せや」

 慈父のように微笑むキョウジュの横顔を見ながら、ふと奈々のことを考えた。

 そう言えば、不自然なくらいに奈々の名前が出てこない。

 俺のことは伝えていないのか?それとも「来るな」と釘を刺しているのか?

「タミオがおらんようになったら、人生がまた元通りでよいよつまらんようになるって思うたら、居ても立ってもおれんようになって、鈍間なワシじゃないみたいに体が動いたんよなぁ。あの時もそうじゃった」

 キョウジュは俺と言うよりも窓の外の夕闇に語り掛けるように遠い目をした。

「あの時って?」

「加奈ちゃんにプロポーズした時よ」

 脚色過剰な武勇伝を語るような厭ったらしさはなく、得意げに眉を動かせて笑った。

「怖いやら、恥ずかしいやらゆうとったらタミオに全部持っていかれると思うたら、全身からアドレナリンがぐわぁって出てよう、毛穴から湯気が出る感じよ。高揚していくと怖いもんがなんものうなって、気が付いたら加奈ちゃんの手を取って、婚姻届け貰いに市役所に行っとったわ。加奈ちゃんに何ゆうたか全然、おぼえてないけど、不思議と体が動いたんよなぁ」

「で、キョウジュは賭けに勝ったわけじゃ」

「ごめん。そういう話がしたかったんじゃないんよ。つまり…」

 正確に言うと、俺を追って尾道駅に来た加奈子を連れて逃げていれば、勝ちも負けもないし、一世一代に振り絞った勇気も全く徒労になる未来だってあったわけだ。あの頃の俺にキョウジュを幸福の絶頂から蹴落とす非道さと加奈子に外地で苦労させる厚釜しさがなかっただけの話だ。

 今だったらどうだろうか?

 加奈子はもういない。

 俺に奈々を奪い去ることができるか?

 台湾に行ったおかげで奈々が俺に望んでいることが何となく理解できた。ならば、それを行動に移す時、壁になるのはキョウジュだ。説得か、強奪か、逃走か、放棄か、幸い、手元にあるカードは一枚だけではない。

 しかし、この泣き虫で友情に篤いこの男にいずれかのカードを切らなくてはいけないという現実は素足で硝子の破片を踏みながら歩いているようにツラい。

 もう半年近く、欺いてきた。

 どこかでバランスシートを合わさなくてはいけない。

 いつまでこうやって笑って話せるのか?

  この穏やかな時が嵐の前の静けさに思えてきて、この休養が俺に与えられた最後の自由時間のようでその一刻が惜しくなるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る