第37話
ホテルへの移動中、丁度、これから行くホテルの近くに昔からあるドーナツ屋台の話で盛り上がっていたところに譚さんの携帯が鳴った。
最初は雑談の流れで、声が笑っていたが、だんだんシリアスな口調で「是的(はい)」などとトーンダウンしていき、「好。収下。馬上来(わかった。すぐ行く)」と電話を切ると、浮かない顔をして「タミオさん。残念なお知らせがあります」とバックミラー越しに自分が粗相をしたみたいに本当に申し訳なさそうな顔で言った。
「どしたん?改まって」
「仕事のトラブルです。今から税関に行って掛け合わないといけません。書類の不備なら部下だけでも何とかなるのですが、一寸ばかし厄介なようです。なので、ホテルまではお送りしますが、淡水にはお連れできません」
「何ゆうとるん?はよ行かんと」
「本当に残念です。タミオさんとはいいお友達になれそうだったのに」
「ええ友達じゃろう。一緒に飯食うて、取材に協力してもろうて、友達じゃなかったらなんなん?」
「ありがとうございます。そう言ってもらえるとうれしいです」
譚さんは深々と一礼した。
三越の手前の信号待ちのところで「困ったことがあったら電話しんさいや。絶対にで」と譚さんに俺の携帯番号を渡した。俺としてももう一人弟ができたみたいで、譚さんとの邂逅は隠そうとしても、堪えようとしても、思い出し笑いをしてしまうくらいの出来事だったからだ。生活には困っていないようだけど、当然のことながら、チップは財布が痛むほどに思い切りはずむことにした。これは一々、奈々に了承を請うようなことではあるまい。俺の気持ちだ。
意外とこじんまりとしたエントランスまで送ってもらい、名残惜しそうに譚さんと別れ、終始、日本語でチェックインをし、クラゲのようなシャンデリアの下と如何にも高そうなベーカリーの前を通り、エレヴェーターに乗るとベルボーイは「おかえりなさいませ」とこれまた日本語で俺たちを迎え、アサインされた十階の部屋はゴージャスな作りで、アメリカ人の家庭のリビングくらいの広さがある。奈々はルームツアーをしながら「すごい。お風呂は大理石だし、部屋は広いし、家具もピカピカですね」と感激している。
「奈々ちゃん。二十階に大浴場あるけど、どうする?淡水は五時半ぐらいまでに着いたら夕陽見れるけぇ、入っていく?」
俺は窓の外の南京東路の喧噪を懐かしそうに眺めながら訊いた。
「ウチ、お風呂は好きじゃけど、温泉あんまり得意じゃないんで、タミオさんだけどうぞ」
随分意外に思ったが、「一緒に出ようね」なんてお約束のしょうもないことを言わずに済むみたいだ。
「ほいじゃったら、ワシもよすけぇ、一緒に入ろ」
俺はシャワーの水圧をチェックしている奈々を後ろから抱きしめ、衣服を剝ぎ、そのまま生まれたままの姿で一緒にバスタブに浸かり、お湯がたまるのを待つ間、ずっと舌をからませていた。
本当のことを言うと、俺たちの前にチェックインしていたのがいかにも運よくチャイナバブルを引き当てた体の成金の大陸人一家だったので、あんな喧しいのと一緒に湯船に浸かったり、サウナに入ったりしたくなかっただけの話なのだが、奈々は存外喜んでくれ、俺はあんまりその気はなかったのだが、厭な顔や振りもできず、豊満なバストと後ろからで一度ずつ果てた。
ボディソープと奈々の甘い体臭が肌に移って少しこそばゆい気分で一時間半後にМRT中山駅から信義線で淡水に向かい、四十分ほどで淡水駅に着いた。
実を言うと、淡水に来るのは二度目で、前回は美齢に連れてこられた。漁人碼頭の情人橋から美しい夕陽を見ていると、恋人同士のような愛の言葉的なことを言わされそうになって焦った記憶が鮮明によみがえるが、今回はその風景を取材と言う名目で奈々に見せるのだから、一寸、複雑だ。
駅から出て左手に歩くと、すぐに淡水老街が広がる。昼間の迪化街ほどのレトロさはないものの、なかなか賑わい、オールドチャイナの雰囲気が薫る商店街を写真に収め、気になった商店があれば、俺に通訳を頼み、取材を進めてゆく。さっきまでの甘いバスタイムとのメリハリはなかなか気分の良いものだ。
遊歩道に出ると、おおかたの予想通り、奈々は驚いた。
「嘘?尾道?」
無理もない。
淡水河と対岸の八里との距離感が尾道と向島のそれにそっくりなのだ。即ち、淡水河が尾道水道、八里(因みに島ではない)が向島に見えるのである(規模もどことなく向島に似ている)。今朝、尾道を発ったばかりの奈々ですら異邦と故郷の風景の酷似にここまで驚愕し、言葉を失くしているくらいだから、俺がこの風景に出会った時の感情の起伏や情緒や望郷の念がどんなものであったか、しかも、尾道と違ってそこに夕陽が沈んでゆくのだ。これはきっと長く故郷を離れたことがある尾道の人間にしかわかるまい。それくらいにここは海側から向島を見た時の尾道を思い出させるのだ。
奈々は、動揺と歓喜を抑えながらもシャッターを切る。見出しは「台湾の尾道で美しいサンセットを見る」と言ったところか。そういえば、日中は雲が多かったのに、今は暮れ始めた空が青から薄紫に染まり美しい。やがて河に沈む夕日に塗りつぶされるだろう。天気が味方してくれた。
「奈々ちゃん。漁人碼頭まで行く?」
俺はフェリーターミナルを指さして訊いた。
「はい」
てっきり、取材の便宜上、遊歩道のどんつきのスタバに行くものとばかり思っていたが、あそこでは夕陽は遠くに部分的にしか見えないので、どうしたものかと思ったが、奈々の直感はほどほどに冴えていた。
漁人碼頭までは頑張れば歩けなくはないのだが、移動と日中の取材で疲れているだろうからフェリーで向かった。平日なので、デートの恋人もまばらで、情人橋が週末のようにすし詰めのラッシュアワー状態ということもなさそうだ。奈々はずっと夕陽の沈んでいく台湾海峡を撮り続けていた。
桟橋から百メートルほど歩いて情人橋に行くとカップルはそれほどおらず、どっちか言うとカメラが趣味の地元のおじさんが多く、俺と奈々に対する視線もあってないようなものだった。
台湾海峡に沈んでゆく夕陽は苛烈さのない冬のそれとは言え、大きく、美しく、赤と言うよりも空と海をオレンジ色に染めてゆく。スタバではこうはいかない。帰国するのを拒否したくなるほど滅び沈みゆく者の憐れさを感じる。函館山に沈むピンクサファイヤのような夕陽やマラッカ海峡に沈む真っ赤に燃えた夕陽とも違う。ただ一つ言えることはそれは紛れもなく「美しい」ということだけだ。
案の定、奈々は写真を撮り続け、同時にキャプションを考えているのだろう。夕陽に灼けているような奈々の横顔はこの世の終わりを想起させるほど、儚さが俺の五感に突き刺さる。こんな横顔を見ると、どんな卑怯な手を使ってでも奈々を此岸に引き留めておきたくなる。
だが、仕事を邪魔することは許されない。
「奈々ちゃん…」
俺は行き場なく抱いている感情を全て吐露するように、奈々ではなく、夕陽に向かって呟いた。
返事はない。
やがて海に消えた夕陽が残した悲し気な余韻と虚しさが容赦なく襲ってきたので、つーんと一筋の涙が頬を伝った。それは夜の孤独を知る涙であり、奈々が俺と言う現実に帰ってくるまでに殺すべき涙だ。
奈々に淡水の夜景も見せよう。
俺が泣いていたなんて決して悟られないように。
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