第35話

 譚さんが連れて行ってくれたのは、高速を降り、重慶北路を南に下り、件の迪化街の最寄り駅のМRT大橋頭駅を過ぎ、ほとんど台北駅の近くの華陰街にある魯肉飯で有名な「大稻埕魯肉飯」だった。

 魯肉飯というのは、豚肉のヒレやロースや三枚肉を買えない貧民が屑肉を美味しく食べようと試行錯誤して作り出した台湾のお袋の味ともいえる料理で、その成り立ちはアメリカにおけるハンバーガーに少し似ている。全体的に茶色で脂っぽく見えるが、日本人の舌にも合うし、店によっては沢庵が付いてくるところもある。

 店は一寸、綺麗目の食堂と言う感じだが、意外とイートインスペースは広く、対応もよく、日本語メニューまである。

 多分、女性目線というか、奈々の感性では絶対に辿り着けなかった店だと思うが、譚さんに託したのが正解だったと言わんばかりに、その風景と息遣いを伝えるべく、その一コマ一コマを一心不乱に写真に納めてゆく。

「奈々さんは写真家か何かで?」

「フリーペーパーの編集員よ。取材ゆうたら目の色が変わるんじゃけ」 

「私は、日本人でも台湾人でも仕事のできる女性は数多く見てきましたが、あんなに澄んで、嬉しそうな目をして仕事をする女性は初めて見ます」

 譚さんは奈々の仕事に対する姿勢と目を褒めながら、注文票を書き込んでいた。覗き込むと、彩を考えてか、女性の好みを考えてか知らないが、きゅうりの酢漬けや青菜なんかもちゃんとオーダーしている。

「タミオさんと奈々さんは何飲まれます?私は車なんでお茶にしますが、お二人は気になさらないでくださいね」

 飲み物の欄には缶のアップルサイダーと台湾ビールとこの店オリジナルのアイスティがある。俺は当然、ビールに行きたいところだが、奈々は恥ずかしそうにお茶を選択した。流石に表面では女子旅なので、昼酒はまずいのだろう。

 お茶とビールで乾杯し、心底嬉しそうな顔をする譚さんを見て、一計を思いついた。

 俺はトイレに行く振りをして、義晴に電話し、吉川さんの連絡先を聴きだした。実は、東京で吉川さんに世話になった台湾人と台湾で偶然会って、今、一緒に食事をしているという話をしたら、「兄さん。そりゃええ。是が非でも連絡しちゃってぇや」と言うことだったので、俺はシンキングタイムなしに吉川さんに電話を入れ、「もしもし。吉川さん?タミオです。広島では色々、ありがとうございました。お元気でしょうか?あははは。ワシにソムリエは無理ですよ。そうじゃ。今ねぇ、吉川さんの息子と電話換わります」

 俺は片目を瞑って、きょとんとしている譚さんに「譚さんの日本のお父ちゃんじゃ。ゆっくり話しんさい」とスマホを手渡した。

 最初は戸惑い、何か厭なものでも押し付けられたようにしていた譚さんだったが、電話の声の主が吉川さんだとわかると、懐かしい歌でも聴いたみたいにゆっくりと涙が溢れ、しばらく口が利けなくなったように黙って吉川さんの話に耳を傾け、恭しく「はい」と返すのがやっとのようで、その感動を言葉に出すのを阻むものを俺は何とかしてやりたいとすら思ったが、そこは譚さんと吉川さんにしかわからない世界が存在するので、俺と奈々は黙って、且、好意的に見守っていた。

「はい。もちろんです。必ず会いに伺います。日本はまだ寒い時期が続きます。お父さんも風邪などお召しにならぬよう」

 最敬礼で電話を切ると、譚さんは余韻もそこそこに「タミオさん。初対面の私にこんな心温まる気遣いを。なんとお礼を申していいか」と目を潤ませて手を握ってくるので、「ワシは人に喜んでもらうんが好きなだけじゃし、吉川さんにはこまい頃、よう遊んでもろうたけぇ、恩返しじゃ。気にせんでええよ」とわざとそっけなく答え、ビールに口をつけた。苦味の薄い台湾ビールの金牌が優しくはらわたに落ちる。

「さぁ、食べようや。目玉焼きの乗った魯肉飯ははじめてじゃ。奈々ちゃん、先に写真撮る?」

「はい」

 魯肉飯、豚足の煮込み、青菜のニンニク炒め、きゅうりの酢漬け、白菜の漬物といった茶色と白と緑しかない素朴な食卓だが、なぜか義晴以外にも生き別れた家族がいて、その家族と円卓を囲んでいるような気分になる。日本人が台湾に対して感じる親和性は意外とこんなところにあるのかもしれない。また、逆の場合もそうなのかもしれない。

 吉川さんと譚さんの因縁と言うべきストーリーと電話での再会を挿んだ後での魯肉飯を奈々のフォトグラフは雄弁に何を語るのだろうか?それともそこにあるのは無粋を嫌った沈黙なのだろうか?俺自身、何の期待もしてなかったこの台湾での取材が段々、神に命じられた有能なストーリーテイラーの書いた、或いは、仕組んだドラマのように思えてきた。ゲラがあるなら読んでみたいが、何となく、結末は知らないほうがいいような気がした。

「いい。この特別じゃないところがいい」

「奈々さんからどうぞ。黄身は潰してまぜまぜです」

 譚さんのようなスィートなハンサムガイが「まぜまぜ」なんて言葉を使うと、大概の婦女は「ギャップ萌え」なんてことになりそうだが、奈々は冷静に箸で黄身を潰すところを写真で撮り、黄身がよくなじんだところで小さめの一口。軽い咀嚼だけで「ん」という表情になり、「うわ。懐かしい味」と評した。

 これ不思議なのは日本に似た食べ物はないはずなのに、魯肉飯を食べた日本人の第一声は「美味しい」より「懐かしい」が多いのである。俺はタイのカイパローに似てると具体的に味の近似値を示すことができるが、この「懐かしい」に何か気付きとヒントが隠されているような気がしないでもないが、そこまで追求すると取材の意図が変わってしまうので、自分で思うだけにとどめた。

「気に入ってもらえましたか?」

「ええとても」

 奈々は初めて食べる台湾料理がまさかこんなに家庭的な食べ物で、懐かしさまで感じるなんて思っていなかったようで、年齢の割に贅沢を知り尽くしている人間の反応としては次に出てくるものが何であれ、少しかわいそうになるくらいの高得点を叩き出していると言える。

「食欲ない時はよう乾麺や油飯に生卵入れようたけど、魯肉飯でも合うんじゃね」

「卵だけに何でも丸く収まるんですよ」 

 譚さんは笑った。

 たいして面白くもないのだが、あまりにも日本語が流暢なので、日本語が譚さんにとって外国語であることを忘れそうになる。本来なら愛想でも笑ってあげるべきだろう。逆に譚さんから見た俺はまだ台湾で働いていたことは話してないのに、俺から現地の発音で「油飯」なんて単語が出ても全く驚かない。それとなく気付いているのか、それとも、偶然が重なりすぎてアドレナリンが出て気付かないのか。

「そうだ。タミオさん。この時間だとまだホテルに入れないでしょう。ついでに行きますか?霞海城隍廟に」

 明日と明後日に空港に移動するまでは、天気か体調が思わしくなかった時の予備日だったが、宿題は早くやってしまったほうがいいだろうし、ここから三キロくらいしか離れていない。この提案はありがたく受け入れるべきだが、お伺いを立てなければ。

「奈々ちゃん。どうする?」

「こんなによくしてもらったんで、廟の前まで車でお連れしますよ」

「そのあとは夕陽見に行きますけど、譚さん、連れて行ってくれます?」

「勿論」

「よし。決まりじゃな。あれ?もうビールがない」

「タミオさん。飲みすぎはいけんよ。ビールは一本だけですよ」

 すると、譚さんは「タミオさんは気管支炎ですね」と言ってニヤけた。

「残念ながらまだ奥さんじゃないんじゃ」と返したら、流石に譚さんは俺が現地の言葉がわかると初めて理解した。

 北京語では「気管炎(気管支炎)」と「妻管厳(恐妻家)」は発音が同じで、大体の場合、人をからかう時や冗談で使用される、ということを奈々に説明したら、照れて下を向いてしまった。

 口うるさい世話焼き女房の未来が見えたのか、それとも、譚さんに俺の奥さんだと思われたのがうれし恥ずかしかったのかはわからない。

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