第36話
俺がつい一年前まで台湾で働いていて、北京語も堪能と知ると、譚さんは余計に親しみを感じてくれたようで、「それじゃ、タミオさん。あそこ知ってます?友人の店なんですよ」なんて共通のローカルトークに興じ、「最初、『早上好』ってゆうたら大陸人と間違えられて往生したわ。大陸漢語と台湾国語は完全不一様なんじゃねぇ」、「ははは。就是ですよねぇ」なんて俺と譚さんの会話がだんだんルー大柴の北京語版のようになってきたので、奈々が思わず吹き出した。会話に入れないもどかしさや漠然とした嫉妬よりも可笑しさのほうが勝ってしまったようだ。
平日の昼下がりだけあって、迪化街商圏に入ってもほとんど道は混まず、奈々は日よけの回廊のあるレトロな商店街に創作意欲を刺激され、車を降りて、この漢方薬と干物の匂いが強めに漂う街並みをあらゆる方角から二分ほどシャッターを切っていた。永楽市場の近くに行きつけの海老飯屋があるので、この周辺は俺自身、割とよく来たほうだが、街並みや建物を見て感じるものは余りなかった。感性の差が人生の差なのかと思うと些か切ないものがある。
道なりに南に下っていくと霞海城隍廟は左手に現れる。
日本の寺院はモノトーンの陰翳礼賛でタイやビルマのそれはキンキラキンのキンだが、台湾は赤系の色彩で如何にも御利益がありそうだ。
さて、今回のメインイヴェントだ。張り切って取材しようと降り立ったものの、俺も奈々も参拝方法を知らない。
記事にするならそこは絶対に押さえておかなければいけないのに、困ったことになったと気まずそうに見詰めあった。線香とお供え物を買って神様に「私はどこの誰それで」と自己紹介するのはおぼろげながらに知っていたが、手順を踏まず、或いは、間違え、神様に願いをシカトされてしまうのはまずいし、それよりも正確な情報を出せないのは情報誌としては絶対にやってはいけないことだ。
「あのう。私がご指南しましょうか」
見かねた譚さんが声をかけてきた。譚さんならば、こんなところに来なくても常に彼女の一人や二人いそうなものだが、ああ見えて、縁結びの神月下老人様に縋ったことくらいあるのだろう。
「お願いできます?」
「お安い御用ですよ。お二人の未来が掛かってますからね」と爽やかに笑う譚さんの言葉に今更ながらこんなことに気付いた。
――ひょっとして奈々は俺との結婚を望んでいるのか?
美齢のこともそうだが、俺はどうして女のことになるとこうも鈍いのだろうか?奈々の俺への想いに気付いたのも裕ちゃんの一言だったし、奈々がここで願をかけるべき相手がいるとしたら俺しかいないし、他にいるとするなら、俺はとんだ道化師だ。
我ながら間抜けだ。
俺は天を仰いだ。
「タミオさんは、早速、神様に語り掛けているのですね。信心深いことはいいことです」
奈々に五十元のお参りセットを手渡しながらそのように誤解した譚さんは嬉しそうにしている。この善意が服を着てるような会えたのが奇遇とは思えない人に会えなかったら、俺が周囲に質問しながらの途切れ途切れのぎくしゃくした参拝になったのかと思うと、冷や汗が出る。
「タミオさんはお参りしないんですか?」
「写真は誰が撮るん?奈々ちゃんが祈る写真は絶対にいるじゃろ」
「私、撮りましょうか?参拝を教えるついでです」
全く、譚さんには感謝しきりだ。
やはり、参拝にはちゃんと順路とルールのようなものがあるようで、まず三本の線香全てに火を点け、入口の龍の形をした黒い香炉の前で線香を頭の上に掲げ、三度お辞儀し、名前と住所と願い事を天公(天の神様)に伝える。この場合の言語は日本語で大丈夫なのだそうな。考えたら、大黒様も布袋様も日本の神ではないのでその辺はおおらかなのだろう。
次に廟に入り、台にお供え物を置き、土地の守り神である城隍爺にさっきと同じように祈りを捧げると、次はいよいよ縁結びの神様月下老人だ。
さて、困った。
果たして俺は「奈々と幸せな結婚ができますように」と祈るべきなのだろうか?
ラップラオのマイちゃんの時も結局、それが面倒くさくなって逃げ出したようなもんだし、美齢を避けていたのだって、加奈子を意識するということは、美齢を運命の女として受け入れなければいけなくなるのが怖かっただけだ。
奈々はどうか?
譚さんは禿頭で立派な顎髭を蓄えた愛嬌のある月下老人の像の前で真剣に祈る奈々を写真に収めている。
祈る女は美しい。
それは醜女であれ、老婆であれ平等に美しいのだ。古代から女はずっと父や夫や息子が狩りや漁や農作業や労役や戦争から無事帰って来れるように朝に夕に祈り続けてきた。だから女は賢いし、尊いし、美しいし、神に近いのだ。そんな決して綺麗ごとではない悠久の歴史を奈々は祈ることで体現しているのだ。たとえそれが神の意にそぐわないようなエゴに溢れた願いだとしても、やはり、祈る奈々は美しい。今更ながら恋に落ちてしまいそうだ。
結局、俺は頭を下げることはしたが、何も願わなかった。強いて言えば、「今、奈々が願ったことが全て叶えられるように」という偽善者のええかっこしいのような、月下老人様からも「お前さん、気障だねぇ」と失笑されそうな願いを込めた。
廟に祀られている他の全ての神に手順通りに祈りを捧げ、最後に外に出て本殿に向かって祈り、さっきの一番最初に参拝した香炉に線香を挿し、お参りセットについていたお守りを香炉の煙にかざして時計回りに三回回し、お守りは肌身離さず持つ。これで参拝は終了だ。
「お疲れさまでした。うろ覚えでお粗末様でした」
「いえいえ。譚さんのおかげですよ」
「ホンマそうよ。ワシ一人じゃったらお手上げじゃったわ。譚さん。その辺でお茶でも飲みます?疲れたじゃろ」
「私は大丈夫です。そろそろいい時間なんでホテルに向かいましょう」
譚さんは何かを成し遂げたような誇らしげな顔で俺と奈々を車に促した。
「タミオさんは何をお願いしたんですか?」
奈々はレンズを絞り、ファインダー越しに見える本殿を覗き込みながら俺に訊いた。
「奈々ちゃんと同じことじゃ」
俺は奈々に初めて嘘をついた。
でも、その嘘は決して奈々を不幸にする嘘ではないはずだ。
まだその覚悟はないなどとは言えないが、望もうと望むまいときっとその日は来るような気がする。
「そんな、タミオさんったら…」
色白な奈々の頬が薄紅色に染まった。
この流浪に疲れ果てた人生にもこんな甘酸っぱい場面があることに俺は傷ついても生きてみるものだな、と些細な果報に酔った。
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